10. ぼんやりした味のスープ
翌朝、早めに目を覚まして隣の寝台を見ると、イルヴァはまだ眠っていた。普段は寝室を分けているが、基本的にはノアの方が起きるのが早いから、こうして寝顔を見るのは珍しいことではない。それでも昨夜の様子を思い出せば思わず頬が緩んだ。
そもそもあの夜、フレデリクたちの邪魔さえ入らなければ、どこまで自分を抑えきれたか——そもそも抑える気があったかさえ——自分でもわからなかった。
起き上がり、イルヴァの寝台の端に腰掛ける。眠りが深いのか、やや沈み込んだその重みにも気づく様子がない。横を向いて、小さな子供のように丸くなって眠る様子は初めて会った時から変わらない。遅く起きて、早く眠る。さらには昼でもふと見れば眠っていることがある。
一度念のためにと
以前はよくうなされていたが、今はただ穏やかに眠るその頬に手を伸ばす。滑らかな頬を撫で、それから首筋に触れるとくすぐったそうに身じろぎしてその唇がわずかに開く。それでも目覚める様子がないのに悪戯心が湧いてきて、顔を寄せると、唇が触れる直前で、見計らったかのように冬の空のような瞳が開いた。
茫洋としていたその視線が彼の瞳を捉えると、驚いたように目を見開いて、それでもじっと見惚れて動かない。初めて会った時から、イルヴァはなぜかそんな風に彼の眼に見入ってしまう。
——まるで、一目で恋に落ちたとでも言うように。
本人は絶対に認めようとはしないだろうけれど。
「ようやくお目覚めか、お嬢さま?」
ニヤリと笑ってそう言うと、直前の甘い表情はどこへやら、途端に心底嫌そうに顔を顰める。
「冗談でもやめて」
「だが、あながち冗談でもないんだろう?」
どうやらイルヴァが侯爵の娘だということだけは間違いのない事実らしい。肩をすくめてそう応えると、その瞳が穏やかな冬の空から、凍てつく湖のように変わって明らかな怒りを浮かべる。身を起こして、まっすぐに彼を見つめ、今にも震え出しそうな声ではっきりと告げる。
「私は私だよ、他の誰かじゃない。私を捨てた上に、強引に連れ去ろうとする男が父親だなんて、絶対に認めない」
思いのほか強い拒絶に驚きながらも、その頭を抱き寄せると胸元に拳が叩きつけられた。宥めるように背中を撫でると、びくりとその身を震わせる。それから、小さな声が聞こえた。
「ノアは——ノアだけは、そんなこと言わないで」
「……俺だけは?」
問い返すと、額を彼の肩に押しつけたまま、指が白くなるほどに襟元を握りしめる。その首筋は頼りなげに細く、そして微かに震えているように見えた。
「あなたがあの怖い夜から私を助け出してくれたのに、私の居場所が他のところにあるなんて言わないで」
——どう聞いてもそれは告白にしか聞こえないのに、本人は意識すらしていないのだろう。
その無自覚さに免じて、彼は、もう少しだけ気のいい保護者を演じてやることにする。
「はいはい。お前、そんなに俺の家とメシが気に入ってくれたわけな」
「そういうことを言ってるんじゃ……!」
ようやく上がった顔を両手で包み込むようにして、何度も、ただし軽く口づけるにとどめる——残念ながら、それ以上をするには余計な気配が感じられたので。
「その先は、帰ってから聞かせてくれ——邪魔が入らないところでな」
言いながら振り向けば、エマが部屋の入り口に立っていた。相変わらずにこやかな笑みを浮かべているが、この女性がその外見より遥かに強かで曲者だということを、彼はすでに気づいている。
「……お邪魔してしまって申し訳ございません」
「ノックくらいはして欲しいもんだな」
「扉ではさせていただいたのですが、何分広いお部屋ですから聞こえづらかったでしょうか」
どうだか、と内心で呟いて立ち上がる。ノアの背はだいぶ高い方だから、小柄なエマの前に立つとほとんど大人が子供を見下ろすような形になる。
「それで、何か用か?」
「朝食の準備が整いましたので、お呼びに。それともこちらに運ばせていただいた方がよろしいでしょうか?」
「悪いが、俺たちはこのまま
彼の言葉に、エマだけでなくイルヴァも驚く気配が伝わってきた。視線を向ければ怪訝そうに見返してくる。
「あの男の話を聞く限り、今すぐにどうこうするような危険が迫ってるわけじゃなさそうだ。それに、お前の母親は『お前を守るために』お前を連れてここを去ったんだろう? なら、ここはそもそも安全な場所じゃないはずだ」
「それは……」
「あの男が、自分の娘に会いたいという気持ちは、百歩譲って理解できなくもない。だが、お前はここにいることを望まない。なら、俺たちはここを一刻も早く立ち去るべきだ」
「朝食を召し上がる猶予もございませんか?」
「俺たちは招待されたわけじゃない。もし、本当に俺たちを気遣うつもりなら、もう構うな。本当にイルヴァを想うなら、改めて出直してこい。殴って攫った後に父親の名乗りを上げるなんてのは、俺が思うに史上最悪の
最後の言葉は扉の向こうの気配へだった。わざとらしい咳払いが一つ二つと聞こえたが、ややして足音は部屋には入らず、そのまま去っていった。それに気づいたのか、エマが深いため息をつく。
「仕方が……ないでしょうか。旦那さまは、深く反省なさるべきですね」
「そう願いたいね」
口の端を上げて笑った彼に、エマは少し残念そうに、それでも品よく笑って頷いたのだった。
そのまま着替えを済ませ、エマの案内で城を出た。昨夜はほとんど必死だったから、あまり外観を見る余裕もなかったが、国境の防備を任されているのかその威容はなかなかで、潜り込めたことは今思えば奇跡のようだ。まるで、何らかの力が働いていたかのように。
「ノア?」
イルヴァの声に我に返る。今は考えても仕方のないことだ。何でもないと頷いて見せて、その城をあとにした。
それから昼前まで歩いて、辿り着いた国境の街で食堂に入った。朝から何も食べずに歩き詰めだったから、そろそろ何か腹に入れておきたいと入ったその店は、旅人も多く特に警戒される気配もない。ただ、イルヴァの容姿は目を引きそうだったので、外套のフードは被らせたままにしておいたが、何人か似たようないでたちの男たちもいたので気にする者はなかった。
テーブルには少し硬そうなパンと、根菜と牛肉のスープ、それから
「朝ごはん、やっぱり食べてくれば良かったのに……」
少しばかり恨めしそうな顔でこちらを見上げてくる。あれだけ辛そうな顔をしていたくせに、食事は気に入っていたらしい。だが、食事で不満を述べられる程度には気分が回復していると言うことだから、よしとすることにした。自分がイルヴァに甘いことは自覚の上だ。
「まあそう言うなよ、こっちは美味いぞ」
「本当だ。この緑の、美味しいね」
イルヴァも気に入ったのか、その表情がわかりやすく明るくなり、パンの上にこんもりと乗せてかぶりついている。口の端についた緑色を拭ってやろうと手を伸ばすと、びくりとその肩が震えた。
「あ……それくらい、自分でできるよ」
ごしごしと白い頬が赤くなるまで手の甲で擦っている。その理由に気づいて、ノアは頬杖をついたまま、あえて人の悪い笑みを浮かべた。
「
言い返されるかと思ったのに、その頬が真っ赤に染まって固まっている。彼の眼に見惚れているのともまた異なるその反応に、思わず首を傾げると、ややしてぐいとグラスの葡萄酒を一気に呷る。
「おい、やめとけって……」
もともと酒に強い方ではない。それでなくても情緒の安定していなさそうなこの状況で、不用意に酒を呷ればその後どうなるかは容易に想像がついた。だが、イルヴァは仄かに赤い顔で、黙々とグラスを空けていく。
今ひとつ味のしないスープとその中に浮かぶ肉を咀嚼しながらその様子を眺めていたが、半刻もしないうちに外套を被ったままの頭はテーブルに突っ伏した。ここが宿屋を併設している店でよかったな、と内心で呟く。
店主に食事の代金を払い、ついでに空いている部屋を尋ねると、ちらりとテーブルに倒れ伏したままの姿に視線を向けたが、それなりの料金で前払いを求められた他は、特にそれ以上何かを言おうとはしなかった。
イルヴァの食事が中途半端なままだったが、牛肉のスープは残念ながら口に合いそうになかったので、余ったパンと追加で緑の
イルヴァが目を覚ましたのは日が暮れる頃だった。むくりと起き上がり、ぼんやりとあたりを見回している。どこにいるのかさえ、わかっていないのかもしれない。椅子から立ち上がり、傍に立つとぼんやりした眼差しのままこちらを見上げてくる。初めて彼の家に来た頃と同じような、迷子のような顔で。
「ノア?」
よく見れば、その瞳にわずかに涙が浮かんでいる。頬に手を伸ばすと、びくりとその体が震えた。寝台の端に腰掛けて抱き寄せると、素直に頭を預けてくる。
「怖い夢でも見たのか?」
「……わかんない」
イルヴァはよく「わからない」と口にする。もともとあまり深く物事を考えない
「お腹すいた」
「何か食うか?」
「あのスープ……美味しくなかった」
率直な感想に思わず笑みが漏れる。自分では全く料理をしないくせに、その舌だけは素直で美味いものとそうでないものはその態度でいつも明らかだ。
「鰐梨の添え物とパンならあるぞ」
「……食べる」
のっそりと寝台から起き上がり、椅子に座るともそもそと食べ始める。ややして、じっとノアの方を見つめた。
「どうした?」
「早くノアの家に帰りたい」
帰りたい、というその言葉に、どきりと心臓が高鳴った。ほんの数週間前まではお互い顔も知らない他人同士だったのに、ノアだけでなくイルヴァにとってもあそこが帰る場所だと認識されていることに、驚くほど喜んでいる自分を自覚する。
「ここの飯がまずいからか?」
「ノアの作ってくれるごはんと、アクセルのパンと、あったかい暖炉と、全部好き」
子供のように言うその顔は、いつもよりぼんやりしていて妙に素直だ。またしても頬にパンくずと緑色をつけたまま、ふわりと無邪気に笑うその顎を引き寄せる。
「やけに素直だな」
顔を近づけてニヤリと笑いながらそう言ったのだが、イルヴァはいつになくひどく穏やかな表情でじっと見つめてくる。
「ノア」
「何だ?」
「また、助けてくれてありがとう」
「今回は、格好良かったろ?」
片眉を上げて笑って見せたが、イルヴァの表情は静かなまま変わらない。
「あの時も、格好良かったよ」
何の衒いもなく見つめてくる穏やかな冬の空を映したようなその瞳に、むしろ彼の方が動揺する。それを何とか押し隠して、その額に手を当てる。
「……熱でもあるのか?」
「そうかも」
つぶやいてから、手に持っていたパンを皿に置く。それから軽く手を払って、ノアの顔をその白く美しい手で引き寄せた。
「何にも解決してないし、わからないことだらけだけど、でもノアが来てくれて嬉しかった」
「……当たり前だろ?」
あの時、アクセルに叩き起こされて、イルヴァがいないことに気づいた時、心底肝が冷えた。何としても取り戻す、それ以外は何も考えられなかった。だから、あの男の部下を見つけた時には、危うくその瞳の力を使い過ぎて殺しかけた。というより、アクセルが止めなければ確実に殺してしまっていただろう。
彼にとってもどうしてそれほどまでに惹かれるのか、正直なところはわからない。それでも、誰よりも何より大切だと、それだけで十分な気がした。
内心の声が聞こえたかのように、イルヴァが少し驚いた顔をして、それから、もう一度、いつもまとわりついていた、どこか凍りついた雰囲気が嘘のように無防備に笑う。
「早く帰って、ノアのごはんが食べたい」
あまりに素直なその言葉に、酔っ払ってるのか、とか寝ぼけてるのか、という軽口混じりの疑問が喉元まで出かかったが、そんなことを言えば機嫌を損なうのは目に見えていたから、何とか飲み込む。そんな彼の戸惑いをわかっているのかいないのか、イルヴァはほんのわずか笑みを深くして、顔を近づけてくる。
初めてのイルヴァからの口づけは、ひどく甘く感じられて、その後、ノアは自分の理性を総動員する羽目になったのだが、それはまた後の話。
Chapter 1, Fin.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます