9. 食後のデザート #2

 その言葉に、ノアが大きく目を見開く。それと共に毒気が抜かれたかのように、紫の瞳がいつもの穏やかさを取り戻し、フレデリクの体から力が抜けて短剣が床に落ちて、からんと空虚な音を立てた。


 叫んだ人物——エマはフレデリクに駆け寄ると、首筋の傷をあらためる。

「それほど深くはございませんね。いずれにしても、日頃の行い、身から出た錆ですわね」

「……それが主人に対する言葉か?」

「旦那さまはいつも言葉が足りないのです。私の半分でも見習ってくださいまし」

 つんと、それでも微笑んで言い放つエマに、フレデリクはまだ青ざめてはいたがなんとか立ち上がり、ノアとイルヴァに向き合った。

「ノア……だったか。どうやってここへ」

「あんたの部下がうろうろしてたからな、案内してもらったんだよ」

「その瞳……一体」

 怪訝そうに顔を顰めたフレデリクの首に、エマは手早く包帯を巻きつけると、またにこやかに微笑んだ。

「とにかく、お客様をお迎えしたのですもの、お席についてくださいませ。まだ料理もたくさんございますし、デザートもこの通り。ええと、ノアさま、とおっしゃったかしら? 旦那さまのご無礼のお詫びにたくさん召し上がってくださいませね」

「エマ、勝手に話を進めるな」

「お黙りください。お客様のご案内アテンドは私のお役目ですからね」

 有無を言わさぬ笑顔に、フレデリクもノアも何も言えずにただテーブルにつくことになったのだった。


 ノアと二人並んで座り、向かいにフレデリクも腰を下ろす。ノアはしばらく所在なげにしていたが、ふとイルヴァに目を向けて、頬に触れてきた。

「怪我は?」

「大丈夫。ノアこそ……」

「そんな顔すんな。ちょっと打ち身くらいなもんだ」

「本当に?」

 じっとその紫の瞳を覗き込むと、ノアはどうしてだか目を見開き、それからちょうど攫われる直前にしていたのと同じように、困ったように微笑う。

「そんな顔するなよ」


 顎をすくい上げられ、他人フレデリクの目の前だというのに構わず唇が重ねられる。軽く重ねられるだけでなく、舌で唇をこじ開けて深く貪るようなそれに驚いていると、わざとらしいフレデリクの咳払いが聞こえた。


「状況と場所を弁えたらどうだ?」

「文句があるなら今すぐ帰らせてもらうさ」

「帰れるとでも?」


 冷ややかに言い放ったフレデリクに、だがノアは簡単なことさ、と言いながらイルヴァに向けていたのとは全く異なる獰猛な笑みを浮かべる。


「あんたの息の根を止めて、それで終わりだ」

「お前のその眼、さほど広範囲に効果があるとは思えぬが」

「あんたが死ねば、この城は混乱に陥るだろう。ましてや、その死因がならな。その隙に抜け出すのなんて訳ないさ」


 顔は笑っているが、その瞳に浮かぶ光はイルヴァがそれまで見たことがないほど冷ややかだ。一触即発の空気に耐えかねて、イルヴァが口を開こうとした時、天からの助けのように穏やかな声が割って入る。


「お待たせしました。鶏の丸焼きロースト——焼き立てではなく温め直したもので申し訳ありませんが——とパンに、野菜の煮込み、それから葡萄酒と乾酪チーズと塩漬け肉の盛り合わせもお持ちしました」


 手際良く並べられていく料理は温かな湯気を立てていて、見ているだけで体が温まる気がする。すでに晩餐は終わりかけだったはずだが、これだけのものをどうやって用意したと言うのだろうか。

 疑問が顔に出たのか、エマがにっこりと笑ってイルヴァのグラスにも葡萄酒を注ぐ。


「旦那さまはこんな顔をしてらっしゃいますが、なかなかの食道楽グルメですので、調理場はいつでもこれくらいの準備をしているのですわ」

「贅沢な話だな……」

 呆れたように言いながらも、ノアはためらう様子もなくグラスに口をつけながら、乾酪チーズとパンに手を伸ばす。

「ノア、警戒心とかないの?」

「お前だって食ってたんだろ?」

「……なんでわかるの?」

「わかるさ。腹が減ってるときは、もっと不貞腐れた顔をしてるだろう。今は、美味いものを食った後の顔だ」

「……ノアのごはんの方が美味しいよ」


 何となく、呑気に食事をしていたことが憚られるような気がしてそう呟くと、ノアは一瞬まじまじとイルヴァを見つめ、今度は短く口づけられる。仄かに葡萄酒の香るその口づけは、何よりも雄弁だった。


「お前が無事ならそれでいい」

 言って、じっと紫の瞳がイルヴァを捉える。安堵しているはずなのに、何やら胸のあたりがざわつく感覚に心臓が早鐘を打ち始めて、イルヴァが思わず視線を逸らすと、笑う気配が伝わってくる。

「逸らすなよ」

 耳元に触れそうなほど唇が近づいて、ますます頬が熱くなるのを感じる。どうしていいかわからず、その顔を手で押しやると、くすくすと笑う声が聞こえた。

 目を向けるとエマが楽しげにこちらを見つめている。

「仲がよろしいのね」

「まあな。そういえば、その人攫いがイルヴァの父親ってのはどういうことだ?」

 エマとフレデリクに交互に視線を向けてノアが尋ねると、エマが我が意を得たりというようにもう一度にっこり笑う。

「奥さまにとっては、旦那さまがノアさまのような存在だったのですよ」


 かつて、この国ではフレデリクが語った通り、魔力を持つ者を襲う「魔女狩り」が横行していたらしい。ある日、狩りに出ていたフレデリクはその現場にたまたま行き合ってしまう。小さな森の小屋に押し入る男たちと、引きずり出された美しい女性。

 まだ爵位も継ぐ前の少年だった彼は、とっさにその女性の手を引き、馬に乗せて逃げ出したのだという。


「それがイルヴァの母親か?」

「まあ、そういうことですわね」

「救い出して手込めにした?」

「人聞きの悪いことを言うな!」


 声を荒らげたフレデリクの横で、エマは肩をすくめながら人の悪い笑みを浮かべている。


「こんな顔ですけれど、旦那さまは奥さまに一目惚れでしたの。それから二年もの間、何くれとなくお世話をなさって……ついにあの方も絆されたのです」

「だが、出ていったんだろう? 生まれたばかりの娘を連れて」

「止むに止まれぬ事情があったとお聞きしております」

 ちらりとフレデリクの方を見ながらも、エマはそれ以上は語ろうとはしなかった。

「でも、私がその人の子供だっていう証拠あかしも何もないでしょう?」

「間違いない」

 そればかりはフレデリクが苦虫を噛み潰したような顔のまま断言する。イルヴァが視線で問うと、何か不満でもあるかのようにため息をついた。

「お前はあれに瓜二つだ。見紛うほどにな」

「それで、強引に攫ってしまわれたのですねえ」


 エマがやれやれ、と呆れたように言う。これまたどういうことか、とイルヴァだけでなくノアまでもがじっとエマを見つめると、困ったように頷いた。

「旦那さまのことですから、傷ついて迷っておられたイルヴァさまを助けるつもりが、この恐ろしい形相で相当に脅かしてしまわれたのでしょう? ノアさまが助けてくださったからよかったものの」

「よかった……のか?」

「そのままお連れになっても怯えられただけでしょう。あなたが身を挺してまで守り、そして癒してくださったからこそ、こうして今穏やかに過ごせているのではないですか?」

 最後の問いは、イルヴァに向けられたものだった。


 確かに、と思う。村を焼き払われ、山の中を独りでさまよい、ほとんど何も考えられないほどに絶望していた。そこにフレデリクが現れ、強引に連れ去ろうとした。あの夜、雨が降り頻る中だというのに、ノアの紫の瞳だけがどうしてだかはっきりと見えて見惚れ、そうしてイルヴァは全てを彼に救われたのだ。


 隣に座るその人の顔を見上げる。無造作に伸びた黒い髪に、無精髭。いくつも増えた傷跡。フレデリクに比べれば、どう見ても粗野で与える印象は決してよくはないはずなのに、それでも初めからイルヴァにとっては、その腕の中は安心できる場所だった。

 すとん、と何かが腑に落ちた気がした。同時に、心の奥底でまだ素直には認められず、沈めていたその想いの名にも。


 ぼうっとノアに見惚れていると、またエマの笑う気配が伝わってきた。

「良い方に救われてなによりでございました。けれど、イルヴァさまの姿を見て、旦那さまはどうしてももう一度会いたくなってしまった、そんなところでしょう?」

「つまり、攫うと言うよりは、助けるつもりだったってことか?」

「最初からそう言っている」

「……不器用かよ」

 呆れたように言ったノアに、イルヴァもうんざりとため息をつくより他なかったのだった。



 和やかとは言い難い食事を終え、さすがに夜も更けてしまったのでエマに促されるままに客間だという部屋に案内された。寝台が二つしつらえられ、暖炉には暖かな火が燃えている。

 あまりにも目まぐるしく、突然現れた父という存在にも困惑させられ、すっかり時間の感覚がおかしくなっていたが、襲われてからどれほどの時間が経っていたのだろうか。イルヴァがそう尋ねると、ノアは肩をすくめる。


「お前が攫われたのが昨日の夕刻、それから丸一日ってとこだな」

「アクセルが、来てくれたの?」

「ああ、翌朝にな」

 それから周囲に怪しい気配を感じ、フレデリクの部下だと知れると、その異質な瞳の力を利用して事情を聞き出し、その馬までを奪ってここまでやってきたという。

「傷は……?」

「言っただろう、大したことねえよ。お前こそ、殴られたって?」

「今は、平気」


 そうか、と頷くとノアは暖炉の前に葡萄酒の瓶とグラスを持って座り込むと、イルヴァを招き寄せた。隣に座ろうとすると、後ろから抱えるように抱きしめられる。


「悪かったな」

「何が?」

「守ってやれなくて」

 見上げた瞳は今は穏やかな、それでも何かを悔いる複雑な光を浮かべている。

「完全に油断してて、不意を突かれちまった」

「そんな……元はといえば、私のせいだし」

「まあ、お前のせいだな」

 その言葉に思わず俯くと、顎を引き寄せられる。

「お前があんまり可愛かったから、完全に腑抜けちまってた」

 その言葉で、攫われる直前の状況を思い出す。あの時、自分が言おうとしていた言葉も、先ほど自覚したばかりの想いも。


「ノア」

 だが、言いかけた言葉は重なった唇で遮られる。何かの箍が外れたように、後頭部に手が回され、逃がさないとでも言うようにしっかりと抱きしめられて、何度も深く、繰り返し口づけられる。

 やがて、その唇が離れ、そのまま首筋に滑り降りてくる。強く吸いつかれ、次に手首を掴まれて、内側の柔らかいところに同じように唇が寄せられる。離れたそこには赤い痕が残っていた。惚けたようにその痕を見つめ、そうして同じものが首筋にも残されているであろうことを自覚する。それが、何を意味するのかも。


 昨夜と同じように、熱を浮かべた紫の瞳がまっすぐにイルヴァを見つめる。


「イルヴァ」

 呼びながら、もう一度首筋に食らいつくように唇が触れる。ざらざらとした頬の無精髭と、滑る舌と、立てられた歯の感触にどうしていいかわらず目を閉じると、笑う気配が伝わってくる。

「食後の菓子デザート代わりにお前を食っちまいたいな」

「……さっき食べてたじゃないか」

 いくつもの果物と、焼き菓子と、さらには卵の焼き菓子エッグタルトまで。

 そう呟くと、ふとその気配が緩むのがわかった。

「お前の方が甘そうだ」

 もう一度、首筋に強く唇が触れ、そのまま抱き上げられて寝台へと運ばれる。けれど、掛布を上げてその中に横たえられたかと思うと、そのまま掛布が戻されて、ぽんぽんと子供にするように叩かれた。


 驚いてその顔を見れば、熱を浮かべた眼差しはそのままに、それでもいつものように笑う。

「さすがに、ここじゃあゆっくりできないしな」

 耳元で囁かれた言葉の意味を悟ってイルヴァの顔が真っ赤に染まる。そうだ、ここはフレデリクの城の中。間違っても、油断できるような場所ではない。

「まあ、帰っても、お前がってとこだが」


 揶揄うように言うその言葉とは裏腹な、明らかに甘い眼差しに、色々限界を感じ、イルヴァは手近にあった枕をノアの顔面に思い切り投げつけたのだった。

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