第33話「奈落は底なしの青」【SF】

──重力災害元年。




 ベッドサイドの時計はAM5:24を表示していた。


 ゆるゆるのスウェット姿で、彼はベッドに寝っ転がる。途端に大きな欠伸が出た。


 大学卒業後、彼はバイトを転々とし、今は夜間警備の仕事をしていた。いわゆるFラン卒で自らの無能を自覚する彼に、将来に明るい展望などなかった。


 スマホの画面が顔を照らす。


 アラームを12時にセットして、スマホを放った。ベッドサイドに置いているゾルピデムを、いつからあるのか分からないペットボトルの水で流し込んだ。


 そのまま、泥のように眠る。


 ……?


 まどろみの中で、彼は不快感を感じた。全身に鳥肌が立つような、ぞくっとする感じがしたのだ。それは一瞬で終わり、次に身体の前側に強い衝撃を受けた。

 顔に痛みもあり、異変を脳の隅で感知していたものの、そのまま、また眠ってしまった。


 それからどのくらい経ったのか、スマホのアラーム音で彼は覚醒した。


 重い。


 起き上がろうとするが、背中に何かが当たってうまく起き上がれない。ここで、異変に気づく。


 !?


 一瞬、平衡感覚が狂った。どっちが上でどっちが下か分からない。


 身体を反転させ仰向けになると、目の前にはベッドがあった。どうりで重いはずだ。彼は敷布団を被っていた。


 あの不快感と衝撃を思い出す。


 まさか、地震か?


 急いでベッドから這い出す。目の前に、見覚えのある白いドームがあった。照明の傘だった。天井にあるはずのそれが床に落ちている。


 そう思ったが違った。


 立ち上がって気がつく。


 彼は天井に立っていた。テーブルがひっくり返っていて、ペットボトルとかビール缶とか、溜め込んでいた白いゴミ袋も天井のあちこちに散乱している。


 大きなベランダ窓から光が溢れている。カーテンはだらしなく床──つまり天井に落ちていた。


 一体どうなってる?


 状況が呑み込めないでいると、バリバリとものすごい音がした。ベニヤ板が裂けるような音だ。その音に混ざって悲鳴も聞こえてくる。


「なんだ?」


 足元を見つめた。声は真下から聞こえてきたのだ。


 彼の部屋はアパートの一階。下から物音が聞こえてくることなどありえない。


 恐る恐る窓辺に近づく。


 生まれて初めて天井を歩いて、天井は思ったよりも板が薄いのだと気がついた。体重をかけると踏み抜きそうだ。


「……え!?」


 外を眺め、言葉を失った。

 頭上を地面が覆っている。そして天にあるはずの空は、眼下に広がっていた。


 バリバリとまた、岩や木が粉砕される音が響いた。今度はすぐ後ろからだ。地響きもして、彼は思わずしゃがみ込んだ。


 茫然自失。玄関が崩れ去った。すっぽりと外が見える。


 ここにいたらダメだ。


 そう直覚する。


 窓から外に出ようとするが、本来低い位置にある施錠フックは、とても高い位置にあった。背伸びをして、どうにかフックを外す。


 窓を開け、恐る恐る下を見る。


 頭上には、ずっと地面が続いている。足元は、錆びついた鉄の波板だ。二階のベランダの裏面である。


 どうにか降りられそうだな。


 彼は、カーテンを束にして持ち、それに掴まりながら波板へと降り立った。


 溝にクロッカスが転がっている。


 いつもベランダに置いている(そのベランダは、いま彼の真上にあるのだが)クロッカスだ。


 それを履いている時、また悲鳴が聞こえた。どこかで聞き覚えのある声だった。


 這うように恐る恐る波板から顔を出す。青空と言う名の奈落が広がっている。


 その空へ、上階の住人が吸い込まれるところだった。剥き出しの頼りなげな配線か何かに、二人して掴まっている。


 夫婦らしい。


 互いに名前も知らないし、顔もよく分からない。だから、道ですれ違っても挨拶などしない。


 あんな顔してたんだな……。


 はじめて二人の顔をまじまじと見た。黙って見つめていると、二人は色々なもの──アパートの建具やエアコンなどの家電と共に空へと吸い込まれて消えた。


「俺も、いつまでもここにいたらダメだな」


 ここが崩れるのも時間の問題だ。


 そう思っている間にも、ベランダが揺れ始める。長くもちそうにない。


 周囲を見渡す。彼のアパートは一、二階三部屋ずつのボロアパートだ。彼の部屋は真ん中だった。


 右手は駐車場で飛び移れそうなものはない。左手はアパート前の通り。フェンスが連なっている。どうやら、あれへ飛び移るしか助かる道はなさそうだ。


 彼はまず、横のベランダへと飛び移った。


 届くかな……。


 フェンスまで少し距離がある。


 助走をつけて、跳んだ。


 あ、全然だめじゃん……。


 跳んですぐにそう感じる。


 手をばたつかせながらフェンスに腕を伸ばす。指先がかすっただけだった。


 終わった。


 ガシャン──ッ!!


 次の瞬間、首を絞められるような強い衝撃を受ける。


 ゆるゆるのスウェットが破れたフェンスの金網に引っかかったのだ。


 首を摘ままれた猫のように宙ぶらりんになる。


 その瞬間だった。


 彼の全身にぞわぞわぞわと得体のしれないものが蠢いた。

 胸の中心、その奥深くを撫でまわされて、彼は笑った。


 両腕を伸ばして金網を掴む。身体を丸め、両足もフェンスに掛けた。腹筋に結構力が要った。


 クロッカスでは、金網に掴まれずに滑る。躊躇うことなくクロッカスを脱ぎ捨てた。


 どうにかフェンスにしがみつく。金網越しにアパートを見やると、基礎部分を残し躯体すべてが青空へ落ちていった。


 その様を、彼は勝者のように見守った。


 だが、このフェンスも心もとない。どちらにしても、金網が指に食い込んで手足が痛くなってきた。早くどこか別の場所へ移動しないとフェンスが落ちる前に力尽きるだろう。


 次の移動先には心当たりがあった。フェンスは線路の高架橋まで伸びているのだ。そこへ移動を開始する。


 10mほどだが、慎重に移動していく。フェンスと垂直に、高架橋が左右にずっと続いている。出っ張りがありそこに飛び移れば、少し先に高架下がある。その天井ならば身体を休められるだろう。


 出っ張りの幅は3メートルほど。


 高架橋の方を向き、フェンスの先端にぶら下がる。


 身体のブレが無くなってから飛び移りたかったが、指に力が入らなくなって落ちてしまった。


 下まで5メートルほど。


「……っ!?」


 どうにか着地に成功、だがバランスを崩しそうになる。


 バランスを取るために思わず膝を曲げてしまい、膝が壁に強く当たってしまった。その反動で後ろに仰け反る。


 !!


 また、ぞわりとした感覚が身体の芯から湧き上がる。


 爪先立って、反転すると壁に背をもたれた。


 どうにかバランスを保つ。


「また生きてた……」


 脂汗をかき肩で息をしながら、彼は笑った。


 壁に背をつけたまま高架下まで進んでいく。


 高架下の天井まで少し高さがあった。最後の力を振り絞ってよじ登り、どうにか辿り着いた。


 崩れるように寝転がる。


 大の字に寝そべったまま、彼は今まで一度も味わったことのない優越感や達成感を味わっていた。


 半日前まで生きているのか死んでいるのかも定かではなかった意識は、今やはっきりと覚醒し、細胞の一個一個が活力に溢れ喜びに満ちていた。


 ごごごごご……!!


 不気味な音が近づく。


 起き上がる。


 急に、上──地上から雨が落ちて来た。いや、雨なのだろうか? 大量の水が滝のように、高架橋の出入口に水のカーテンを張る。やがて過ぎ去って反対側にも同じように水が落ちて来た。


「くせぇ」


 泥臭い匂いが充満する。


 そのまま、水の柱は空に落ちながら消えていった。まるで移動する滝だ。


「近くの川の水が落ちてんだな……」


 立ち上がる。崖っぷちまで進んで、世界を見渡す。


 あちこちで、地上にあった様々なものが今なお、空に落ちていっている。


 奈落は底なしの青。あちこちで川は空へと落ちて、大きな虹を描いている。その虹の向こうに手足をばたつかせる人また人が見えた。


「清々しい……」


 文字通り、すべてがひっくり返った世界。その様を見て、彼は無邪気に笑った。

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『インスタント・ストーリーズ~カップ麺ができるまで』 さんぱち はじめ @381_80os

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