第32話「小さな手垢」【ホラー】

 春のあたたかな陽ざしの中、新しい街を僕は歩いていた。

 東北の大学を卒業後、就職先のあるこの街へ、僕は引っ越してきたばかりだ。もうすぐ入社式もある。

 今日は、近所にどんなお店があるか散歩がてら見て回って、スーパーで夕食の買い物をしていた。


「ただいま~」と言っても、聞こえるのは暗い廊下の先の冷蔵庫の音くらい。


 大学生の時、僕は結構な田舎に住んでいた。古民家を改修した下宿で、令和時代に信じられないかもしれないけど、昔ばなしみたいな場所に住んでいたんだ。その下宿は おばあちゃんが一人で営んでいて、その人から、僕は孫のように優しくしてもらっていた。


 本棚に座る小さな女の子の人形を見つめる。東北地方の伝承に出てくる座敷わらしみたいな人形だ。おばあちゃんがよく作っていて、色んな人に渡していた。僕も、一年生の頃にもらって、それ以来飾っている。

 不意におばあちゃんの顔が浮かんだ。


 っ! いかんぞ、ホームシックになっちゃ。心機一転、社会人として頑張るんだから。


 冷蔵庫にものをしまおうと、冷蔵庫のドアに手をかける。


「ん? 手垢がついてる」


 白いドアに、黒い手垢がついていた。いつも自分がドアを開ける位置だ。


「この冷蔵庫も、一年の頃からずっと使ってきたからな」


 薄暗い部屋で、その汚れは余計に目立って見えた。


「あれっ!? こんなところにも手垢が……」


 ドアの下の方にも、妙な手垢がついていた。この辺は、あんまり触らないはずなんだけどな……。




 その夜。僕は、不気味な物音で目が覚めた。


 きし、きし、きし……。


 小さな足音のような音。次第に近づく。恐怖で布団をめくる勇気が出なかった。


 とっ。


 ベッドに手をかけた。


 ぎし。


「!」


 重みが加わってくる。掛布団越しに、確かに伝わる。

 手、膝、つま先で這っている。幼児? 少年? そんな重さ。足元から、上へ上へ這いあがって来る。


 僕は、布団の中で息を押し殺した。


 ざ──!!


 布団の中に青白い細腕が突っ込まれ、僕の首を掴んだ。


「ぐ」


 蛇が獲物を絞め殺すように、じわじわ、じわじわと首を絞められていく。


 苦しい! 殺される!


 ぺち。


 意識が薄れそうになった時、小気味よい音が響いた。まるで芸人さんが相方にツッコミを入れて頭をはたいたような感じ。僕にも、青白い手を通して、軽い衝撃が伝わった。


 首を締めつけていた手の力が弱まる。そして離れた。いや、引きはがされたと言ったほうが妥当かもしれない。


 ややあって、妙な声が、少し離れた場所から聞こえてきた。


 僕は、寝たふりしつつも、息を潜めながら布団の隙間から様子をうかがった。恐怖で心臓は いまだにバクバクしている。


 着物を着たおかっぱ頭の女の子がいた。その子の前には、坊ちゃん刈りでパンいちの青白い少年がいた。

 おかっぱの女の子が、腰に手を当てて、パンいち青白少年を叱っている。少年は、なんだかしょんぼりとしていた。


 しばらくのお説教の後、女の子が冷蔵庫から何かを取り出した。


 あ、僕のプリン。


 お昼にスーパーで買った僕のプリンを、隅っこに座って二人でシェアして食べだした。


 あの女の子、どこかで会ったような……?


 そんなことを思いつつ、僕はしばらく二人の様子を見つめていた。けれど、そのうちに眠ってしまい朝を迎えた。

 あの二人の姿は、跡形もなく消えていた。


「夢……だったのか?」


 けれど、ゴミ箱の中に見つけてしまった。空になったプリンのケースを。


「……」


 僕は本棚に座る女の子の人形を見つめた。手に、持つ。ゴミ箱を見つめる。


「…………」




 僕は最寄り駅に降り立った。


「スーツって首が凝るな……」


 僕はネクタイを緩めて歩き出した。


 あれから一週間、入社式も無事に終わり、僕は新社会人として働きはじめていた。そして、あの日以来、あの二人は姿を見せていない。


 帰る前に近所のスーパーに寄る。


「そうだ、プリンも買お」


 一個、カゴに入れる。


「…………ふ」


 自分がしようとしていることに、ため息交じりの笑い声が漏れてしまう。

 そして僕は、プリンをもう二つ、カゴに入れた。

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