第31話「マリトッツォが食べたい」
どうも。自分は、しがない商社マンのおっさんです。
突然ですが、私は甘党です。最近の言葉で言えば、スイーツ男子です。いや、スイーツ(大好き)おじさんです。
週末、私はパン屋へと向かっております。
少し前に、イタリアから日本に上陸した新スイーツをテレビで特集していて、一目惚れしたんです。
それは、ローマの伝統菓子パンで、たっぷりの生クリームをパン生地(?)で挟んだもののようです。その姿を見た瞬間にときめいて……ぽっ////
そのスイーツの名は、マリトッツォ。あの生クリームをたっぷり挟んだ甘いハンバーガーみたいなパンが食べたい。
実際はパン生地なのかは知らないけれど、あえて、ネットなどで詳しくは調べずに来ました。事前情報を入れないで食べて、感動を味わいたかったのです。
私は、今年42歳になるのですが、この歳まで生きていると、未知のものに触れることは少なくなってきます。自分の知らない体験ができるのは貴重なことです。その感動も味わいたかった。
けれど、食べてみてガッカリ……と言うことには ならないでしょう。テレビで特集している時点で不味いわけはないし、社内でも女性陣がよく話題にしているのを耳ダンボにして聞いていました。あ、古いですかね、この言い回し……。
「さて、着いたぞ」
町で人気なパン屋さん「ブレッド&エスプレッソ」の扉をくぐります。
嗚呼、出来立てパンの良い香り……。幸福です。ぽっ////
さてさて、気を取り直して。ええっと、マ、マ、マトリッツォ。マトリッツォ……。
「あれ? ない」
ちょっと店員さんに訊いてみましょうか。
「あのぉ」
「はい! どうなさいましたか?」と、笑顔が素敵な店員さんが、すぐに駆けつけてくれました。
「あ。ええっと、マトリッツォってこの店では売ってないですか?」
「え? まとり……まとり?? 売ってないですね」
「あっ! そうなんですね」
「は、はい。すみません」
仕方ありません。私は、気を取り直して、別のお店に向かいました。しかしながら、そこでもマトリッツォが見あたらないのです。
「あの、マトリッツォって売ってますか?」
「まとりっつぉ……? すいません、ウチじゃ取り扱ってませんねぇ」
三店舗目でも。
「あのう……、マトリッツォは?」
「マトリッツォってなんすか?」
「…………」
数時間後、海辺の森公園のベンチで、私は途方に暮れていました。
「どうなっているんだ!? この世界は、私にマトリッツォを食べさせないつもりなのかっ!?」
「あれ? 部長?」
俯いていると、女性の声が聞こえました。見ると、ベビーカーを押す一人の女性がこちらに向かって手を振っていました。
「あ、やっぱり部長だ。どうされたんですか?」
「鈴木くん」
部下の鈴木くんです。現在育休中の彼女は、私がスイーツ男子ならぬスイーツおじさんだと知る数少ない人物なのです。……別に隠しているわけでは ないんですけどね。
「助けてくれ、鈴木くん。マトリッツォがどこにもないんだ」
隣に座った鈴木くんに私は事情を話しました。彼女が胸に抱く赤ちゃんから、眼鏡を奪われながら……。
「おかしいですねぇ、近頃は、どこのベーカリーでも売ってるのに……」
鈴木くんは、彩夏ちゃんから眼鏡を受け取りながらそう言いました。そして、何かに気づいたように首を傾げました。
「んっ!? 部長、いま何て言いました?」
「いや、だからマトリッツォが売ってないんだよ」
鈴木くんから返してもらった眼鏡を掛け直して私は言いました。すると、いきなり鈴木くんが笑い出しました。
「き、急にどうしたの?」
再び彩夏ちゃんに眼鏡を奪われながら、私は尋ねます。
「部長。マトリッツォじゃなくて、マリトッツォですよ?」
彩夏ちゃんから眼鏡を受け取りながら、鈴木くんは、可笑しそうに指先で涙をぬぐいました。
「えっ!?」
鈴木くん経由で返してもらった眼鏡を再び掛け直し、私は驚きました。
「マ、マ、マトリッツォ。マトリッツォ(⤴)? マリトッツォ……、ハッ!」
何たる失態……。(当然のごとく、私は眼鏡を奪われます)
「わかりましたよ。それ、探しているつもりで探せていなかったんですよ。
鈴木くんは、三度 彩夏ちゃんから奪われた眼鏡を私に返しながら、そう言いました。
私は、鈴木くんと彩夏ちゃんと共に、もう一度最初のパン屋さんへと戻って来ました。
「マリトッツォですよ、部長!」
「う、うん……! マト、じゃなかった。マリトッツォ、マリトッツォ」
「あっ! あった////」
「よかったですね」
二つ購入して、私たちは、外に設けられたテラス席に腰掛けました。実は、鈴木くんも、マリトッツォは初めて食べるのだとか。
「わたしも気になってたんですよねぇ」
「それは良かった。それじゃあ」
「「いただきます」」
やっと食べることができます。一日がかりのマリトッツォです。
「「おいしい!」」
私たちは、声を揃えて顔を見合わせました。
「癖になるこの甘辛いタレ……」
「ふむ。そして分厚い豚肉は歯ごたえがあって」
「はい。脂身の部分はトロトロしてて」
「さらに、ふわふわもちもちの生地……」
私たちは、二人同時に叫びました。
「「って、これ長崎名物の角煮まんじゅうやないかい!!」」
「おっ、お客様ッ!」
店員さんが飛び出してきました。
「申し訳ありませんッ! 店に陳列していたマリトッツォが、角煮まんじゅうにすり替えられていました」
「ど、どういうことですか!?」
「テロです! ここのところ、全国のベーカリーを標的に同時多発テロが起きているんです。マリトッツォと形が似ているから、これ見よがしに角煮まんにすり替えて、角煮まんの認知度をアップさせようとしている組織の仕業です」
なんと言うことでしょう……。確かに、角煮まんもおいしいのですが、もう私の口は、朝からマリトッツォの口になっていたのです。今日は違う。今日だけは違うのです……。
けれど、もう どうしようもありませんでした。私は、眼鏡を彩夏ちゃんに奪われつつ、鈴木くんと角煮まんじゅうを食べました。
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