仕事終わりにトラックにはねられました

しらす丼

最後の約束

 2010年2月、私の兄は18歳で突然この世を去った。


 脳動脈瘤破裂による、くも膜下出血。それが兄の死因だった。


 私にとって、近親者の死ということが初めての経験で何をしていいかもわからず、葬儀はあっという間に終わり、気が付けば四十九日まで済んでいた。


 そしてそれから10年。私は享年18歳という若さでこの世を去った兄の死を受け入れられないまま、大人になっていた。




 私の名前は青波桜乃あおなみさくの。27歳独身で、地元の建設会社の事務員をしている。


 終業時刻を告げる午後17時半のチャイムを聞くと、私はいつものようにPCで勤怠入力を行い、デスクから立ち上がった。


「青波さん、お疲れ様」


 そう言いながら声を掛けてきたこの人は、派遣社員の坂上さん。私よりも年上で、いつも優しく接してくれる仲の良い同僚だ。最近婚約が決まり、人生は順風満帆な様子。


「お疲れ様です」


 そして私は坂上さんにぺこりと頭を下げて、いつものようにオフィスを出たのだった。


 外に出ると、冬の夜風が身体を冷やした。


「うわっ。寒いなあ。帰ったら、お風呂入ろっと……」


 私鉄の電車に乗り込み、私はお気に入りの音楽を聴くために、イヤフォンで耳をふさぐ。


 持っているスマートファンから、大好きなバンドの音が流れ始めて、私はほっと一息ついた。


「今日も頑張った」


 そんなことを呟きつつ、移り行く景色を見つめているうちに電車は目的の駅に到着した。


 普段利用するこの駅は駅員さんもいない小さな駅だが、住宅街が多いためか多くの人たちがここで乗り降りしている。


 その中に紛れて、私もいつものように改札を出た。


 そして私はいつものように、ただまっすぐに家を目指していたはずだった。


 しかし――


 歩道を渡っていた私の目の前が、急に真っ白になる。


「え……」


 歩道を渡っていた私は、急に突っ込んできた一台のトラックにはねられ、そこで意識が途切れたのだった。





 私が目を覚ますと、初めに木製の天井が目に入った。


「ここ、どこ?」


 見知らぬ天井。そして、意識が途切れる寸前のことを思い出す。


「私、確かトラックにはねられたよね……?」


 でも轢かれたときの痛みはなく、全身を見つめてみても傷一つ付いていなかった。


「ってあれ――この服、何?」


 私はさっきまでオフィスカジュアルの服装をしていたはずだったが、今は見たこともない民族の服を身に着けている。まるでファンタジーの世界のようだと私は感じた。


「でも……もしかして、私ってあの時に死んでしまって、異世界転生をした――とか?」


 いやいや、まさかそんなことあるわけないだろうと私は呆れつつ首を横に振る。


「じゃあここって一体どこなんだろう……」


 あたりを見渡すが、やっぱり見たことのない場所。そして知らない家具や本などがたくさん置いてあった。


「うーん」


 私が頭を悩ませていると、扉を叩く音が響いた。


「はい。どうぞ」


 私がそう告げると、部屋の扉がゆっくりと開いた。


 そしてそこに現れたのは10年前に亡くなった、兄の唯人ゆいとによく似た男性だった。


「大丈夫? 体調はどう?」


 その男は、心配そうに私の顔を窺っていた。


「え……う、うん。大丈夫! ああ、ありがとう」


 私は驚愕のあまり、少々カタコトになりながら、その男に返した。


「よかった。急に熱を出して倒れるから心配したんだよ。じゃあお母さんに伝えてくる。ゆっくり休んでて」


「うん……ありがとう」


 そしてその男は部屋を出て行った。


 男が出て行った扉を見つめながら、私は夢でも見ているのかとそう思っていた。



 死んだはずの兄とまた会えるなんて――



 そして私はなぜか、目から涙があふれ出る。


 夢だったとしても、また唯人に会えた。まさかこんな奇跡みたいなことが起こるなんて――


 そんな喜びの感情がこみ上げてきたんだろうな。


「あ、ごめん! タオルを換えるつもりできたんだっ――どうしたの!? まだ具合悪い!?」


 そう言って戻って来たその男は、涙を流す私を見て驚いたようで、傍に駆け寄ってきた。


「ううん。大丈夫。ただ、嬉しかっただけだから……」

「そう? ならいいんだけど……」

「ありがとう、えっと……お兄ちゃん?」

「お兄ちゃんって、気持ち悪いなあ。熱でおかしくなった? いつもみたいにユイトでいいよ」

「ユイト……」

「何?」

「何でもない、ただ呼んでみただけ!」

「え? ま、まあいいけど。――じゃあこれ、タオルここに置いておくから、まだもう少し寝てろよ」


 そう言って、ユイトはベッドの隣の棚に、折りたたんだタオルを置いた。


「ありがとう」


 私がそう微笑むと、ユイトは満足そうに部屋を出て行った。


「やっぱりこれは夢、なのかな……」


 私はベッドに寝転がりながら、そんなことを呟く。


 夢だとしたら、あまりにもリアルすぎる。こんなにはっきりとした意識でいいのだろうか。


「でもこんな世界、私は知らないし、唯人だってもう――」


 もしも夢なら覚めてほしくないな――。


 そして私は気が付くと眠りについていた。




「やばい! 遅刻!!」


 私は目を覚ました私は慌てて飛び起きる。


 しかし――


「まだ夢の中?」


 木製の天井と知らない言葉の本が並ぶ本棚を見て、ここが眠る前の世界と同じところにいると私はすぐに気が付いた。


「とりあえずここで何もしないわけにはいかないよね。ちょっと外を見に行こう」


 そして私はベッドを降りて、部屋の扉のドアノブに手を掛ける。




 ――もしもこれが異世界転生だったとしたら、私はこの世界で生きていけるだろうか。




 そんな不安が頭をよぎる。


 本当は夢だと信じたいけれど、でももしかしたら――


 私は頭を横に振り、


「そんなこと考えたって仕方ないよ。とにかく状況の把握をしないと」


 そして私は部屋の外に出たのだった。




 扉を開けると、目の前にはユイトがいた。


「おはよう、サクノ。今、ちょうど起こしに行こうかなと思っていたところだったんだ! 元気になったみたいでよかったよ」


 そう言って、笑いかけるユイト。


「おはよう、ユイト。いろいろと看病をありがとうね」

「兄として、かわいい妹の看病をするのは当たり前のことさ! じゃあ、ご飯にしよう。母さんがご飯を用意して待っているから」

「うん」


 そして私はユイトの後ろについて、1階のリビングに向かった。




 リビングに着くと、見知らぬ女性が台所に立ち、鼻歌を歌っていた。


「母さん、サクノ呼んできたよ」

「ああ、サクノ♪ おはよう。体調はもういいの?」

「は、はい……大丈夫です」

「あら、なんで敬語? まだ、熱があるんじゃ――」


 そう言いながら、母さんと呼ばれたその女の人は私の前へやってきて、おでこを当てる。


 か、顔が近い――。


 私はそんなことを思いつつ、顔が真っ赤になる。


「熱はないみたいね。でも顔が真っ赤じゃない!? まだ寝ていたほうが――」

「大丈夫です。これは……その」

「ほら、母さん。もうそれくらいにして! ご飯食べようよ。冷めちゃうよ?」

「そうね、温かいうちに召し上がれ」


 そう言って手を広げた先にあったのは、見たこともない食材だった。パンはパンだったとして、野菜はどれも見たこともない形。少しつんつんとしてるトマトみたいな真っ赤な実、レタスのような形をした真っ青な葉。


 これは本当に食べられるのかな――


 しかしそんなことを思う私の隣で、とてもおいしそうにユイトはその食材を食べている。


「サクノ、まだ食欲ないのか?」

「え……う、うん。ちょっとね」


 私はユイトの問いに苦笑いで返した。


「そっか……じゃあもったいないから、オレが食べてやるよ!」


 そう言って、私の目の前にあるサラダのようなものに手を付けるユイト。


 そしてそれをとてもおいしそうに食べていた。


 なんだかちょっと羨ましい……。


 食べればよかったと少々後悔しつつ、私は食べるユイトの姿を見つめたのだった。


 そして私は結局、何も食べることもなく、朝食の時間を終えた。



 食事後、私はユイトと出かけることにした。


 どうやら付き合ってほしいところがあるんだとか。


「ねえ、どこ行くの?」

「もう少しだから!」


 もう少しって……なんだか見るからに怪しい森が目の前にあるんだけど――


 私はそんな不安を抱きつつ、ユイトについていった。




 私達は街から少し離れた森に来ていた。


 薄暗いその森は、何かが出そうで少し怖い――


 私は周りを警戒しつつ、ユイトの後を追った。


「ここだ」


 ユイトはそう言って、立ち止まる。



 そこには異色の存在感を放つ、小さなほこらがあった。



「ここは……?」


 ユイトはなぜ私をここに連れてきたのだろう。


「ここから帰れる。元の世界に」

「え……」

「お前、あっちの世界の桜乃だろ」

「なんで……」

「昨日、目を覚ました時からおかしいなって思っていたんだよ。まるで知らない世界に急に呼ばれたみたいな感じだったから」

「そっか……でも私、トラックにはねられたから。たぶん、もう――」

「死んでいないよ。まだ生きてる。だから桜乃の居場所はここじゃない」


 それを聞いた私は驚きのあまり目を見開く。



 私、生きてるの……? 

 じゃあ、なんで私はこんなところに。

 それに唯人は――



「早くしないと手遅れになる。桜乃は今、生と死のはざまを彷徨っていて、こっちの世界に馴染んでしまうと、もう元の世界には帰れなくなるんだよ。ここにいれば、前の世界のことを少しずつ忘れていく。思い出せなくなるんだ。そしたら、もう……」


「でも唯人は私のことは覚えていたじゃん? それはなんで?」


「わからない。急に思い出したんだよ。今まで前の世界のことなんて、忘れていたのに――」


「戻りたくない。せっかくまた唯人と楽しく暮らせるなら、こっちがいい。私はもう唯人のいない世界で生きていたくない」




 私はずっと後悔していた。


 唯人が倒れたあの日のことを――


 お風呂場で泡を吹いたまま、顔を真っ青にして倒れている唯人。


 私は騒ぎ立てるだけで何もできなかった。


 もっと早く気が付いていたら、対応ができていたら何か変わったかもしれないのにと、ずっと自分を責めて生きてきた。




 だから……私はもうその気持ちから解放されたいのかもしれない。






「私はここで生きる! ユイトと一緒がいい!! 元の世界に戻ったって、何も楽しいことなんてないもん! だったら、この世界で生きたいよ!!」


「――桜乃は考えたこと、あるか? やりたいことがたくさんあるままで命を落とした人間のことを」





 私は何も答えられなかった。


 だって、一度もそんなことを考えたことなんてなかったから。


 そしてユイトは淡々と続けた。


「高校生の時、『オレはニートになる! 絶対に働かないぞ!』なんてことを言っていたけど、いざ死んでみたら、やっぱりやりたいことがたくさんあるってことに気がついたんだよな」


 ユイトはそれからも淡々と語っていた。


 あっちの世界のお父さんといろんな観光地を周ってみたかったこと。大好きだった軽音楽部のアニメの話を最後まで見届けたかったこと。そして家族たちと笑顔で楽しく暮らしていきたかったということ。



 私はユイトの話を聞きながら、気が付けば目から涙か零れ落ちていた。



「オレはあの世界で生きられなかった。やりたいことは山ほどあったのに、何一つ、叶えることができなかったんだ」

「うん」

「だから桜乃。お前は生きてほしい。オレが叶えられなかった分、桜乃にはあの世界で、好きなことを好きなだけやって、笑っていてくれ。そうじゃないと、オレが救われない」

「ユイト……」



 私は自分のことしか考えていなかったのかもしれない。



 人生で本当にやりたいことをやって、それで亡くなっていく人はとても少ない。



 多くの人間は、あれもこれもやりたかったと後悔しながら亡くなっていく。


 ましてや若くしてこの世を去ってしまった唯人のような子供たちはもっと後悔するだろう。



 この世界で生きるという選択肢と元の世界でまだ生きてもいいという選択肢が今ここにあるとすると、ユイトの話を聞いた私が選ぶべき答えは一つしかない。



「私、元の世界に戻るよ。唯人が後悔した分だけ、私があっちでたくさん笑って楽しい人生にする。だからユイトはこの世界で後悔しない人生を送ってね」


 私は笑顔でユイトにそう告げた。


「ありがとう、桜乃。また会えてうれしかった。……さようなら」


 そう言って、ユイトは私の背中をポンと押した。


 目には見えていなかったが、目の前に結界があり、ユイトに背中を押された私はその結界を潜った。


 結界越しで言葉は聞こえないけれど、ユイトが口を動かしていた。


「がんばれ」


 私はそのユイトの顔をしっかりと脳裏に焼き付け、視界が閉ざされた。




 目を覚ますと、またそこは見知らぬ天井だった。


 保健室のような消毒の香りが漂っていた。


 そして白衣を身にまとっている女性が、私の傍らで点滴の点検にきているようだった。


「あ、の……」


 私はその女性に、精一杯の声を掛けた。


 すると女性は驚き、私の方をまじまじと見つめる。


「青波さん? もしかして意識が……」


 私はその女性にこくんと頷く。


「先生! 青波さんの意識が!!」

「なんだって!? さっそくご両親にご連絡を!!」

「はい!!」


 私の覚醒により、医療スタッフたちは急に慌ただしく動き出した。


 その姿を眺めながら、私はベッドに横たわっていた。



 私、本当にまだ生きていたんだ……。



 まだぼやける意識の中で、そんなことを私は思ったのである。






 それから私はリハビリをして、3か月後にめでたく退院となった。


 帰宅した私は、まず和室にある仏壇に手を合わせる。


「帰って来たよ。ちゃんと」


 誰かが何かを言うわけでもないけれど、私はそんなことを呟いたのだった。




 当たり前のように生きていると、生きることが辛くなることもあるだろう。


 そして過去に辛い経験があって、それを乗り越えていないなら、なおのこと生きることが苦しくて仕方がない。




 ――それでも私たちは生きていかなくちゃいけない。




 生きたくても生きられなかった兄、唯人のように、後悔を残したままこの世を去った人たちは数多くいる。


 その人たちが叶えられなかった夢や目標、そして思いがあったことを忘れないように、私は今日を生きていきたい。





 ユイトとの最後の約束を果たすために、私は今日も好きなことで生きていく。



 END

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