第3話「今朝の話」

 何だかんだ言って、優しい人なんだ。


 さしあたって安全地帯に避難した僕は、今、孝代さんのスポーツカーに揺られている。


「まだ涼しい風が来るね」


 晩夏ばんかの夜明けだと開け放たれた窓から入ってくる風に目を細める孝代さんの横で、僕は孝代さんがくれたお茶を飲んでいた。


「あ、ティーソーダ? レモンティー?」


 さっぱりしてて甘くて、ちょっと刺激のある紅茶。


「んー? 何だろう? 紅茶は紅茶なんだけど」


 ハンドルを握ったまま、孝代さんは首を傾げて、


「濃縮紅茶とレモネードをブレンドして、炭酸水で割ったのよ」


 オリジナル!


「多分、粉末のレモネードを使ってもいいけど、氷砂糖とレモンで作ったレモネードと濃縮紅茶を1対1で足して、炭酸水で5倍に割ってみたの」


「いいね。さっぱりしてて、今の疲れには丁度いい」


 寝るに向かない二人乗り、しかもエンジンが背後にあるスポーツカーの中だけど。


「休みの日は、午前中がいいわ」


 風が気持ちいいという孝代さんの意見には賛成だ。


「まだ寝てる人がいる、もう起きてる人がいる、今日予定がある人もいれば、予定をこれから立てる人もいる。そんな人たちがいる時間帯って、気儘きままでいいと思うのよ」


「賛成」


 僕も思わず笑ってしまう。


「まぁ、限度はあるけど」


 孝代さんからの追撃でも、笑ったままでいられるくらい。


「そう言いながらでも、迎えに来てくれる孝代さんに感謝してる」


「……」


 孝代さんが少し肩を竦めたように見えたのは、照れ隠しっぽかった。


 だから僕も照れ隠しに歩道側へと目を向けると、


「ああ、もうやってるお店ってあるんだ」


 シャッターが降りてる一角にあって、僕は一つだけ見えている明るい電灯を見つけた。


「何か、いい匂いがする……」


 そのお店からは漂ってくるのは、ただ「懐かしい」という感想を懐いてしまう匂いで、記憶にないのにそう感じさせられる不思議なもの。


「ああ。大豆を煮る匂いね。お豆腐屋さんよ」


 孝代さんは知ってたけど。


「納豆とかお豆腐とか、朝ご飯に間に合うようにって早いの」


「なるほど」


 豆腐屋が早く開く理由は知っていたけれど、そこは態々、突っ込まない。


 小首を傾げている孝代さんは、何か思い出そうとしている風だったんだから。


「そうだ。丁度いい。お豆腐、買っていこう」


「朝メシ?」


 少し早い朝食に冷や奴かと思ったけれど、孝代さんは首を横に振った。


「おやつ、おやつ」


「おやつ? 豆腐が?」


 想像が付かない。


「おや、知らないのかい? ワトソン」


 その名探偵は、アル中じゃなくヤク中だった気がするけど、まぁ、いい。


「冷や奴にするか、鍋に入れるか、あとはサラダに使うくらいしか知らない」


 僕が肩を竦めると、孝代さんは「いいでしょ」と店先へ車を停める。


「買っていきましょ」


 その足取りは、心なしか軽い。


「ごめんください。おはようございます」


 店の中に声を掛けると、丁度、作業をしていたおじさんとおばさんが振り向く。まだ今日の分ができているようには見えなかったけど。


せ豆腐、あります? あと、きな粉と」


 孝代さんの注文は、丁度よくあった。


「ありますよ」


 おばさんがにこやかに対応してくれて、ビニール袋に入れてくれる。


「ありがとうございます」


 孝代さんが、また一層、楽しそうな笑顔を浮かべて戻ってくる。


「帰ってから、ちゃちゃっと作ってしまおうか」


 首を傾げている僕に、孝代さんはそう言った。



***



「寄せ豆腐っていうのは、型に入れる前の木綿豆腐の事なの」


 そう言われると、なるほど、透明な器に入れた豆腐は、「寄せた」って感じだ。


「これを型に入れて、圧搾あっさくしたりさらしたりしたのが木綿豆腐だけど、寄せ豆腐はそうしてないから、ちょっと食感が違うの」


 そんな豆腐に孝代さんが何をするかというと――、


「これに、黒蜜きな粉をかけます」


「……うまいの?」


 思わず訊いてしまうのは、それだ。黒蜜きな粉と豆腐って、全くイメージが繋がらない。


「おいしい、おいしい。だって、お餅に黒蜜きな粉かけると、最高でしょ? お餅も、お豆腐も、そのものの味が薄いから、味付けしてやると大抵、美味しくなる」


 そう言えばそうか。


「お豆腐は高タンパクで低カロリーだから、お餅よりヘルシー。寄せ豆腐は、って言い方もあって、ほらほら」


 そう言われると、寄せ豆腐はふわっとした雲のような外見で、そこに黒蜜きな粉をかけると、闇夜の月に星を伴ったおぼろ雲がかかってるようにも見える。


 そして味は……確かにおいしい。


「香りがいいね。さっき、お店から漂ってきた匂いが、もっとよくなった感じ」


「木綿豆腐や絹ごし豆腐より、香りが強くて、大豆の味がするのも特徴。で、黒蜜ときな粉との相性もいいでしょ?」


 そう言っていると、丁度、夜が明けた。


 白くなった月が、まだ空に残ってた。


 それを見て、思う。



 孝代さん――それなりに平穏で、それなりに不穏な僕の日常を、8割くらい担当してくれる、五歳年上の大好きな孝代さん。

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年上の彼女が僕に言う「何でもない半日を」 玉椿 沢 @zero-sum

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