気品マスク


 皆様は『戦略物資』というものをご存知だろうか。


 これは国家の安全保障上、重要な物資・資源のことであり、日本では外国為替及び外国貿易法に基づく輸出貿易管理令により規定されている。


 具体的には、兵器関連、原子力関連、レアメタル、電子機器、特定の食料などが該当し、日本国外ヘ輸出するためには経済産業大臣の許可を受ける必要がある。


 最近では新型コロナウイルスの蔓延まんえんに伴い、深刻な品不足と価格高騰を引き起こした「マスク」をそれと見做みなす向きもあった。


 しかし、現在は国内生産や輸入量の増加により、ドラッグストアやコンビニエンスストアなどでも、気軽に購入できるまでに流通量は回復している。



………………………………



「えーと、このマスクはどういったものなのかな」


 葦原あしはら市の某大手チェーンのコンビニにて、先週からバイトを始めた大学生『野峰のみね 美臣みおみ』は、隣で一緒に検品するバイト仲間の『火遠理ほおり 曇良くら』に、とある商品を手に取りながら疑問を口にした。


「ああ、それは『きひんマスク』と仰るのですよ」


「きひん…?」


 予想外の言葉に彼は思わず問い直してしまう。きひんとは貴賓のこと、つまりはセレブ向けの高級マスクなのだろうか。そう言われて見れば、どことなく高級感が漂っているように思えなくもない。


 しかし、そんな彼の得心とくしんに対し、彼女は何が可笑しいのか吹き出してしまう。バイト仲間といっても相手はまだ女子高生、歳だけなら彼の方が上である。


 普通なら馬鹿にするなと怒るところなのだろうが、彼女の屈託のない笑顔を見ていると、そんなことはどうでも良くなってしまう。


「空気の『気』に、商品の『品』で、気品なのです。ああ、気品というのは、どことなく感じられる上品さという意味ですね」


 さすがに大学生ともなれば、漢字さえかれば意味も分かる。しかし、彼が感心した様子で頷くので、彼女もまた上機嫌になっているようだ。


 バイトといっても、彼女は葦原市一帯のフランチャイズ店のオーナーの娘である。何でも就労経験のために来ているそうだが、どうやら箱入りで育ったようで、心配した両親が自身の店舗を充てがったというわけだ。


 そのため、店長にとっても邪険に出来ない存在であり、同僚からもどこか腫れ物に触るように扱われていた。中にはお嬢様の冷やかしと陰口を叩くものまでいる始末である。


 しかし、彼が接する限りでは、彼女の仕事ぶりは熱心だし、接客態度も優しく丁寧だ。そして、何よりも…そう、尊いのだ。女子高生とか、お嬢様とか、そんな記号的なものではない。その在り方が、まさしく気品に溢れているのだ。


 それにしても、実際のマスクには気品という文字はパッケージングされていない。配送時に添付される検品票にも、そのような記載は見当たらなかった。


 「気品マスクというのは商品名じゃないのかな」


 「ええ、何と説明したら良いのでしょうか。ちなみに、性能としてはその辺りのマスクと大差ありません」


 彼女はそう言うと、別の棚に並べられた一枚10円程度のマスクを指差した。それは海外で大量生産された、安価ながらも定番の人気商品であった。一方で、彼女が気品マスクと呼んだ商品は、その5倍くらいの値札が付けられている。


 もちろん、値段だけで見れば同じくらいの商品は他にもある。高付加価値品といい、性能を向上させたり、別の機能を付与させたりすることで、単価を高くするという商品戦略である。


 むしろ、日本の工業製品はそちらの方が主と言える。人件費の高騰や原材料の輸入等により、海外の経済新興国の価格競争力、つまりは安価な商品に対して、同じ土俵で勝負することは困難であった。


 反面、それらの新興国は性能向上に繋がる基礎研究、開発能力には遅れている。そもそも、設備自体が先進国の資本と技術による場合も多い。


 このような諸事情により、大量消費する汎用品は海外産、富裕層向けや特殊機能は国内産というように、両者は棲み分けがされているのである。


 もっとも、消費者の望まぬ行き過ぎた付加価値には批判もあり、一時期あらゆる家電に空気清浄機のようなものを取り付けたメーカーもあったのだが、売れ行きはそれほどかんばしくはなかったという。


 しかし、今回はそのような例には当てはまらない。特段、商品には価値を喧伝けんでんする文句は並んでおらず、先ほど彼女の口からも性能の差はないと聞いている。


 では、高付加価値品ではないこの『気品マスク』とやらが、なぜここまで強気な値段で販売されているのだろうか。


「ひょっとして、あれかな。理由がなくても、高ければ良いものだと勝手に思い込んで買ってしまう…そんな消費者の心理を突いた詐欺みたいな商品とか」


 少しだけ義憤に駆られて、知れずと口調が厳しくなってしまう。自分の勤める店の商品を貶すなど、決して誉められた行為ではない。ましてや、相手はオーナーの娘だ。これは失言だったかと恐る恐る彼女の表情を窺った。


 しかし、彼女には憤った様子はなく、やんわりとたしなめるように気品マスクの置かれている棚を指差した。


「詐欺とはひどいですね。ちゃんと分かって買ってる人もいるのですよ。今日だって補充があったくらいですからね」


 確かに、納品された商品の中にそれがあったからこそ、彼は疑問に感じたのである。ますます意味が分からず混乱する様子を見かねたのか、彼女はようやく種明かしをしてくれた。


「これは、純国産のマスクなのです。原料の生産から輸送、製造、保管、販売に至るまで、全行程が国内のみで行われているのです」



………………………………



 彼がまだ小学生の頃、世界中である『感染症』が蔓延し、マスクを始めとした衛生用品が一斉に店頭から姿を消したことがあった。


 当初は一過性のものとも考えられていたが、一月経っても、二月経ってもそれが収まることはなく、やがてマスクは戦略物資とも呼ばれ、各国はこぞってその確保に追われていた。


「そういえば、子どもの頃に両親が騒いでいたのを覚えてるよ。学校もしばらく休校になったよね」


 彼女は頷いた。その、どこか遠い昔を懐かしむ姿に、本当に歳下なのかと疑念を抱くとともに、胸のどこかがチクリと痛んだように感じてしまう。


「でも、なんでマスクがなくなったのかな。日本でも作っていたはずなのに」


「その頃は国内で消費するマスクの約8割が輸入品だったそうなのです。品薄になってから慌てて国内の生産量を増やしましたが、一般に流通するまでにはそれなりの時間が掛かりますからね」


 それに、一部の不心得者による転売騒動があったとも付け加えたが、そのことについて彼女はあまり多くは語らなかった。


「結局、以前のように並ぶまでに一年くらい掛かりました。その後はワクチンの普及もあり、徐々に終息の兆しが見えていきましたが」


 まるでその場に居合わせたかのように語っているが、よくよく考えれば、ここは彼女の実家の一部でもある。きっと幼い頃から店に出入りしていたのだろう。思わずその姿を想像してしまい、自然と微笑ましさのようなものを感じてしまう。


 そんな彼女もまた、優しい笑顔を浮かべて自分を見つめている。思いがけず、何だか良い雰囲気になってしまったが、いま一歩勇気が踏み出せない。


 それにしても、マスクについての苦労は分かったが、それがこの気品マスクとやらとどんな関係があるのだろう。


 欠品中の当時ならいざ知らず、十分な供給がされている現在、国産であることにこだわることは、ましてや高価なだけの商品が本当に必要なのだろうか。


 彼の心情を見透かしたかのように、彼女は苦笑しながら目を細めると、気品マスクが誕生した経緯について語り始めた。


「感染症が一段落して、皆がマスクを外したとき、過剰となった国内の製造設備も不要になったかと思われました。でも、それは違ったのです」


 彼女はそこで一呼吸置いた。彼は固唾かたずを呑んで話の続きを待った。


「安いからと言って海外産ばかりを購入していたら、国産品が売れなくて製造を辞めてしまいます。そうしたら、またいつか同じような事態が起こります。だから皆で少しずつでもいいから、高くても国産品を購入して守ろうと、そういう動きが広まったのです」


 そうして、いつしか純国産マスクのことを『気品マスク』と呼ぶようになったのだという。それらは特定の商品名ではなく、総称であったのだ。


 それを聞いて彼は考えた。グローバル化が叫ばれて久しい現代、自国にばかり固執せず、より経済的に良い環境、例えば人件費の安い国に工場を建て、現地の雇用で生産することは当然のように行われている。


 また、日本の限られた国土でバラバラに農業をするよりは、工業技術やコンテンツ産業、観光業などで外貨を稼ぎ、広大な農地を誇る国で作られた安価な農産物を大量に輸入する。効率的といえばそうであろう。


 世界には役割分担というものがある。互いの国の長所を活かし、資源や技術、情報の公平な分配が出来たのならば、いつか世界中の誰一人として取り残さない、持続的な発展とやらも叶うのかも知れない。


 もちろん、その動きに反対する人たちもいる。それは国粋主義や保護貿易とも呼ばれており、一般には排他的であると敬遠されがちなものではある。


 この気品マスクもそんな思想の現れではないか、不意にそのような疑問が彼の心中から湧き出し、思わず口から零れてしまう。


 今度こそ彼女の不評を買ってしまうかと気を揉む彼であったが、彼女は笑顔を崩さずにそれに応えた。


「いつか、世界中の人たちが本当の意味で助け合える世の中になると良いですね。でも、私たちはそのときまで生きていかなければなりません」


 いつしか、商品の検品は終わっていた。話しながらも手は休めず、予定通りに作業を終える彼女にはれしてしまう。


「売れるといいね、気品マスク」


 そう言って彼はもう一度その棚を見た。どこにでもある何の変哲もないマスクは、それでも彼女と同じで気高く思えた。


ピンポーン


 不意に店内への来訪を告げるチャイムが鳴る。二人はその場を片付けると、慌ててレジへと向かうのであった。

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世界が生まれた5分前 アクリル板W @kusunoki009

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