理香より始めよ


 皆様は『かいより始めよ』というものをご存知だろうか。


 これは古代中国が由来の故事成語であり、意味としては「大きな事をしたければ、まずは身近なことから始めよう」という旨のものである。


 かつて中国にはえんという国があった。中国ではしばしば同じ国名が様々な時代で登場するが、今回は紀元前312年に即位した昭王の時代、漫画キングダムに登場するあの燕といえば分かりやすいだろう。


 昭王が即位したとき、燕は隣国のせいにより滅亡寸前であった。そこで燕再興を決意した昭王は、学者である郭隗かくかいという人物に相談をしたのだが、彼から提案されたことは「まずは自分郭隗を優遇せよ」というものであった。


 これだけ聞くと、自分の利益しか考えない強欲な人物に思えるが、その意図は彼を手厚く持て成すことにより、その度量に感服して周辺諸国から有能な人物が集まるというものであった。


 この策は見事に的中し、燕は大国として戦国七雄にまで昇り詰めるのである。そして、後世の歴史家は郭隗かくかいを称賛し、『かいより始めよ』という言葉が残ったのであった。



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「クンクン、泥棒猫の臭いがするのかしら」


 仄かに漂う熱気とともに自己主張を増した恒星が、それでも決して永遠ではないことを立証する夕暮れの中、帰宅した僕に抱き着いてきた少女はそんな悪態をついた。


 少女の名前は『火遠理ほおり 理香りか』、この僕『火遠理ほおり れい』の実の妹である。


 ちなみに、偽の妹もとい、親友の妹である『聖約であて 沙那さな』と途中まで帰り道が一緒だったのだが、どうやら本能的に勘付いたようである。


 理香と沙那は犬猿の仲であり、顔を合わせれば事あるごとに自分こそが理想の妹であると、全世界の誰ひとりとして取り残す、限りなくどうでも良い喧嘩を始めてしまう。


 一方で、葦原あしはらの女神と讃えられる幼馴染の信奉者であり、なぜかしきりに僕に薦めてくるのだが、そこには歪んだ感情が見え隠れしていた。


「まったく、これだからお姉さまは隙だらけで困りますわね」


 一応、断りを入れておくが、僕は男である。決して一人称が僕の『ボクっ』ではない。確かに中性的な顔立ちのため、服装によっては間違えられることもあるのだが、そこだけははっきりさせておきたい。


 理香はどういうわけか、僕のことを『お姉さま』と呼ぶのだ。つまり、偽の妹には『兄様』と呼ばれ、本物の妹には『お姉さま』と呼ばれているのである。一体彼女たちの目に僕はどのように映っているのだろう。


 もっとも、そうなった原因に全く心当たりがない訳ではない。それは幼少期、くだんの幼馴染と共に過ごす機会が多く、その影響で服装や行動が女児寄りのものであったのだが、理香にはそのときの印象が心的外傷トラウマのように残ってしまっているのであろう。


 とはいえ、今は高校生となった僕たちにその頃の面影は殆どない。二人で遊びに行くこともたまにあるが、それはもう少し大人びたものであり、とはいえ仲の良い友人の域を出るものではなかった。


「お風呂の用意が出来てるから、早くあの女の残り香を落としてくださいまし」


 まったく、まだ中学生だというのにどこでそんな言葉を覚えてくるのだろう。いや、それとも今どきの女子中学生JCはこんなものなのだろうか。


 僕は立夏りっかだというのに身震いを感じながら、追い立てられるように入浴を済ませるのであった。



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「ご飯ならテーブルの上に出来ているのかしら」


 仕事で帰りの遅い両親に代わり、家事全般をこなしているのは理香であった。兄より優れた妹など存在しないという格言は嘘なのだろう。


 偽の妹こと沙那は天才である。そして、実の妹こと理香もまた天才であった。これは何も身内贔屓みうちびいきなどではない。


 ただ二人が違う点は、沙那が理性的な天才、現代科学の交通結節点たる最先端を歩む者フロントランナーであるのに対し、理香は本能的な天才、過程を飛ばして本質だけを踏む道なき荒野を歩む者フリーランナーであった。


 沙那が「一を聞いて百を知る」タイプだとすれば、理香は「一を聞かずに十を知る」タイプである。この二人が組めば解き明かせない謎などない気もするのだが、残念ながらそれは永遠に来ないであろう。


 レンジで温めた少し遅めの夕食をりながら、そんな物思いにけていたとき、ふとリビングのテレビの上部に白字のテロップが入った。


『〇〇県知事選挙、〇〇氏当選確実』


 それは選挙速報であった。出口調査などにより、投票終了直後に結果が報道されることに違和を感じない訳ではないが、まだ選挙権を有さない僕にはどうでも良いことである。


 そう言えば、今は葦原市あしはらしの市議会議員選挙の期間でもあった。沙那との帰り道にも何度か選挙カーや街頭演説に出くわしたものである。


「どうして皆、自分の名前を連呼しようとするのかしら」


 理香も同じことを思い浮かべていたのか、そんな感想を漏らしていた。もっとも、その作戦は戦略的には有効なのである。


 限られた時間の中で、自身の政策を詳細に訴えようとしても、殆どの通行人は通り過ぎるだけである。


 たまに熱心に聞く人も見かけるが、それは大体がスタッフか支持者であり、演説を聞かなくても投票してくれる人、言い換えれば演説の効果が無い人である。


 そうなると、せめて名前だけでも印象に残すことで、いざ投票しようとした時に思い起こし、投票してくれることを期待しようとする。つまりは刷り込みインプリンティングである。


 しかし、市町村の議員の場合、町内会などの地域コミュニティの影響が強く、地元の代表という側面を持っている。


 定数だけを見ればそれなりにあるのだが、結果としては、各地域から毎回決まった人数が選ばれていることが多い。


 そのため、地盤を受け継ぐなどの場合を除いて、無名の新人がいきなり立候補して当選することは稀である。政策を訴えることは難しく、同じ名前を連呼するだけでは組織票に敗れてしまうのだ。


「もっと聴衆に訴える効果的な演説があるはずかしら」


 どうやら理香は選挙演説に興味を持ったようだ。背景も支持もない状態で、演説だけで如何にして当選に漕ぎ着けるのか…、僕は夕飯の残りを突きながらその答えを待った。



………………………………



「皆様、まずは理香より始めてください」


 しばらく黙考していた理香は、突然立ち上がると僕に向けてそんな言葉を発してきた。僕はただ一人の聴衆として、真意を知るためにその続きを待った。


「政治は自分とは無関係だ、何も出来ない、変わらないと諦める前に、まずは最初の一歩として、理香に投票することから始めてください」


 なかなかに情熱的でサマになっている。しかし、これだけでは名前を連呼する候補者と大差はない。何らかの理屈が伴わなければ一笑に付されることだろう。


「私は若い世代のためだけに政治をします。高齢世代の皆様のことは、他に大勢いる先輩政治家たちにお任せします」


 そう思ったら、今度はいきなり過激なことを言い出した。これは明らかな失敗である。いくら丁寧に言ったところで、堂々と宣言してしまっては高齢世代からの票は望めまい。


 少子高齢化が進む現代、総務省の人口推計(2021年4月報)によれば、20-30台は2,652万人、40-50台は3,468万人、60台以上は4,367万人である。


 比率にすれば25%、33%、42%となるが、一般的に投票率は高齢世代の方がずっと高い傾向にあるため、如何にその影響力が強いかが分かるだろう。


 政治家は当選しなければただの人、にもかくにも先立つものは票である。そうなると、投票してくれる者を中心に考えてしまうのは自明の理である。


 「若い世代の方だけでも、私一人くらいなら十分に当選できます」


 確かに市町村議会であればそれも可能だろう。定数に比べて狭き門と感じるのは、あくまで地域を中心にしているからであり、全地域を跨いで特定世代の支持を集めることが出来れば、当選は十分に可能である。


「そして、そんな私を見て、第二、第三の私が全国に現れるでしょう。そう、あなたの行動が日本を変えていくのです。その記念すべき第一歩として、まずは理香より始めてください」


 僕は思わず拍手をしてしまった。案外、これは上手くいくかも知れない。単一論点ワン・イシューとして、世代間の不満を煽るのは危険は伴うが効果的ではある。


 しかも、具体的な政策には一切触れていない。これなら特殊な地域を除いて、全国どこでも同じことが言えるのだ。


 若い世代の支持を受け、若い世代のためだけに邁進まいしんする政治家たち、たとえ議会の多数派となることはなくとも、一定数を確保できれば無視の出来ない勢力となる。


 やがて、その動きが全国の自治体に広まれば、都道府県や国会議員の中にも同調する者が現れるだろう。まさに理香から日本は変わっていくのかも知れない。


「さてと、与太話はその辺にして、学校の宿題でも済ませるかしら」


 一人、興奮状態に陥っていた僕に冷や水を浴びせるかのように、理香は溜息を付くと鞄から教科書とノートを取り出した。僕も食べ終えた食器を流し台に運んで、洗剤を付けたスポンジで丁寧に洗う。


 時折、理香の表情を窺うが、そこにはもう先程の扇動者の姿は影もなく、年相応の少女がいるだけであった。

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