第5話 頑張るのは誰でも出来る
あのシーンを夢に見た。
もちろん決勝戦のあのシーンだ。
あの1球さえなければ……この夏は特別な物になっていたかも知れない。
あのまま投げ続ければ、遅かれ早かれ俺の肘はダメになると
だけど、やっぱり俺たち高校球児にとって甲子園は特別だ。
甲子園で勝つことが出来なかったとしても、あの試合は勝ちたかった。
「——おはよう
夢から覚めると目の前に
「なに、やってんだ美菜……」
「おはよう拓哉」
意味あり気な笑顔の美菜。これは挨拶を返さないと終わらないやつだ。
「おはよう美菜……」
「今日からだよね」
「今日からだよ」
「あのね……よく考えたんだけど、私もついて行く」
……やっぱそういうことか。
「ダメだ」
一瞬眉をピクリとさせたが、笑顔を絶やさない美菜。
「ついて行く」
「ダメだ」
「ついて行かせて」
「おねだりしてもダメだ」
「ついて行くよ?」
「可愛く言ってもダメだ」
「ついて行くってば!」
「逆ギレしてもダメだってば!」
「なんでよ!」
押し問答でついに美菜の笑顔が崩れた。
「遊びに行くんじゃないんだって!」
「うぅぅぅぅ」
頬をぷーっと膨らませる美菜。
なんだろう……今までもこういうシチュエーションになることは有ったんだけど、今日は少しドキドキする。昨日の“キスしようか?”効果が今も続いているのかもしれない。
結局あれはブラフだったけど女子として意識してしまったのだろうか。
いや……今はそんな事を考えている場合ではない。この状況をなんとかしないと。
「退いてくれよ美菜」
「嫌、退かない!」
……こうなると美菜は頑として聞かない。どうしたもんだ。
なんて考えていると……、
「兄貴、朝ごは……ん……」
しかしその代償として、俺は連日、優花の誤解を必死で解く羽目になる。
——結局美菜は、結衣里先輩ん家までの荷物持ちという名目でついてきた。
「ひとりで持てるのに……」
「ダメだよ……だって右腕故障してるんでしょ?」
「それは、このまま投げ続けたらだよ! 今はしていない」
「遠慮しないで」
当然ながら遠慮などしていない。
「本当に大丈夫なの?」
「なにが?」
「……立花先輩……日本一可愛い女子高生だしさ」
「だからなんなんだよ」
「……その、誘惑に……」
「アホかお前は、そんな可能性万に一つもねーよ! 向こうにだって選ぶ権利あるだろ?」
「それもそうね!」
美菜は全てが吹っ切れたような笑顔で納得してくれた。その理由で納得されると俺としては悲しすぎる。
「ここだよ」
「え……ここ」
美菜も結衣里先輩ん家の豪邸っぷりに狼狽していた。
インターホンを鳴らすと結衣里先輩が出迎えてくれた。
「おはよう、拓哉……彼女同伴で入寮ってのは中々見下げた根性ね」
ド直球で美菜の存在を突っ込まれた。
「いや、こいつは彼女とかそんなんじゃなくて……幼馴染なんです、俺が怪我してるって聞いて荷物持ちをかって出てくれて」
「そう、それはいい心がけね」
「立花先輩! 朝井美菜です。拓哉の事をよろしくお願いします」
「結衣里よ、あなたにとって立花先輩はもうひとりいるわ」
美菜も昨日の俺と同じように返されていた。これで名前呼びも納得してくれるだろう。
「では改めて、結衣里先輩、拓哉の事をよろしくお願いします!」
「……よろしくお願いされるかは拓哉次第ね、彼が私の期待値を超え続ければよろしくしてあげるわ」
え……なんか昨日聞いた話よりハードル上がってね?
「拓哉……私、帰るね」
「お……おう、ありがとうな」
結衣里先輩と接触して色々察したのか、美菜はあっさりと引き下がった。
……結衣里先輩が放つ独特の雰囲気は、美菜と相性が悪そうだもんな。
「では結衣里先輩、失礼します」
「待って朝井さん」
帰ろうとする美菜を呼び止める結衣里先輩。
「せっかく来たのだから一つ手伝ってもらえないかしら」
美菜に手伝い?
「……私にできる事であれば」
「できるわ、よろしくね」
「よろしくお願いします!」
俺たちは裏庭に案内された。
結衣里先輩ん家の庭は、引くほど広かった。
ネットもきっちり張られていた、ピッチング練習どころか打撃練習もできそうな設備だ。
結衣里先輩は物置からキャッチャーミットとスピードガンを取り出した。
スピードを測定するのだろうって事は何となく分かるけど……受ける気なのか?
ていうかキャッチャーミットとスピードガンがなんであるの?
「朝井さん、これをお願い。使い方は……」
美菜にスピードガンの使い方を教えている?
てことは、結衣里先輩が受けるの?
「さあ、拓哉アップしましょう」
結衣里先輩はキャッチャーミットを着けて構えた。
マジで受ける気なんだ……でも硬球は当たったら洒落にならない。大丈夫なんだろうか。
「結衣里先輩……いいんですか?」
「何が?」
「何がって……硬球ですよ? 当たったら痛いってもんじゃありませんよ」
「大丈夫よ、当たらないわ……心配するなら構えたところにきっちり投げて」
マジかよ……、
俺は半信半疑で軽くアップをはじめた。
——しかし、その心配は全くの
上手い……普通に上手い。
そして返球も上手い。
「結衣里先輩って野球やったことあるんですか?」
「
野球を嗜むって……どんな程度だよ。
言葉の意味はよく分からないが自信はあるようだ。
よし……肩も温まってきた。
「もう少し、力入れても大丈夫ですか?」
「問題ないわ」
俺は少しずつ、感覚を確かめるように力を入れていった。
……ていうか……結衣里先輩……普通に凄い。
少しぐらいずれても完璧に捕球している。そして返球は必ず構えたところに来る。
野球経験者だってことは間違いないだろう。
「もう、肩の仕上がりは大丈夫かしら」
「はい、大丈夫です」
「では、今の拓哉の実力と今後の目標を次の1球で見極めましょう……全力で来なさい」
全力……か。
よし……今の俺の全力……しっかり見極めてくれよ!
結衣里先輩の構えたキャッチャーミットにボールが吸い込まれズバーンと乾いた音が鳴り響いた。
……き……気持ちいい!
結衣里先輩、キャッチング上手すぎだよ!
「どう? 何キロだった?」
「142キロです!」
142キロか……球筋重視でスピードガンをあんまり気にすることはなかったのだけど、案外出てるな。
「拓哉、152キロよ。来年の夏には152キロのストレートを投げてもらうわ」
え……152キロ?
10キロ増し?
「そ……そんなにも伸びるんですか?」
「あなたの体格なら充分可能よ」
ま……マジか!
「俺、頑張ります!」
「頑張るのは誰でも出来るわ、結果をだしてね」
うぅっ……。
「では、クールダウンよ。これが今年最後の投球になるけど、未練たらしくやらないでね」
……ひとつひとつの言葉にトゲがある。
でも、やるしかないな!
こうして俺たちの新たな夏が始まった。
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