春 -宮原祐介

 宮原祐介みやはらゆうすけが生まれ育った町に戻ってきたのは、約三十年ぶりだった。


 最寄りの駅から三十分ほど離れた場所にある実家で、小学校卒業までの時を過ごした。


 少年時代を地域の野球チームに捧げた祐介は、中学・高校が一貫教育の野球の強豪校に進学したのだ。

 隣の県にある進学先は全寮制で、祐介と同じく野球漬けの幼少期を送った生徒であふれていた。


 努力して身に着けた野球の技量だけでなく、持って生まれた運動神経にも恵まれた野球部員の中で、祐介がレギュラーでいられたのは、ごく限られた期間だけだった。

 それでも中高六年間、野球部の活動に打ち込んだ日々は、祐介にとって人生の輝かしい思い出だ。



 部員一丸となって宿願としてきた甲子園には、もう一歩のところで出場が叶わなかった。

 地区大会の決勝で、あと一点を奪い取れなかったのだ。


 終了とともに泣き崩れる仲間を前に、同じように悲しんでいる風を装いつつも、ベンチにいた祐介は少し斜に構えた心境だった。


 自分がどれほど頑張っても、追いつけないレギュラーの同級生たち。

 彼らが結束したところで、甲子園には及ばなかった。


 さらに、自分たちのチームを決勝で破った県代表校も、その後の甲子園の初戦であっけなく敗退した。


 世の中には、上に上がいるものだ。自分はどうしようもなく三下なのだ。


 六年をかけて薄々気付いていた世の摂理に、控えの選手として迎えた地区大会敗退が最後のとどめとなって、祐介から必死で努力することの意義を奪っていった。


 いや、野球にそこそこで見切りをつけて、高望みをせず手ごろな大学、手ごろな会社に入ったから、今があるのだ――。


 今なお心の奥底に残る青春時代の苦い記憶に近付きそうになると、“県大会準優勝の輝かしい思い出”というラベルで封じ込めるのが、祐介のいつものやり方だった。



 今や自分は見る影もなく、すっかりビール腹を持て余す体型になってしまった。保険会社に就職して二十年目になるが、飲んで帰らない日の方が珍しい。


 営業として外回りする日々に、もはや恥じらいや抵抗感はないが、酒で紛らわしてストレスを発散せずにはいられなかった。


 一つには、半年前に離婚して賃貸マンションを引き払い、先月から実家に仮住まいしていることも大きい。

 妻の職場と自分の会社の中間地点に借りたマンションよりも、実家の方が会社に近く、両親も高齢になってきているから丁度良いだろうと軽く考えた結果だった。



 小学校卒業とともに親元を離れた息子と再び暮らせるとは、想像もしていなかった両親は最初喜んだ。

 しかし、野球にがむしゃらだった十二歳のころとは真逆の、くだらない大人になってしまった祐介の本質に行き当たると、複雑な表情を隠さなかった。


 祐介も、共働きだった元妻との生活と比べ、必要以上に生活に干渉してくる年金暮らしの両親のことを、疎ましく感じるようになっていた。

 実の親というよく知っている存在のはずなのに、当初思っていたより大切にできない自分に苛立ってもいた。



 例年より寒い冬もようやく終わりが見えてきた三月、家に帰るとネクタイがないことに気が付いた。


 飲み会の途中、首から下がったネクタイの先がビールジョッキに浸かりそうになって、慌ててジャケットのポケットに突っ込んだことは、どうにか覚えている。


 ここ最近では珍しくあたたかい夜だったこともあり、浴びるように酒を飲んで火照ほてった体を冷やすため、脱いだジャケットを脇に抱えたまま電車に乗り込んだ。

 最寄り駅で下車してからは、明日も朝早いのに夜遅くなったことを後悔しつつ、家路を急いだ。


 落としたとすれば、電車の中か、駅から実家までの三十分の道筋だろうか。



 祐介が落としものをするのは、それほど珍しい話ではなかった。


 酒が入ると身に着けているものを切り離したくなる質で、腕時計やポケットの中の携帯電話を体から外しては、居酒屋の席に置いてくる癖を、自覚していた。


 結婚直後には、生まれてこの方、身に着けたこともない指輪が薬指にはまっていることが気持ち悪くて、少し気を抜くと無意識に外して出先に忘れてきていた。

 元妻にはそのことでずいぶん責められたものだ。


 ネクタイを忘れたり落としてくることにも慣れていた。

 ネクタイは無くすものと最初から諦めて、ときどき買い足して多めに持つようにしていたから、慌てるほどのことではない。


 そう、それがただのネクタイなら。


「パパ、すぐネクタイなくしちゃうから、美咲みさきがプレゼントしてあげる」


 娘の美咲が幼いころ、父の日のプレゼントはいつもネクタイだった。


 妻の助言で二人で買いに行っていたのだろうが、父親にあげるならネクタイという図式は、美咲が高校生になった今も彼女の意識に残っているらしい。

 祐介たち夫婦が離婚に踏み切る直前、高校の修学旅行でロンドンに行ってきた美咲がぶっきらぼうに「これ、お土産」と言って渡してきたのも、ネクタイだった。


 英国老舗百貨店で見繕ったネイビーとイエローのレジメンタル模様は、祐介の職種や普段の服装を考えると華やかすぎたが、娘から贈り物をもらうなど祐介には久しぶりの出来事だった。



 修学旅行でヨーロッパだなんて近頃の子どもは贅沢だなぁと内心思いつつも、祐介は旅行前、美咲の勉強机にお小遣いを奮発した袋を置いていた。


 だから、このネクタイは出資元への配当というか、元を辿れば祐介自身の財布から買ったようなものなのだが、妻との仲が不和で思春期の娘と会話もない祐介にとっては、感極まるのに十分だった。


 ただ、固い営業先へ向かう日につけるには華美なので、着用する日は限られていた。

 今日は、社内会議と内勤だけだったので珍しく身に着けたというのに、あっさり娘からのプレゼントを無くしてくるとは。



 次の日、祐介は下を向いて道を探しながら駅へ向かい、駅の忘れ物窓口や居酒屋には仕事の合間に電話で問い合わせた。

 帰りには駅の向こうの交番でも聞いてみたが、そのような届けはないとのことだった。


 休日が来ると待っていたとばかりに、祐介はネクタイの捜索に駆け出した。家から駅までの距離を再度、舐めるように見て回ったが、ネクタイの華やかな縞模様はどこにも見えなかった。


 成果を上げることなく駅に到着して、祐介はあの晩のことをもう一度思い出そうとした。

 と言っても、当時は酒にかなり酔っていて、記憶は不確かだ。


 そうだ、あの日は同僚と自分たちが若いころの話になって……この地元で過ごした少年時代に思いを馳せながら、電車に乗って帰ってきたような気がする。

 祐介は、はたと思い当たった。


 それで、子どものころから知っている商店街を抜ける近道を思い出し、夜遅く、駅から三十分の道のりが煩わしいこともあって、気まぐれで帰り道を変更したのだった。


 思い出すと同時に、祐介は商店街の方へと歩き出した。



 商店街に足を踏み入れて驚いた。

 記憶にある商店街は、閉店している店も多く歯抜け状態ではあったが、それでも半分ほどの建物には灯りがともっていて、買い物客もそれなりに歩いていたはずだ。


 それが、今はどうだろう。ものの見事にシャッター商店街と化している。

 人が住まなくなったまま風通しもろくにしていない建物が多いからか、心なしか埃っぽいこもった臭いが鼻をつく。


 あのころは、肉屋のコロッケの匂いが充満していたぐらいなのになぁ。

 自転車で精肉店の前まで乗り付けて、揚げたてのコロッケを買い食いした思い出が瑞々しくよみがえった。


 肉屋はこのあたりだっただろうか、と思ったところで、地面を見ていた顔をふと上げると、奇妙な物体が祐介の眼に入り込んできた。


 それはマネキンだった。

 商店街の中央よりも少しれた路上に、ずっしりと重そうなマネキンが立っている。


 おかしなことに、そのマネキンは派手に着飾っていた。

 山吹色のケーブル編みのカーディガンに、頭には明るい紫色の毛糸帽子まで載せている。


 そして、首元には、美咲がロンドンで選んでくれたネイビーとイエローのネクタイが無造作に巻きつけられていた。



 あっと目が釘付けになった祐介の後ろで、店のガラス戸が開いて人が出てくる音がした。

 思わず振り返ると、シャッター尽くしの中で、昔ながらの洋品店が一軒だけ灯りを放っていて、その中から同年代ぐらいの女性が出てきたところだった。


『少しの間、留守にします』と書かれた札を店の前に吊るして、商店街を進もうとした女性店主は、祐介に気が付いた。


「あら、もしかしてその落としもののどれかに、心当たりあります? 

そのマネキンに掛けられているのは全部、この商店街で拾われた落としものなんですよ。

最初に始めたのは私なんですけど、その後も拾った人が、こうやってマネキンに載せておけば目立つからって置いていくんです」


 やっと状況を理解できた祐介は、ネクタイを発見した喜びと興奮のままに、洋品店の店主に思わず事情を説明した。


 家庭内不和で離婚して実家の両親ともうまくいかない中で、なぜか目の前の女性なら、なんでも話を聞いてもらえそうな気がした。


「そうですか、修学旅行のお土産に……素敵な娘さんですね。

修学旅行でロンドンだなんて、どこか遠方の私立の高校なんでしょうね」


「えぇ、今は別れた妻と住んでいるんですが。

僕は一人で実家があるこの町に出戻りというわけです」


「あぁ、それで。

ここが駅までの近道だって知っているのは、地元の人間だけですからね。

驚いたでしょう。

もう今はこの通り、うちの店以外はシャッターが下りたままですし」


 どこか切なそうにする店主の顔を昔どこかで見ていたような気がして、祐介は少年時代の記憶を頭の中で検索した。


「うちの店も、時代にそぐわない派手な衣類ばかり置いている洋品店ですけど、この奇抜なマネキンが商店街に立つようになってから、なぜか少しずつ客足が戻ってきたんですよ。

お直しやオーダーメイドの注文も入るようになって。

あんな古いマネキンでも客引きになったんですかね」


 店主はおかしそうな笑顔を見せて、

「私が子どものとき既に、先代の母が作った洋服をド派手だって同級生の男の子にからかわれたりしてたのに、

今さら認めてもらえる日が来るなんて……思わないですよねぇ」

と遠い目をした。


「もしかして……君は……」



 山吹色のカーディガンに紫色の毛糸帽子、ネイビーとイエローのネクタイでめかし込んだマネキンが、シャッター商店街の真ん中で、三十年越しのふたりの再会を静かに見守っていた。


<了>

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着飾ったマネキン 布原夏芽 @natsume_nunohara

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