着飾ったマネキン

布原夏芽

秋 -樺沢真紀子

 大通りから一本入ったところに、昔ながらの商店街があった。

 古びたアーケードの下に並んだ店のほとんどが閉業していて、シャッターが下りていた。


 ほとんど商店街として機能していない通りだが、駅までの抜け道として使う人たちは、それなりの数、存在していた。



 午前九時。樺沢かばさわ真紀子まきこは今朝も、惰性のままにシャッターを上げた。

 この通りを駅へと急ぐ人の多くは若者で、自分が母親から引き継いだまま続けている洋品店の前で、足を止める人などなかった。


 それでも、なんとなく店を閉められないのは、母が亡くなる間際、病室で店はどうなったのかとしきりに気にしていた姿が、脳裏に残っているからかもしれない。


 霊魂のたぐいを信じていない真紀子にとっては、この洋品店を続けることで天国の母が喜ぶだとか、そういう気持ちはまったくといっていいほどなかった。


 ただ、この店を営業し続けることで、ふとしたときに、生前の母が店の片隅に佇んでいるような、そんな錯覚を覚えるのも事実だった。



 シャッターが下りていた店先を、いつものようにほうきで軽く掃いておく。

 どうせ今日もこの敷居を跨ぐ人はだれもいやしないが、通りをゆく人へ向けた、せめてもの強がりのようなものだった。


 なにしろ売れないのだから、新しい衣類を入荷するわけにもいかない。

 母の時代から店頭にぶら下がっているままの、くたびれた婦人用カットソーやチュニックは、大幅に時代遅れの代物だ。


 この店から専門学校に通っていたころは、道行く若者が見下しているんじゃないかと疑心暗鬼に駆られたこともあったが、店主となってはや二十年。そんな段階はとうに通り過ぎた。



 母は洋裁が好きな人だった。

 幼いころの記憶に残っている母は、いつもこの店の奥の作業台でミシンをかけていた。


 当時から商品の売れ行きが良いとは思えなかった。

 一度購入していった客のお直しを請け負ったり、規格外の体型の客のため受注の品を縫ったりする余暇で、母は娘の洋服も定期的に仕立てた。


「まきちゃん、次はどんなお洋服を着たい?

 このバラ模様の布でワンピースはどうかな?」


 一緒に洋品店を建てた父は真紀子が年端もいかないうちに出て行ってしまい、苦労したはずの母だが、真紀子の記憶ではいつも朗らかだった。



 幼児のうちは何もわからないまま身に着けていた母の手製の服が、急に魅力を失ったのは小学校高学年のころだっただろうか。


「樺沢さんってどの人? 委員会のプリント渡すように頼まれたんだけど」


 転校してきて間もないクラスメートが、一年生のころから真紀子とクラスが同じで仲の良い男子、宮原みやはらに尋ねているのが遠くから聞こえてきた。


「樺沢真紀子は……あそこにいるやつ。ほら、あのド派手な服を着てる」


 幼稚な声を教室中に響かせながら、宮原が教室の対角にいる自分を指さしてきた記憶が、真紀子の脳裏によみがえった。



 その一件以来、真紀子はスーパーの衣類売り場でジーンズやTシャツなど、手作りでは作りづらい服を選んでは、ねだるようになった。


 母が自分のために洋服を仕立てようとしている気配を察知すれば、


「柄物はやめて! 地味な色の無地で、スカートかトップスどちらかにして。

学校でワンピース着てる子なんかいないんだから」


と釘を刺すことも忘れなかった。


 与えられるがままに手作り服を着ていた時代と比べ、どんな服を着れば悪目立ちしないかを気にし始めたことで、無頓着だったファッションにも興味が芽生えた。

 中学生になってからは休日にショッピングモールへ出かけては、お小遣いで洋服を買い揃えるようになった。


 その延長線上で服飾の専門学校に進学したのだから、母の洋裁に悩まされた末に自分も同じ分野に進んだことになる。


 その因果を考えるたび、真紀子はあまり好きじゃなかった母の手作り服も、お洒落な学生が集まる専門学校とは正反対の昭和風が恥ずかしいと思っていたこの洋品店も、自分の原点なのかもしれないという気持ちになる。



 自分が縫い物をするようになって、母が派手な柄物ばかり選んで服を作っていた気持ちがわかるようにもなった。


 洋服づくりはとにかく膨大な時間がかかる。

 製作中に目を楽しませる柄の布地は、単調なミシン掛けが続きがちな裁縫の時間をわずかにでも彩ってくれた。


 生前には理解できなかった母のそんな気分が反映されたのが、この雑多な洋品店ともいえる。


 流行をまるで無視した大柄の幾何学模様や、原色どうしがまだらに溶け合うようなプリント柄。

 こんな服だれが買うのかと、若き日には馬鹿にさえしていた衣類が、少しほほえましく今の真紀子の眼には映った。



 母の死後、ますます閉業する店は増えた。


 隣の精肉店が店主の長期入院で店を閉めたのが五年前。

 店主のおじさんには幼少期からよくしてもらったが、揚げたてのコロッケの匂いが朝夕構わず流れてくるのがなくなったことはありがたかった。


 今まで閉め切っていた店のガラス戸を通りに向けて開け放ち、マネキンを外に出すことにした。


 母が大昔に購入した、店でただ一体のマネキンは重量があって、外に出すだけで大仕事だった。

 売り物の服をディスプレイしているうちは、閉店後は店内に仕舞っていたのだが、最近は服をマネキンに着せること自体が億劫になって放置していた。


 古くて重たいマネキンを盗んでいくような人はだれもいないだろうと、店内に取り込むこともせず、アーケードの屋根で雨風が当たらないことも言い訳にして、マネキンは常時出しっぱなしになった。


 夜にシャッターを下ろした外側で、裸のマネキンが佇んでいた。



 右隣も左隣も向かいも、無機質なシャッターに囲まれていることに、真紀子は息苦しさを感じていた。

 うちの店が終われば、この通りは完全にシャッター一直線になってしまう。


 その流れにあらがうかのように、真紀子は毎日、シャッターを上げ続けた。

 それでも午後五時の閉店でシャッターを下ろすと、人の息吹のしないシャッター通りが完成してしまう。


 古くなって錆びついたシャッターを力尽くで引きずり下ろして一息つけば、子どものころはにぎわいのあった商店街がついに死んでしまったようで、そしてその最後のとどめを刺したのが自分であったかのように思えて、ぞっとした。


 真紀子にとっては、店がどれほど古臭くてもダサくても、ここに明日も灯りをともすことが自分の責務のように思えて仕方がなかった。



 アーケードを通り抜ける外気にも涼風が混じり始めた九月の朝、外側からシャッターを開けるため、隅に備え付けられたくぐり戸から商店街に出た真紀子は、店のすぐ前に何かが落ちていることに気が付いた。


 拾い上げてみると、それはカーディガンだった。

 少し色の落ちた山吹色のニットで、ケーブル編みの模様が全体にあしらわれている。


 もちろん真紀子の洋品店の商品ではない。

 この商店街を抜けて駅へ向かった人が落としていったのだろうか。


 近頃は季節の変わり目で、夜は肌寒いことも多い。

 帰りに羽織れるよう持参したが、行きは着るには暑く、腕かカバンにでも掛けて道を急いだのかもしれない。



 この商店街は薄暗く埃っぽいが駅への近道なので、通っていく人はだいたい時間に余裕のない場合が多い。

 そのせいか、落としものを見つけることは初めてではなかった。数年前には財布を拾って、駅の向こうの交番まで持って行ったこともある。


 しかし、今回はカーディガンだ。

 真紀子はためらった。


 金目のものでもないし、わざわざ交番に届けるほどでもないのではないか。落とした人も交番へ行くより、自分が歩いた道筋を辿って探そうとするような気がした。


 とはいっても、道に置きっぱなしにしておくのも気が引けた。

 落とし主が探しにきたときにすぐわかるよう、目立つところに置いておきたいけれど……と辺りを見渡すと、長らく外に出したままで見て見ぬふりをしてきたマネキンが、真紀子の眼に入った。


 真紀子は、マネキンの肩口を手のひらで叩いて埃を払ってから、山吹色のカーディガンをマネキンの両肩に掛けた。

 売り物ではないので、マネキンの腕をカーディガンの袖に通すのは止めておいた。


 しかし毛糸の重みで、ほどなくしてずり落ちてきそうだったので、前のボタンはむ無く閉めることにした。



「ほら、まきちゃん、新しいカーディガン。

 あたたかそうな生地を見つけたから、作ってみたの」


 ニコニコしながら幼き日の真紀子に手製のカーディガンを羽織らせ、ボタンを前から留めていく母の手を思い出した。

 あのころの母は、ちょうど今の自分と同じぐらいの年齢だったのではないか。


 思い起こした母の手は、洋品店での針仕事と家の水仕事で使い込まれていて、つい今しがたマネキンにカーディガンを着せてやった自分の手よりも、豊かだったように思えた。



 昨夜か今朝、ここを駅への通り道として使った人ならば、またそのうち通りかかるだろう。

 マネキンを通路の中央寄りに引き摺って、今までよりも目立つように置き直した。


 今日もどうせ客は来ない。インターネットで受注した衣類のお直しに打ち込むことにしよう。

 母から受け継いだ、時代遅れの婦人服に囲まれながら。


 さびれた商店街にぽっとあざやかに咲いた花のような、カーディガン姿のマネキンを真紀子は一瞥して、シャッターを上げたばかりの店に引っ込んでいった。


<春 -宮原祐介 へ続く>

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