第3話 レンズの向こう

智絵ちえさん、お久しぶりです」


 授業が終わると、僕は脇目もふらずにりむの家へと急いだ。学校を休んでもう三日。送ったメッセージも既読にならない。


「あら蓮くん。お見舞いに来てくれてありがとうね」

 りむの母の智絵さんが手のひらを合わせて出迎える。髪を後ろで一つに結び眼鏡をかけている姿はりむそっくりだ。りむも大人になるとこうなるのかなと考えつつ、すぐに本題を切り出す。


「その……りむはどうですか? 連絡もないし、心配になってしまって」

「あの子返事してないのね、ごめんなさい。りむったらバカでねぇ、コンタクトつけっぱなしにして目がひどく炎症を起こしちゃったから、一週間くらいは安静が必要なのよ」


 頬に手を当てて、りむそっくりの眉毛の下がった笑顔を浮かべる。深刻な事態ではないことを察して、ひとまず胸を撫でおろした。


「大事でなさそうでよかったです。でも……なんか、りむらしくないですね」


 眼鏡のことじゃないとはいえ、りむはそんなズボラな性格ではない。


「あの子、目に何か触れたりするのが本当に苦手でね。たしか中学二年の秋前だったかしら。一度コンタクトにしようとして挫折しているのよ」


 そんな話、本人から聞いたことなかった。けれどもそれは、僕が眼鏡をやめるよりちょっと前。その時、何があったんだっけ?


「それでまた、この前蓮くんと二人で出かけた日に『今度こそ眼鏡やめる』なんて言い出してね」

「!!」


 全てが繋がる。三年前のあの時と今。僕は同じことをりむに言っていたのをはっきりと思い出した。


「ごめんなさい。僕のせいでりむは──」

「気にしなくていいのよ? 結局あの子、つけたのはいいものの外せなくなっちゃったみたいで。黙って目薬でしのいでたみたいなんだけど、日曜に目が痛いって泣き出して病院に行ったら──というわけね」


 ああ。僕はなんて馬鹿なやつなんだ。

 どうして、あの日部室で目薬をさした時にもっとりむのことを考えてあげられなかったのか。

 どうして、買う眼鏡を僕に選ばせたのか。

 どうして、眼鏡が好きじゃないという僕と一緒に眼鏡部でいたのか。


 ──違う。


 どうして、僕はりむに『素顔が一番いい』なんて言ってしまったのか。眼鏡を買いにいったあの日だけじゃない。三年前も。

 誰にだって変えられないものはあって、他の何かで補って必死に生きている。りむにとっては、眼鏡だった。

 幼馴染だからと気にもかけずに、僕はりむの心を踏み荒らした。

 りむを一番知っていなきゃいけないのは僕だろう?

 この三年間、僕はいったいりむの何を見てきた?小さな変化なんてきっといくらでもあったはずだろう?

 人間がうわべが大事だって? うわべにあった眼鏡のことさえ見えていない僕は、何を見ていたんだ?

 今まで見せなかった新鮮な一面はどうして見せてこなかったのか、考えたか?

 なあ、寺橋蓮。一番近くにあった一つくらい、自分の目でしっかり見ろよ!!!


「……智絵さん、ごめんなさい。僕、急用ができました」

「少しでも会わないでいいの? あの子、喜ぶと思うけど」

「今の僕では駄目なんです。大切な忘れ物をしてきてしまったので」


 〇-〇


「いらっしゃい、蓮くん──あら、うふふ」


 智絵さんが僕の顔を見て表情をくずした。会釈をしてから脱いだ靴を揃えて階段を一段ずつ踏みしめていく。

 日曜日の夕方、僕は再びりむの家を訪れた。休んでから一週間が経つ。今日ならきっと、目もよくなっているはずだ。


「りむ、僕だよ。入っていいかい?」


 ドアをノックすると、聞いたことのない上ずった声が届いた。


「れ、蓮くん!? ちょっと待って!」


 ドタバタと慌てて部屋を片付ける音が聞こえてくる。ものの一、二分のはずなのに永遠のように長い。

 けれどおかげで、僕も呼吸を整えることができた。


「──いいですよ」


 りむの声も落ち着きを取り戻している。僕は意を決して部屋のドアを開けた。


「蓮くんごめんね、心配かけて──あれ? 蓮くんが! 眼鏡! かけてる!!」


 黒いセルフレームの眼鏡に薄いグレーの部屋着。どことなく汚れた犬や洗い終えた雑巾みたいに見えて、悲しくなってしまう。


「何もそんなびっくりしなくていいだろ」

「しかもそれって、この前お店で私が選んだやつ!」

「うん。僕もまた、眼鏡をかけようと思うんだ」

「……どうして?」


 りむの部屋に入れなかったあの日。僕はりむが選んでくれた眼鏡を買うためにショッピングモールへと急いだ。これ以外の方法は考えられなかった。


「りむに無理させていたの、ずっと気付かなくてごめん。りむはずっと僕の近くにいてくれたのに、僕はりむをちゃんと見ていなかったんだ。もしまだ間に合うなら。これからは。僕からりむに近づきたい。りむをもっとよく見るために。りむと同じ世界を見るために。だから僕は、眼鏡をかけ直す」


 僕とりむの間に無音が響く。俯くりむの目は、黒くて太いフレームの向こうにあって僕からは見えないけれど、声を殺して泣き出したのが分かった。心が締めつけられる。いっそこのまま心を握りつぶしてくれたっていい。それほどの罪を、僕は犯してきたのだから。

 リムの縁に涙が溜まり始めてから、りむはゆっくりと口を開いた。


「私ね、ずっと怖かった──」

 ──蓮くんは覚えていないかも知れないけれど、中学生の時に『りむは素顔の方が可愛い』って言ってくれて。すっごく嬉しくて。コンタクトレンズにしようとしたけれど、目に何かを入れるの、どうしても怖くてできなくって。そのしているうちに蓮くんは眼鏡をかけなくなった。君は私を置いてどこかにいってしまいそうだった。だから私は眼鏡をかけたままでも蓮くんに振り向いてもらえるように、色々な眼鏡をかけて、君の一番になりたかったんだ。この前私の眼鏡が壊れた時は、チャンスだって思った。蓮くんが私に一番の眼鏡を選んでくれれば、それが答えになるかも知れないって。でもたくさん見て色々かけても。君は『素顔が一番』ってまた言ってくれて。悲しくなった。蓮くんにじゃない。自分にだよ?私はあの頃から何も変わってなくて、同じ場所に立ったままで遠くなっていく蓮くんを見ているだけだったんだって。『うわべだけ見てるといつか痛い目をみる』って蓮くんにいった言葉が、そっくりそのまま自分に返ってきたよ。自分の外見を、うわべばっかりを見てたのは、私だったんだ。本当にごめんね、蓮くん。


 呼吸すら忘れて胸の内を吐き出したりむは肩で息をしている。レンズで受け止めきれない涙が、せきを切って溢れ出した。


「りむ。恥ずかしくて今までちゃんと言わないでいてごめん。たしかにりむの素顔は一番可愛い。けれど──」


 夕陽が落ちてきて薄暗いりむの部屋に射し込む。部屋が光で満たされて目がくらみそうになるけれど、りむから目は逸らさない。


「眼鏡をかけて笑うりむが、僕は一番好きだ」


 僕が好きなりむは、いつだって眼鏡をかけている。まるかったり四角だったり、つやつやのプラスチックだったりしっとりしたメタルだったり。赤だったり青だったり。

 りむに合わせて眼鏡は変わる。ただの視力矯正器具ではないし、ただのファッションでもない。眼鏡はりむの一部だ。

 もちろん眼鏡をかけていない一面だってあるけれど、妻ヶ根沢りむは眼鏡をかけるものなんだ。

 僕は隣に置いていた肩掛けバッグから長方形の箱を取り出す。泣き止んだりむは、眼鏡に残った涙も拭かずに食い入るように見入る。

 あの日僕が買ったのは自分がかける眼鏡だけではない。部室から取ってきたりむの目のデータのおかげで、本人がいなくてもきっちり調整のされたレンズを入れることができた。しかしレンズの在庫は店舗になく、受け取ったのはここに来る直前のことだった。

 夕陽を優しい七色に照り返す白いケースを開けると、りむは息をのんだ。


「それが、君の選んだめがね──」


 鮮やかで深いピンク色の樹脂は光の加減で透き通っているようにも不透明にも見える。テンプルには純白のハート、水玉、チェック、ストライプ。様々な柄のパッチワークが彩る。形状は、僕がりむの長い睫毛と表情を見たくて、オーバルタイプのアンダーリムを選んだ。レンズは横顔がよく見えるよう、一番薄いものを。

 先日りむと店に行った時もこの眼鏡は確かにあったのに、僕の目にはとまらなかった。僕はあの時、一体何を見ていたんだろう。


「どう、かな」

「とても──とても、素敵です」


 睫毛に残った涙が朝露みたいにきらめく。りむはかけていた黒い眼鏡をはずしてゆっくりと閉じて、目をつむった。


「ん──」


 祈りを捧げるようにあごを上げる。オレンジ色の夕陽のなかでも色づいているのがはっきりとわかる頬に、つやのたまができた。


「君が、かけてください」


 閉じたテンプルをゆっくりと開いてりむへと向ける。細い弦がこめかみを抜けて耳にかかると、ぴくりと震えて「んっ」と声が漏れる。眼鏡をかけるだけだというのにドキドキしてしまい、震える手を必死に抑え込んだ。まるい形をしたリムが長い睫毛の中心で止まると、僕はそっと手を外す。りむはゆっくりと目を開けて部屋を見回した。

 新しい眼鏡を通して見た、初めての世界だ。


「蓮くんの顔、よく見えます。軽やかでしっかりしていて、いい眼鏡です。今までで一番、ですよね?」

「もちろんだよ」


 それ以上何も言えなかった。ただ、背後から射すオレンジの夕陽よりもりむは輝いていた。


「えへへ、ありがとう」


 りむは恥ずかしそうに眼鏡をくい、と上げる。


「……私のデータによると、私が君を好きな確率は一〇〇〇〇いちまんパーセントです」

「知ってる」


 データがなくても一目瞭然だ。でも、もしかしたら。僕はまだ、ピントがあっていないかも知れない。りむと同じ世界を見られていないのかも知れない。

 いつか──いや、できるだけ早く。今すぐにだって。りむと同じ世界を見られるようになりたい。


「ねぇ、蓮くん」

「どうしたの?」


 りむは左の薬指で、ピンク色のテンプルを後ろから前へと優しく撫でていく。


「よーく見えるレンズが二枚並んで。そしてひとつのフレームに、壊れてしまうまでずっと一緒に収まる。それが、眼鏡なんです。素敵だと思いませんか?」


 りむのいる空気を吸っただけで気絶してしまいそうで、僕は頷くことしかできない。レンズの縁にさした夕陽が部屋に虹をかけると、もうりむ以外の何もかもが見えなくなった。顔が近づく。僕とりむのかける眼鏡が触れて、かちりと心地いい音を鳴らす。爆発しそうな心臓の音を超えて、囁きだけが耳を満たす。「だから──」




「君と私で、なろうね」

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妻ヶ根沢りむは眼鏡をかける 綺嬋 @Qichan

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