第8話 ボレロ

 初売りが終わった最初の休みに、私は新宿の名画座にでかけた。目的は『愛と悲しみのボレロ』の鑑賞だ。この三時間を超える映画の内容を、これで八回目の鑑賞にも関わらず、私はまだ完全に理解していない。

 同じ俳優が親と子で一人二役それが二組あったり、作中の時間がとても長く、観ていてだんだん混乱してストーリーが追えなくなる。とても有名な人がモデルみたいだが、昔の人だし今一ピンと来ない。

 じゃあなんで八回も見に来るかと言うと、ラスト十五分間のボレロのバレエが素晴らしくいいのだ。ずっと刻まれる単調で変わらないリズムに、最初はシンプルだがどんどん楽器が増えていくラヴェルのボレロで、光と影を従えて黙々と踊るダンサーの肉体美!

 他にもダンスシーンが満載で、それを大画面と迫力ある音響で堪能したくて観てしまうのだ。


 お目当てのラストシーン、私が突きぬけるような感動で身体を熱くさせていると、後ろの方から啜り泣きが聞こえてくる。少し耳障りだが、このシーンに感動してしまうのは分かる。おかげで今日は、美しくて壮大な音楽に啜り泣きのアクセントを加えた鑑賞と成ってしまった。


 映画が終わって外に出ると、空腹であることに気づく。三時間以上何も口にしてないから当然と言えば当然だ。

 少し遅い昼食を取ろうと歩き出すと、後ろから肩を叩かれる。何か落としものでもしたかと振り返ると、東山が立っていた。

 なぜお前がここにいる、ストーカーかと叫びたいのを堪えて、大人の挨拶をする。

「映画を観に来たの?」

「ええ、会社がコロナ対策で今週は有休を取れとうるさくて、せっかくだから映画を観ようと思って」

「ボレロ好きなの?」

「ええ、この映画はテレビで視て以来、DVDを借りて何度も観ています。観てるのはほとんどバレエのシーンですけど、何か泣けるんですよね」

 こいつも私と同じだった。親近感を感じるがいかんいかんと、芽生えた気持ちを振り切る。こいつは他人ひとの彼氏だ。

「じゃあ」

 私が素っ気なく去ろうとすると、腕を掴まれる。

「待ってくださいよ。せっかくだからランチしましょうよ。食べてないでしょう」

「ちょっと、痴漢と間違えられるわよ。手を離して」

 私に注意され、東山は慌てて私の腕を離す。

「何であなたと二人でご飯食べなきゃいけないの」

 思いっきり冷たく言ったつもりだが、東山には効き目がない。

「お腹空いたから」

 なんか詩織のことなどどうでも良く成って来た。

「じゃあ、ご飯食べようか。奢らなくていいからね」

 私も多少詩織とのことを聞きたい気持ちがあった。


 私たちは近くの喫茶店に入ってランチセットを頼んだ。私がペペロンチーノのセット、東山がハンバーグのセットだ。

「一つ聞きたいんだけど、あんたは詩織さんと付き合ってるんじゃないの?」

 私の質問に東山は驚いた顔をする。

――なぜそこで驚く!

「美紀さんに言われたから、ご飯を食べに行ったり、買い物に行ったりしましたよ」

「二人で行けば、それはデートと言って、デートは普通付き合ってる者がするの」

 東山は嬉しそうな顔をした。

――まずい、こいつ何か勘違いしている。

「じゃあ、これはデートですね。二人でご飯食べてるし」

 やっぱり、勘違いしていた。


 げんなりしたところにスパゲッティとサラダが来た。東山のハンバーグも来たので、食べ始めた。喫茶店にしては、なかなか美味い。東山も食べるときは専念する方だ。私たち二人は、二人でいることを忘れて、夢中で食べた。


「今日はなんで詩織さんと一緒に来なかったの?」

「なんか違うんですよね」

「どういう風に違うの?」

「前にボレロが好きだって言ったら、複雑な話よねって言って、物語の解説が始まったんです。聞いてもよく分からなかったし、だいたい何回も観てるのにまだ登場人物の名前もよく覚えてないぐらいですから」

「じゃあ何で名画座迄来て観るの?」

「だって、凄いじゃないですか、あの踊りと音楽が! 映画館であの映像と音楽に浸れるなら難しい理屈はどうでもいいかなと思います」

 私と同じだった。だから私もこれだけは友達と一緒に観る気になれない。


「ふーん、変わってるね。普通の人は好きな人と一緒に観て、感想を語りたいと思うのよ」

「美紀さんもそう思いますか?」

 言葉に詰まった。

「思わない……」

 勢いが消えて声が小さくなる。

「でしょう。それに詩織さんのこと、そんなに好きじゃないですよ」

「どうして? 上品できれいじゃない?」

「主観の問題ですよね。客観的にそうでも、主観的にそう思わなきゃ意味ないでしょう」

 今日の東山は妙に説得力がある。

「分かった。もう詩織さんとのことはとやかく言わない」


「美紀さんって、今アメリカに行こうとする人間をどう思いますか?」

――アメリカ! コロナでバタバタ人が死んでる国じゃないか。

「馬鹿じゃないって思うよ」

「そうですよね。みんなそう思いますよね」

「当たり前じゃない。行ったら当分帰れなくなるよ」

 東山が珍しいことに黙って考えてる。

 何か触れてはならないところに触れそうな気がして、私も黙った。


「……したかったんです」

 東山が小さな声で何か言った。

「何? 何がしたかったの?」

 私が訊くと、東山は顔を上げた。珍しく真剣さに満ちていた。

「AIの仕事がしたかったんです」

「えっ、何?」

「AIの仕事です」

「AIって、あのペッパー君とかのAI」

「そうです。ああいうものを開発に携わりながら売りたかった」

「どうしてやらなかったの?」

「採用が無かったんです。人型ロボットはコストがかかりすぎて売れないし、機能だけなら今はiPadで実用的なものがあるし」

「じゃあ、iPadを売ればいいじゃない」

「二次元じゃダメなんです。三次元だから意味がある」

 おおっと思った。東山がまともな主張をしている。

「それでアメリカ?」

「はい、今僕の友人がボストンでそっち系の仕事をしていて、一緒にやろうと誘われています」


 なるほど、こいつの掴みどころのない感じは、こういう考えを根に持ってるところから来てるのかと思った。そう思うと悪くないと思った。私の高校時代の同級生には、一流会社に就職しながら、本当の自分を探したいと言って会社を辞めて、挙句の果てに家に籠って自分探しの旅をしている奴が何人かいる。そいつらよりはよっぽど現実的だ。


「一緒に行きませんか?」

――何! 今こいつは私を誘ったのか?

「私に言った?」

「はい、他に誰もいませんが」

「何で私がアメリカに行くの? 私は英語ができないし、日本が好きだよ」

「言葉は行ってからでもなんとかなりますし、コロナの影響でいろんな仕事が無人化に向かって進んでいて、友人の会社は結構忙しいらしく猫の手も借りたいぐらいだと言ってました」

「そんな、私には無理だよ」

「そうですか~、そんな風に思ってるように見えないんですけど。結構何でもやれるけど、今はやらないって風に見えるんですけど」

「そんなわけないじゃん。アパレルの派遣販売員で、アルバイトでキャバ嬢やってる女がAIに関係する仕事なんて無理だよ」

「そんなことないですよ。システム作るわけじゃないし、仕事はけっこう根っこのところは一緒で、後は好きになって夢中に成れるかだと思うけどな」

「うーん、混乱して来た。とにかくアメリカには行かないから。ごめんね」


 私がきっぱり断ると、東山は意外なぐらいしょんぼりした。

 それいいねぇって私が言ってOKすると思っていたのだろうか? この不思議な考え方をする男なら、そう思っても不思議ではない。

 私たちは喫茶店を出て、そこで別れた。私は西武新宿線、東山は中央線だからだ。何とも不思議な感覚がずっと、私の周りを包んでいる。


 それは家に帰っても続いた。思い切って目の前でみかんを食べてる父親に訊いてみた。

「ねぇ、私が仕事でアメリカに行くって言ったら反対する」

 父親は死んだ魚のような目をして私の方を見た。

「仕事か、それなら行かなきゃいけないよな」

「マジで言ってる? アメリカだよ、アメリカ! 今コロナでいっぱい人が死んでるアメリカだよ」

「東洋人は死なないとかテレビで言ってなかったっけ」

「死ぬよ! 馬鹿!」

――あれ、ホントに死ぬんだっけ。

 私も真実はよく知らない。

「でもなぁ、日本にいたって、俺みたいにすることもなくてゴロゴロしてるのは、死んでるのと同じだって、母さんは言ってたぞ」

「行ったら、当分か、もしかしたら日本に帰れなくなるんだよ!」

「何をムキに成ってるんだ。何かあったとしても、行くことに目的があるなら行けばいいじゃないか。後で後悔しても、俺は何もできんぞ」

 どうも話が噛み合わない。私は馬鹿なことを言うんじゃないと言われて、そうだよねと答えたかったのに、父親も少しボケが入って来たか。


 埒が明かないので、みかんを食べ続ける父親を横目に、自分の部屋に引っ込む。

 なぜこんなに心が乱れるのだろう。別に東山が気に成るわけではない。それは確かだ。

 恋しいというよりは、悔しいという感情の方がぴったりくる。柴田も東山も、人生の転機を積極的に迎えようとしている。自分にはそれがないから悔しいのか、いや違う。

 私だって、アパレルの仕事で他人ひとに必要とされる人間に成りたいと思っている。

――立派な目標があるじゃないか

 いったん納得しようとするが、悔しさは止まない。

 モヤモヤしていたら、ラインが来た。マリエさんからだ。


――この前はありがとう。それでまた頼み事なんだけど、温泉に一緒に行ってくれないかな。柴田さんに誘われたんだけど、二人で行くのはちょっとねぇ…… 磐梯熱海っていうところで、福島県にある結構有名な温泉なんだって。


 ついに柴田が行動に出た。ドキドキしてきた。でも磐梯熱海って、もしかして実家に連れて行く気なのか。おそらく私が行けばもれなく東山がついて来るんだろうけど、モヤモヤしてるところだし、ちょうどいいかな。

 迷っていると、頭の中に今日見たボレロが流れてきた。だんだん力強く鳴り響く。

 私はいいですよと返信した。

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