第4話 不意打ち

――少し酒が残ってる。

 時間にして正味五時間ぐらい寝たか。深酒したせいで少し寝足りないが、身体は自由に動く。おそらくまだ酔いが覚めてない。午後になってアルコールが抜けたとき、地獄の倦怠感が襲って来るはずだ。


 歯を磨こうと洗面所に向かう途中で、父親に遭遇する。

「おはよう!」

 今朝もテンションが高めだ。年を取るにつれて朝が元気に成る。

 無言で一礼して通り過ぎる。

 父が会社を定年退職してから四年が過ぎる。この間料理、洗濯などの主婦仕事に目覚め、これらのスキルは既に母親を凌駕している。こういうまじめな人が本気に成ると恐ろしい。

 主婦業から解放された母は、給食センターで働きながら、おばちゃん仲間との旅行にはまっている。今年になってそれも容易には行けなくなったが、それでもいつか自由に旅行できる日が来ることを信じて、せっせと働いている。


 歯を磨いて顔を洗うと、鏡にすっぴんの顔が映る。その顔を見ながら、ゆっくりと昨日の最後のできごとを振り返る。

 最大の興味は、柴田が結婚対象としてマリエさんを見てると聞き、その理由にあった。それを聞く前に、東山がおかしなことを口走ったので、聞きそびれてしまった。今度いつ会えるか分からないだけに惜しいことをしたという思いでいっぱいである。


 訳が分からないのは、東山がなぜ私が好きなどと口走ったかである。

 鏡に映る顔を見ても、さほど大した顔ではない。キャバクラの暗い照明の中で夜用メークをして、髪も巻き髪でばっちり決めれば多少見栄えは良く成るが、昼間の顔はとてもじゃないが、あの詩織に勝てるとは思えない。しかも昨夜は終始昼用メークだった。

 もしかして、東山は特殊フェチかと思って、自分のボディチェックをしたが、背がまずまず高いことを除けば、中肉中背の普通の身体だ。美奈のようなグラマラスボディではないし、マリエさんのようなスーパースレンダーでもない。

 結論としては、フラれて精神状態がおかしかったところに、久しぶりに酒が入って血迷ったということか。

 考えるのがめんどくさくなったので、さっさと着替えて出勤することにした。


 コロナによる自粛が始まった頃はガラガラだった西武新宿線も、最近は元に戻っていつもの通勤電車になった。上石神井から新宿までの二五分間を、密状態で運ばれてゆく。

 本来ならつり革に掴まることさえ危険行為だが、体制維持のためには仕方ない。ここで感染しても、感染場所の特定など不可能だから、感染経路不明者が多発しても不思議ではない。


 スマホが振動しながら着信を告げている。東山からのラインだった。トーク画面の表示には、昨日は申し訳ありませんでしたとある。

 東山も自分の過ちに気づいたようだ。

 メッセージを開けると、それは長文だった。


――昨夜は申し訳ありませんでした。せっかくのお休みを、我々につき合わせる形になってしまいました。しかもこともあろうか自分が働いている店に、お客としていくことに成り、同僚の人たちとの関係を思うと、さぞかし気苦労があったとお察しします。


 何か謝るポイントがずれている。昨日は別に暇だったし、同僚と呼べるほどの付き合いはないから気苦労もなかったし、第一働いている方は、私に気を使う余裕はなかった。

 だいぶ誤解はあるが、とりあえず先を読む。


――かなり迷惑をかけていながら心苦しいのですが、自分的にはすっきりしています。ずっと言えないで抱えていた思いを、告げることができたからです。最初にクィーンで会ったときから気に成る存在でしたが、やはり夜のお店での出会いですから無理があると自分に言い聞かせておりました。でも、昨夜は夜の世界の雰囲気を纏わず、素のミキさんと話せたので、この人はやっぱり自分の理想だと確信しました。ミキさんほどの女性であれば、もうお付き合いしている方もいらっしゃるでしょうが、とりあえず昨日思いを告げることができましたので、もう悔いはありません。ただ昨日言ったことが酔いに任せた言葉だと思われるのは悲しいので、こうして連絡させていただきました。どうもありがとうございました。


 何だか読みながら酔いそうになってきた。たまに車内アナウンスで急病人の発生を聞くと、体調悪いなら乗るなよなどと毒づくことがあるが、今まさに自分が具合の悪いお客様に成りそうだった。


――ダメだ、忘れよう。

 これから仕事をどうするかなど、私にはただでさえ考えることが山ほどあるのに、東山がなぜ自分のことが好きなのか、なんて考えるのは時間の無駄だ。こいつのことは放置と決めた。


 今日も店頭には客が少ない。売り上げ的には最悪の日で、午前中セーターが一枚出たきりだ。店舗には四人の接客販売員がいるが、暇を持て余して雰囲気も悪い。去年まではインバウンドの中国人が爆買いしてくれたものだが、今やそんな時代あったのと思ってしまう。


 体内のアルコールが完全に抜け、疲労感がどっと襲ってきた。こんなとき横に成れれば幸せに熟睡できるのだが、残念ながら立ち仕事なので、背中と腰にダメージが蓄積する。特に普段意識しない両腕の重みを感じ、仕事が終わった後の肩凝りを想像すると、ため息が出る。


 ぼんやりと売り場を見ていると、婦人服売り場では見慣れない男の一人客が、アリアの売り場に入って来る。

 きょろきょろと辺りを窺う男に、すかさず同僚の販売員が攻勢をかける。男は丁寧に断りながら、なおも売り場の奥深くに進んで来る。

 二回目のアタックを掛けようとスタンバイした私は、男の顔を見て驚く。

――東山じゃない!


――いったいどこで私の職場を知ったんだろう。

 昨日の記憶を辿る。

 思い当たった。

 詩織から仕事を訊かれて、夜は言い出しにくくて、思わずここで働いてることをばらしてしまった。そのときは、今度洋服を買いに行きますねと言われて、売り上げに成ればラッキーぐらいの、浅はかな打算も働いていた。

 まさか、こいつがストーカーまがいにここに現れるとは予想しなかった。


 考えているうちに東山が私に気づく。綻んだ顔が腹立たしくなって、猛スピードで近づいていく。

「ねぇ、いったいどういうつもり?」

 私が小声で詰問すると、東山はすまなそうな顔で小声で返してくる。

「実はラインの通り諦めようと思ったけど、柴田さんに話したら、男なら自分の気持ちが粉々に成るまで頑張れと言われたので、午後半休を取って来ちゃいました」


――柴田のやつ、なんてことをけしかけてくれるの!

 柴田に対して猛然と腹が立つ。それに東山も東山だ。来ちゃいましたじゃないだろう! お互いにラインを交換してるんだから、もう一度会いたいとか、普通そういう段取りだろう。

 ただ、もう一度会いたいとか言われても、出勤調整中で会うメリットがないから、結局既読スルーすることは間違いない。こっちの迷惑を考えなければ、この方法は確かに効果的だ。


「あの、何か買いますから、どっかで話せませんか?」

 昨日の東山と打って変わってぐいぐい押してくる。

「あなたが買ってどうするのよ」

「ミキさんにプレゼントします」

「ここの服なら社販で買えるから、定価で買って貰っても嬉しくないの」

 東山が昨日と同じく阿保面になった。

 他の販売員が私たちの様子に異変を感じて、注目しだしている。客が少ないだけに目立って仕方ない。


「いいわ、後で会うわ。でもこのままだと目立つから、そのセーター買って」

 東山の顔が喜色に満ちた。

「分かりました。カードでいいですか?」

「ありがとうございます」

 私は周囲に聞こえるように、わざと大声でお礼を言った。

 レジを済ませ、商品をショッピングバッグに入れ、東山に手渡しながら小声で囁く。

「後でラインするから」

 東山は嬉しそうに頷いて出て行く。

「ありがとうございました」

 他の販売員が口々にお礼を述べる。

 私は消えてゆく東山の後姿を呆然として見送った。


 仕事が終わって、急ぎ足で東口の居酒屋に向かう。喫茶店でさっさと話を済ませたかったが、食事をしたいと何度もラインを返してくるので、また来られても面倒だから、そこを指定した。

 居酒屋に着くと、東山の名を告げる。すぐに半個室の席に案内される。こっちの心中を察することなく、東山はニコニコと笑顔で出迎えてくれた。

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