真冬に花火

そのいち

その空に何がある?


 些細なことだが、想像していなかった状況にその男は焦りを抱いていた。


 レンタカーを走らせるその横目には、どうも人の通りの多さが目立つ。こんな真冬に、この夜の時間帯に、しかもコロナのこの時期に、こうも人の往来が多いことは想像していなかった。


 気を紛らわせようと男はタバコを一本取りだした。男が乗るレンタカーは禁煙だが気にすることはしない。ライターを取り出し火を付けようとするが、ライターは火花を散らすだけで火を灯すことはない。


 男は誰にも届かない舌打ちをして、火のつかないタバコを握り潰し、車内に放った。ただ、買ったばかりのライターだけは胸ポケットにしまった。


 いずれも些細な狂いでしかないのだが、すべてが上手くいかないような気がしてならない。焦りと苛立ちばかりが募っていく。


 男は昨年までは職があった。だが辞めた。辞めさせられたのではなく、自ら進んで辞めた。自身の働きに見合う正当な報酬を貰っていなかったから辞めたのだ。


 それは郊外にある職員二十名ほどの小さな企業になる。少数精鋭と代表が謳っているが、社員は全員時代遅れのクズばかり。自分がいる場所はここではない。だから男は辞めてやったのだ。


 男は今、その昨年まで勤めていたかつての職場まで向かっている。

 

 この日は、職場は定休日になり、この時間帯は誰もいないことを知っている。そしてなにより、そのかつての職場には古びた金庫があり、そこには一定額の現金が置いてあることを知っている。


 だからかつて貰えなかった分の報酬をそこから取り返そうと男は考えている。

 男は金庫の金を狙っていた。


 ただ少し気がかりがある。定休日にも関わらず馬鹿みたいに休日出勤する上から目線のムカつく同僚がいるかもしれない。


 だが、それならそれで構わないとも男は考えていた。


 空き巣を狙うつもりではあるが、念のために「武器」を用意している。

 この日の為にサバイバルナイフを購入した。


 もし仮にあの上から目線のムカつく同僚がいたとしたら、これで脅してしまおう。脅してもあの上から目線を変えないようであれば、そのムカつく顔にこのナイフを突き立ててやろうと考えている。殺しも覚悟の上だ。


 それを想像したら、少しだけ気分が晴れた。


 暫くレンタカーを走らせると狙いの職場に着いた。レンタカーを駐車場に停めて、プレハブ小屋みたいな社屋を眺めるが、やはり明りは点いていない。これは誰もいないはずだ。あのムカつく同僚も命拾いしたな、と勝手に思った。


 男は駐車場に転がっている手頃なコンクリートの破片を手に取った。そのまま社屋に赴くと、それで窓ガラスを叩き割った。防犯システムが作動するはずだが、それも承知のうえだ。システムを停止する方法も心得ている。


 割れた窓の隙間から手を伸ばし、鍵を開ける。難なく侵入に成功するが、悠長に構えている暇はない。男は防犯システムを停止するためのキーを取りに給湯室まで向かった。キーは食器棚にある茶筒に隠している筈なのだが、そこにキーは無かった。


 有るはずのものが無く、男は焦った。


 防犯システムが作動してこの職場に警備員が到着するまで二十分ほど要することを聞いたことがある。それまでまだ時間がある。それならば、このまま防犯システムのキーを探しておくべきか、または、それに時間を掛けずにさっさと金を奪ってずらかるか、男は悩んだあげく、後者を選んだ。


 金庫は変わらずかつての場所にあった。それはダイアル式の古い金庫で暗証番号さえ知っていれば誰でも簡単に開くことができる。男は記憶していた番号に合わせてダイアルを回した。だが金庫は開くことがなかった。何度も繰り返しダイアルを回すも金庫の鍵は開くことがなかった。


 すると、「だれだっ!」男の背後から声が響いた。


 警備員が到着するには早すぎる。男は気付いていなかったが、どうやら社屋には誰かが残っていたようだ。こんな休日に出勤するのはあのムカつく同僚の他はいない。


 男は背後を振り返るが、そこにいたのは知らない顔の男だった。


 折り目が綺麗に入った真新しいスーツを着ている。ここの社員に違いないだろうが、かつてここに勤めていた男にも知らない顔をしている。


 男の背後にいたのは、男が辞めた後に入社した新入社員だった。


 その社員は片手にカバンを持ち、もう片方の手には会社の鍵の束を握っている。どうやら帰り支度を済ませた直後らしく、丁度そこに男が侵入してしまったようだ。


 男がかつてここで働いて頃には職場の鍵なんて持たせてもらったことはない。この職場では信用のない新入社員に鍵を持たせたりしない。それなのにこの新入社員は会社の鍵の束を平然と握っている。


 男がここの職場を辞めた後、色んな事が変わっている。防犯システムのキーの在りかや、金庫の暗証番号も、それにこの知らない新入社員だってそうだ。それが無性に腹が立つ。


 男は「武器」であるナイフを取り出そうと上着の内ポケットに手を伸ばした。だが指紋を残さないようにと厚手の手袋をしていたせいか、それが邪魔して上手く引き出せなかった。


 そこに隙を見た新入社員は、すかさず男に飛び掛かった。

 その社員は男より体格が大きく、難なく男を押し倒した。


 新入社員は男に馬乗りになり遠慮なく男を殴る。


 男は生まれて初めて人に殴られた。殴られた際は瞬時に痛みを感じなかった。ただ、馬乗りにされて無防備に殴られるその屈辱が男には堪えた。


 殴られ続ける男の視界の片隅に銀色をした光沢が見えた。押し倒された弾みで上手いこと内ポケットから手が抜けたようで、いつの間にか男の手元にはナイフが握られていた。


 新入社員は尚も男を殴りつける。男はナイフを強く握りしめ、もういっそのことこいつを殺してしまおうと、その手にするナイフを新入社員の脇腹へ突き立てた。


 新入社員はカエルみたいに「グァ」と変な声を出すが、ナイフは深く刺さっていないようですぐに新入社員の身体から抜けた。それでも刺された痛みに新入社員は耐えられず男を抑える力が弱まった。すかさず男はその新入社員を押し返す。ナイフを逆手に持ち替えて新入社員の胸に深々と突き立てた。今度はどんな鳴き声か気になったが、「ぐぅ」と言っただけで大きな悲鳴は上げない。男はもう一度ナイフを引き抜いて新入社員を刺そうとしたが、血で滑って上手くナイフが引き抜けなかった。


 痙攣しながら横たわる新入社員からヒューヒューと耳障りな音が聞こえる。まだ息があるようだが、そろそろ警備員が来てもおかしくない。


 男は新入社員に刺さったままのナイフは諦めてその場から逃げ出した。


 金を盗むことは出来なかった。駐車場に停めていたレンタカーも焦って忘れている。用意したばかりの「武器」も放置したまま。──だが男は笑った。


 全て計画通りにいかなかったが、あの生意気な新人社員に一矢報いたことが嬉しかった。


 男はそのまま懸命に走り続けた。もうこれ以上走れないところまで進むと、見知らぬ住宅地に辿りついていた。


 少し冷静になって辺りを見渡せば、陽も落ちてだいぶ経つというのに、その住宅地の通りにはそこに住まう住民たちが群がっていた。


 ふと自分の出で立ちが気になった。男の衣類は血で汚れていることに気がついた。こんな怪しい出で立ちの男に気がついて住民たちが集まって来たのか、そう思ったが、外に群がる住民たちの視線は男に向いていない。


 住民たちは一様に同じ方向の空を見上げていた。


 それに気づいた直後に男の背後から「ドン」と爆発音が響いた。男の犯行に出動した警官が拳銃でも発砲したのかと思ったが、男の背後には警官の姿は無かった。


 男が振り向く視界の先には、打ち上げ花火が真冬の夜空に輝いていた。


 今は冬だ。普通なら花火は夏に行う。それにこんな住宅地から覗ける花火大会があるなんて男は知らなかった。


 住民たちは、花火の閃光に彩られる真冬の夜空を静かに見つめる。

 夏の陽気な花火大会とは違ったその住民たちの光景に男は気味の悪さを覚えた。


 絶えず打ち上げ花火の爆発音は鳴り響く。男の耳にもそれは届いているが、男が空を見上げる事はなく、路地裏の暗がりへと逃げ込んだ。



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真冬に花火 そのいち @sonoichi

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