妖窯譚

ささはらゆき

妖窯譚

 笠津かさづ藩士・延岡丙七郎のべおかへいしちろうが初めて藩主・斗沢宗顕とざわむねあきの寝所に招かれたのは、元服からまだ日も浅い十三歳の春のことだった。


 丙七郎は母譲りの白皙の美貌をもつ美少年である。

 濡羽色のつややかな黒髪と、どこか憂いを帯びた涼やかな目元……。

 薄い胸と華奢な手足は、少年とも少女ともつかない中性的な色香を漂わせている。

 やはり元服を迎えた同年代の若者たちとともに初めて登城した日、彼ひとりだけが別室に呼ばれ、その旨を告げられたのである。


 無類の焼物狂いとして知られる宗顕には、若いころから血道を上げているものがもうひとつある。

 衆道である。

 齢四十ちかくになってもその精力は一向に衰えを知らず、家中の美男子――とりわけ十代の少年を枕頭にはべらせては、夜が白むまで快楽けらくにふけることもしばしばだった。

 ちょうど幾人かの寵童のにさしかかっていた折、まさに美貌のさかりを迎えようとしていた丙七郎が現れたことは、宗顕にとってもっけの幸いといえた。


 一万二千石のささやかな小藩といえども、藩主の権限は大藩のそれと変わらない。

 一方の延岡家といえば、微々たる禄を食む下侍げざむらいである。

 日ごろは厳格な丙七郎の父も、


――くれぐれも殿様に粗相のないようにせい。


 とだけ言って、右も左も分からぬ息子をほとんど追い出すように城へ向かわせたのだった。


 それからというもの、丙七郎は夢とも現実うつつともつかない淫蕩な日々に溺れていった。

 宗顕は衝動のおもむくままに若い身体を求め、丙七郎も拒むことなく主君の欲望を受け止めたのである。

 寝所だけでは飽き足らず、湯殿や廊下、書院の間、庭園までもが情交の舞台になった。さらには領地視察や鷹狩りにも丙七郎をかならず帯同し、ひとたび宗顕が情欲をもよおせば、駕籠のなかであろうと相手をさせられるという始末であった。

 ほかの小姓や奥女中に見せつけるように抱かれたことも一度や二度ではない。

 当初はただただ苦痛と嫌悪感に耐えるばかりだった丙七郎が、それ以外の感情を自覚しはじめたのはいつのころだったか。

 宗顕のねちっこい愛撫に狂おしく身をくねらせ、肉の中心を乱暴に押し広げられるたびに痺れるような快感が脳天を焼いていく。


 そうして主君の腕のなかで気をやるたび、いつしか丙七郎の眼裏まなうらにはひとつの情景が浮かんでは消えるようになった。

 とおく岸を離れ、あてどなく流されていく帆も櫂もない一艘の小舟……。

 丙七郎は

 いまさら男には戻れない。どれほど寵愛を受けたところで、ほんものの女のように世継ぎを産むことも出来ない。

 流されるがまま波間をたゆたう小舟。それがいまの延岡丙七郎だった。

 もといた岸に戻りたくても、それがどこにあるのかさえ、いまとなってはさだかではない。

 

 それからまもなく、丙七郎のほかにも数人いた宗顕の寵童たちは、一人また一人と姿を消していった。

 宗顕が御役御免を言い渡したのだ。

 もともと側小姓として召し出された彼らは、藩の将来を担う俊英エリートたちである。家格も才覚も申し分なく、主君の衆道の相手を外れても、然るべき役職が与えられる。

 ひるがえって丙七郎はといえば、そのどちらも彼らとは比べものにならない。

 つねに主君の傍らにはべり、小姓としての立場を与えられているのも、しょせんは宗顕の欲求のはけ口という実情を糊塗するための建前にすぎない。


(もし、殿の寵がほかに移ったら?)

(いまの地位を失ったなら、おれにはなにが残るというのだ?)


 それは丙七郎にとって出来れば考えたくない、しかし考えないわけにはいかない問題だった。

 ある晩、ひとしきり欲望を満たした宗顕に、丙七郎はおもいきって問うてみた。

 主君の機嫌をそこねる危険は承知している。生来気性の激しい宗顕は、事の最中にうっかり歯を立てた寵童を絞め殺したこともあるのだ。

 勘気を被る危険をすこしでも減じるため、情交の直後を見計らったのである。


――なにを言い出すかとおもえば、いやつよの……。

 

 宗顕は呵呵と大笑すると、丙七郎の耳に熱い吐息を吹きかける。


――わしがそのほうを手放すことはけっしてないゆえ、安心するがよい。


 宗顕の言葉にはたしかな重みがある。

 たんなる口約束といえばそれまでだが、丙七郎の不安を払拭するには充分だった。

 安堵に胸をなでおろしながら、荒淫に疲れ果てた少年は、泥のような眠りに落ちていった。


***


 江戸の商業の中心である日本橋通りは、例によって立錐の余地もないほどの殷賑ぶりを呈していた。

 沿道にはさまざまな品を商う店が立ち並び、客を呼び込もうと威勢のいいかけ声がひっきりなしに飛び交っている。

 押し合いへし合いしつつ流れていく人波のなかで、その若侍の姿はひときわ目を引いた。

 装いこそ地味だが、六尺(一・八メートル)を超える逞しい長身と、彫りの深い精悍な目鼻立ちは、いやでも通行人の注目を集めずにはいられない。


 延岡丙七郎。

 ことしで二十三歳になる青年には、もはや繊弱な美少年の面影はない。

 丙七郎が国許を離れ、笠津藩の江戸屋敷に赴任するようになったのは、いまから一年ほどまえのこと。

 べつにだれに強制されたわけでもない。みずから江戸行きを願い出、主君・宗顕に許されたのである。

 

 あるいは、国許から逃げたと言ったほうが正確かもしれない。

 かつて蛭のようなしつこさで幼い丙七郎を犯し、情欲のままに弄んだ宗顕は、いつのころからか丙七郎を遠ざけるようになった。

 理由は分かりきっている。

 年を経るごとに丙七郎の身体が大人に近づき、少年から青年へと変わっていったためだ。

 最後に宗顕と臥所を共にしたのは、三年前の冬の日。

 かつてはあれほど貪欲に少年の身体をむさぼった主君は、およそ愛撫とも呼べないおざなりな手つきで丙七郎に触れただけで、早々に行為を終わらせたのである。


――もうよい。下がれ。


 すげなく言い放った宗顕の言葉は、いまも氷の針となって丙七郎の胸に突き立っている。


 十年のあいだに容色がおとろえたとは思わない。

 それどころか、丙七郎は男としてもっとも華やいだ季節を迎えていると言ってよい。

 肉体のすみずみまで若々しい精気が漲り、しなやかで均整の取れた肢体は武士もののふの理想そのものだ。

 そのことをじゅうぶんに自覚しながら、同時に丙七郎は喪失感を覚えずにいられなかった。

 元服してまもない少年時代のまばゆいほどの輝き、主君の寵愛を独占した魔性が我が身のうちからすでに去ってしまったことは、ほかならぬ彼自身がだれよりもよく理解している。


(しかし、おれはいまさらどこへも戻れはしない……)


 江戸勤番になってから、何度か遊郭に足を運んだこともある。

 そのたびに、ことを思い知らされるだけだった。

 かつて宗顕に責められるたびに恥も外聞もなくすすり泣き、感極まって嬌声を上げたおのれが、女体にはなんの興奮も覚えないという事実は、丙七郎を愕然とさせた。

 これでは妻を娶ったところで、その女を不幸にさせるだけだ。


 けっきょく、丙七郎は宗顕との情交のなかで取り返しがつかないほどに壊されてしまったのだ。

 それだけなら、まだいい。

 壊れたまま生きていく幸せもあるだろう。

 だが、肝心の宗顕にもはや求められていない以上、それすらも望めない。

 あの男抜きでは生きていけないと理解したとき、丙七郎は自分の奥深くでなにかが壊れる音をたしかに聴いた。


 どれほどつよく願っても、過ぎた時はけっして戻らない。

 このさき主君の寝所に呼ばれることは、おそらく二度とあるまい。

 あの指が、あの舌が、もう永遠に我が身に触れることはないと思うたび、丙七郎は渇きと焦燥に苛まれるのだった。

 

(殿が、憎い――――)


 そぞろ歩くうちに、丙七郎は人気のない裏路地に入り込んでいた。

 先夜の雨のせいか地面はひどくぬかるみ、どこからか饐えたような悪臭が漂ってくる。

 ぴちゃぴちゃと泥が跳ねるのも気にせず、丙七郎はさっさと歩を進めていく。

 しばらく歩いたところで、丙七郎ははたと足を止めた。

 裏店うらだなが軒を連ねる寂れた路地の一角に、奇妙な吊るし看板を認めたためだ。


「よろず南蛮陶物すえもの商い……?」


 見えない力に吸い寄せられるように、丙七郎はふらふらとその店に近づいていった。

 屋号を示すのれんは見当たらず、商い中なのかもさだかではない。

 わずかな逡巡のあと、丙七郎は意を決したように格子戸に手をかけた。

 

「御免――――」


 格子戸はさしたる抵抗もなく開いた。

 同時に丙七郎の目に飛び込んできたのは、目もくらむような色彩だった。

 土間に据えられた木棚には、数十とも数百ともしれない大小の陶磁器が陳列されている。

 そのどれもがおどろくほど白く、薄闇にあってかすかな燐光を放つかのよう。

 しかも、器を透かして手指の影が透けて見えるほどに薄いのだ。


 主君・宗顕は衆道と焼物をこよなく愛している。

 長らく宗顕に近侍するうちに、丙七郎もいつしか陶磁器に関するたしかな鑑定眼を体得していった。

 その目利きを買われて、江戸屋敷に赴任するようになってからは、国許に送る焼物の買付け役を仰せつかっているのである。

 鍋島や伊万里、古九谷から、明の景徳鎮や朝鮮の白磁といった外国の器まで、宗顕の好みそうな品を見繕うことが彼の仕事だった。

 その丙七郎をして、これほど珍奇な器はついぞ見たことがない。


「おさむらいさま、なにかお探しかね――――」


 ふいに呼びかけられて、丙七郎ははたと顔を上げた。

 声のしたほうに視線を向ければ、白髪の老人と目が合った。

 年齢は七十歳を超えているだろう。

 ひどい猫背のために小柄に見えるが、手足は長くがっしりとして、かつては長身の偉丈夫だったことを伺わせる。

 丙七郎は器のひとつを手に取ると、老人にむかって問いかける。

 

「店主、この焼物はどこで仕入れたのか?」

「ああ、それですか」


 老店主の語るところによれば、これらの品々はオランダ商人が長崎に持ち込んだものだという。

 もっとも、オランダ商人はあくまで商品を仕入れただけで、実際に作られたのはエゲレスだということだった。

 ひとしきり説明を終えると、老店主はやおら奥の棚から桐箱を取り出した。


「そいつがお気に召したんなら、とっておきのをお見せしましょう」


 老店主が桐箱を開くが早いか、周囲にぱっと赤い光が散った。

 むろん、そう見えたのは目の錯覚だ。

 あざやかな真紅に染まった器がかすかな光を照り返し、そのような錯視を引き起こしたのである。

 器の表面はつややかな光沢に濡れ、まるでたったいま生血を塗りつけたみたいにみえる。


「この色は”牛血紅”というんでさあ」

「ほう?」

「釉薬に牛の血を混ぜ込んであるそうでしてね。牛の骨灰と土で練った陶物にこいつを塗ると、こんなふうにみごとな赤が出てくるんですよ」


 真紅の器を手に取った老店主は、丙七郎にむかってにんまりと相好を崩す。

 丙七郎はといえば、まるでなにかに憑かれたみたいに器を見つめ、ほうと言葉にならないため息をつくばかりだった。

 

「牛の骨に、牛の血か……」

「いかがです。こいつが最後のひとつですが、いまならお安くしておきますよ」


 言葉とは裏腹に、老店主が提示した売値はけっして安いものではなかった。

 それでも丙七郎が購入を決断したのは、買付役として藩の金を使える立場だからというだけではない。

 彼自身、あざやかな血色に染まった器の魔力に魅入られたのである。


「またのごひいきを――――」


 老店主の嗄れ声を背中せなで聞きながら、丙七郎は藩邸へと足を向けていた。


***


 はたして、丙七郎が国許に送った牛血紅の南蛮器は、宗顕をいたく喜ばせた。

 もともと景徳鎮や伊万里の赤絵を愛好していたこともあり、丙七郎の見立てはみごと図に当たったのだ。

 問題はそのあとだった。

 一月ひとつきと経たぬうちに、藩主直々の下知が藩邸に届いたのである。

 

――金子きんすに糸目はつけぬゆえ、能うかぎり同様の品を買い集めよ。


 丙七郎がほとほと困り果てたのも当然だ。

 あらたに買い求めようにも、南蛮渡来の珍奇な器などそう簡単に見つかるものではない。

 藁をもすがる思いで南蛮陶物の店を訪ねてみれば、すでに店は空き家となっていた。老店主はいずこかへ去り、その消息を知る者はだれもいない。


 途方に暮れた丙七郎は、来る日も来る日も悄然と江戸市中をさまよい歩いた。

 しかし、古今の陶磁器や舶来品を商う店をすみずみまで探しても、あれほど美しい器はついに見つけることが出来なかった。

 

 欲しいと思ったものは是が非でも手に入れねば気がすまない宗顕である。

 ありのままを告げたなら、どんなむごい仕打ちが下るか知れない。

 かつての寵童であってもおなじことだ。すでに宗顕の愛はほかの少年に移っている。丙七郎に詰め腹を切らせたところで、あの男は痛痒とも感じないはずだった。

 

(骨の器に、血の釉薬――――)


 老店主の言葉が丙七郎の脳裏をよぎる。

 骨の白。血の紅。

 まぶたを閉じるたび、ふたつの色彩いろが溶け合い、おそろしくも美しい像を結んでいく。


 丙七郎が江戸を発ったのは、それから数日後のこと。

 主君の求めに応じるため、とおく長崎まで足を運ぶという彼の言葉を疑う者はいなかった。


***


 盃のなかで下弦の月が揺れていた。

 血のように紅く、しっとりと濡れたような光沢をおびた盃である。

 宗顕はいかにも満足げに玄妙な色合いと手触りを堪能したあと、ひと息に酒を飲み干す。

 

「じつにみごとな色彩いろだ――――」


 先日あらたに迎えた小姓に酒を注がせながら、宗顕はしみじみとごちた。

 

「たったひとつしか手に入らなんだのは残念だが、丙七郎め、なかなか乙なものを見つけたものだ」


 けっきょく、丙七郎が手に入れることが出来たのは、この盃ひとつだけだった。

 主君の期待に応えることが出来なかったことを詫びる文を添えて、国許に送ってよこしたのである。


「まさか死ぬこともなかったであろうに……」


 長崎から江戸にもどる帰路、丙七郎は美濃国のさる村で自刃して果てた。

 当地は古くから作陶がさかんなことで知られているが、丙七郎にとっては縁もゆかりもない土地である。

 美しい若者の死をあわれに思った村の陶工が亡骸を引き取り、ねんごろに葬ったという。

 件の盃が宗顕のもとに届いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。


 丙七郎の死は宗顕を動揺させたが、それも一時いっときのこと。

 かつては幾度となく情を交わした間柄とはいえ、心はとうに離れている。

 あれほど惑溺した身体の輪郭も、年若い侍童たちとの淫靡なたわむれに上書きされ、いまではおぼろにかすんでいるのだった。


「はて――――」

 

 ふたたび盃をなめた宗顕は、おもわず眉をひそめた。

 口中に奇妙な味が広がったのである。

 かすかな潮気と、つんと鼻に抜ける鉄錆のにおい……。


 それは、血の味によく似ていた。

 

【完】

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