勝負如此ニ御座候(しょうぶかくのごとくにござそうろう) (三)
例に随い公、剣術を好む。柳生兵庫、時に違い召しに応じず。後、兵庫逼塞。
兵庫例に随い登城すといえども、早きによりて御屋形に行くに、此の間、召し有る故に、応じざる也。
鸚鵡籠中記 元禄十年正月二日 より。
朝日文左衛門重章 著す。
九.
「どうしたものか……」
自室に置かれた陶器の火鉢を前にして座り、厳延はぼやくように呟いた。
あれから十四日が経過していた。
あれというのは、元旦に彼の知らなかった血族である嶋清秀と話し、突然に仕合を挑まれた時のことである。
ほとんど問答無用に始まったそれとは言え、むざと敗北を喫してしまうなどと。
(あれが最初から尋常な決闘であったのならば……いや、そんなことを考えているので、もう駄目だ……)
今の感情を、上手く厳延には言葉にできないでいる。怒っているとか悲しいだとか、そんな一言二言にまとめられるようなものではなかった。
ただ、とにかく、それは腹の底に溜まり、淀んでいる感情だった。吐き出すことも叶わず、吐き出し方も解らない、そんな何かだった。
とはいえ。
(考えても、仕方がないことなのだ……)
自分に言い聞かせた。
今はとりあえず、逼塞が開けてからのことを考えねばならぬ。
逼塞とは武士に下される刑罰の一つであり、三十日か五十日か、いずれかの期間の昼は門を閉ざし、人の出入りを制限するというものだ。
武士の刑罰としては軽い部類に入るものだが、だからといって、それを受けてしまっても問題ないというようなものでもない。
柳生厳延は現在、逼塞を受けている。
理由は正月稽古に遅れてしまったからだ。
あの後、どれほど呆然としてしまったものか、気づいた時は全身が寒さでかじかみ、刀を握るにも力が入らぬという有様であった。
稽古のことを思い出して足早に二之丸に戻った頃には、すでに手遅れとなっていた。
殿は意外と不機嫌ではなかった。
後で従僕たちから聞くところによると、なかなか姿を見せない厳延についてさすがに不審に思われ、非公式に、それとなく彼が何処に行ったのかと間接的に聞かれたのだという。
当然、非公式に、殿の近習に世間話をするように聞かれ、答えたとのこと。
殿が家臣の従僕に直接に声をかけるなどということはないし、感情に任せて厳延は何処かと詰問することもそうない。それをすると責任問題を問われ、最悪、誰かが詰腹を切る羽目になってしまうからである。
――――事情は気になるので聞いておくが、とりあえずは兵庫の言い分を聞くまでは判断は保留する
ということだ。
その際に、厳延が三つ柏の家紋を入れた裃の老人を追っていったことが、殿の耳にも伝わっていた。
それで事情は大方察したらしい。
かと言って、それはそれである。親戚と長話していたら遅れたというのは、何ら言い訳にならぬ。その長話の末に決闘を仕掛けられて負けたなどと、バカ正直に語れることでもない。
結局は時間つぶしに三之丸を歩いていたら、時刻が解らなくなって遅刻した、という話にした。
とにかくそういうことがあって、逼塞ということになった。信じられないほどの軽い処置であった。殿の方にも、何かしら後ろめたいものがあったのかもしれない。
寛大なことに、通常よりも期間を短くするという内示もあった。さすがに長年に渡って共に新陰流を学んだ仲であり、それなりに配慮していただいたらしい。ありがたい話ではあったが、それ以上に恐れ多くもある。
(今後、もう失態は晒せぬ)
そう思う。
決意も新たにそう思う。
そして。
(やはりあの老人とは、もう一度会わないといけない)
そう思う。
会って何をどうするのかは決めていないが、そうしないといけないし、そうして自分の中にあるものに何らかの決着をつけないと、ダメだ。
そう感じている。
そうでないと、あの老人が宮本武蔵に敗れた傷を何十年と引きずっていたように、自分もそのようになってしまうのかもしれない。それは想像するだに恐怖だった。
彼は若い頃から頑強でもなく、二十歳の頃に大病を患い、それ以来、死を身近と感じていた。そう長生きもしないと、ぼんやりと考えていた。
(何年後に死ぬのかも解らぬのに、それをこんな気持のままで生き続けるだなどと……)
そのようなことは、御免被る。
仮に、あの老人のように八十年と生き続けてたとしても同じだ。
幸いにして、清秀老はまだ壮健だ。武蔵とは違って存命の人物である。さすがにあと何年と生きるかは解らない歳ではあるが、すぐに亡くなるとも思えなかった。
瞼を閉じれば、中段に刀を構えた清秀老の姿が浮かんだ。
消えない。
消えてくれない。
恐らく、あの老人も、このように武蔵の姿を見続けていたのだろう。
(最近にようやくその姿が消えたと言っていたが、それはつまり……)
修行の成果に確信を抱き、今ならば武蔵の二刀流をも破ることができると、そう思えたということだ。
現実にそれができるかどうかは、解らないが――
あの老人の言わんとしたことは解る。
そのようなことを、厳延にも期待したということだ。
言葉の通りならば、自分のように敗北の屈辱を上塗りできるだけの修行を積めと、そう発破をかけたのであると考えるべきであろう。
一応は血族であるのだから、それはさほどおかしな行為ではないのかもしれない。
剣の道の先達として、より高みへと誘うための機会をくれたのだと。
だが、厳延は素直にそうは思わなかった。
その理由は。
(あの老人は、まだ話していないことがある)
そう。
まだ、問われて話していないことがある。
そして、まだ問うていない不審もある。
今まで話したことも、何処まで本当のことなのか。
逼塞を命じられては表立ってできなかったが、厳延は父や叔父御の古い門弟たちに話を聞いた。 呼びつけるわけにもいかず、多くが人伝にであった。
さすがに五十年、六十年も前のことを正確に知る者はいなかったが、白林寺近くで隠居している人物について、噂程度に聞き齧っている者は何人かいた。
多くが『どうも柳生家に関わりがある者らしい』という程度のことで、それもだいぶん以前に聞いたことである。
ただ一人だけ。
『もう二十年ほど前に亡くなりましたが、如流斎様の共をよくしていた佐島から、話を聞いたことがあります』
佐島某という門弟に厳延は心当たりはなかったが、聞くと若い頃の一時期だけ修行に来ていた者で、如流斎には可愛がられてはいたが、色々と都合が合わずにこれなくなり、そして二十年ほど前に風邪を拗らせて亡くなったとのことだった。
そのような者も、いるのだろうな――と思いながら厳延は聞いていたが、話の続きを聞くにつれ、その内容が清秀老の話とズレていることに気づき、眉根を寄せた。
(確か、父上とは使いの者が時折にくる程度とか、そのようなことを言っていたが……)
些細なことかもしれないが、少し話が違うと思った。
曰く。
『そこにいた人物と稽古をさせられたとのことです』
『如流斎様とも袋撓で立ち会って、互いに打つこともなく睨み合っていたとか』
『頻繁にではありませんが、何ヶ月かに一度は、そのようなことをしていたと』
清秀老は、如流斎――つまり、彼の父である柳生利方であるが、何度となく稽古をしていたというのだ。
最初、そのことによる清秀老の話の食い違いを訝っていたものであるが。
(当たり前の話か)
そう、思い直す。
あれほどの技倆、一人稽古でそう簡単に身につけられるはずがない。
あるいは黙念と敵の姿を想像し、それを打つことにのみ専念していたものかとも思っていたが、それであの間合いの妙、拍子の練りが会得できるとは、考え難い。
(そのような境地も、あるかもしれん……だが、そこに至るためにも、生半な修行で至るとも思えない)
ならば武蔵に敗れた後に隠居してから、少なくとも何十年かは誰かを相手に稽古をしていたと考えるべきだろう。
その相手が父と、父が見込んだ才覚の者だとしたら、不足はない。
厳延は時折に道場にやってきては、叔父御相手に剣を振るう父の姿を思い出した。
叔父御や高田の爺ほどではなかったにしても、柳生の一族の剣士として恥ずかしくない技倆の持ち主だった。
しかし。
(なんで、あの老人は父との稽古を隠していたのか)
たいした理由など、ないのかもしれない。
叔父御との対立があったとはいえ、一時は柳生家で預かっていた者であり、そして祖父を同じく嶋清興とする血族の誼がある。
兵法の稽古相手を融通していたとして、さほどおかしくもない。
父にしても、同族にして他流派の使い手との手合わせには、何か得るものがあると考えたに違いない。
そのことを清秀老が語らず、嘘をついたのも、そのあたりまでの詳細を語るのが面倒だっただけかもしれない。
何せ寒空の下での長話である。早めに切り上げたいとなって、大筋に関係ない部分は嘘をついて略したということもありそうな話だ。
もしかすれば、何かしら記憶が曖昧になっているということもあり得る。
古参門弟たちも、さすがに昔すぎてよく覚えてないようであるし。
(いずれあの老人の言うことの、全部は全部を信じられるわけではないと、それが解っただけであるが)
それが解ったからと言って、今は何をどうするべきかは解らない。
問題にすべきは、清秀老の話ではない。
厳延はまた、瞼を閉じた。
中段に構えた清秀老の姿が浮かび、続いて雷刀(上段)に小太刀を掲げた叔父御の姿が現れた。
どちらも、恐ろしいものであった。
(まるで、勝てる気がしない)
清秀老の切り落としの妙域は自ら経験したが、叔父御の工夫とは何だったのか、と思った。あの牡丹の中でのことは叔父御は語ろうとせず、自分も触れないままであった。
(今は関係のないことではあるが……)
果たして、叔父御であったのならば、清秀老の今の境地も破れただろうか。
そんなふうなことを考えてしまうが、それこそ今となっては解らぬことだ。
「しかし、叔父御か……」
清秀老が言っていたことで、これは嘘であってほしくないこと――あるいは、ぜひとも見たいと思っていることがあった。
それを確認するためには、まだあと半月は待たないといけないが……。
ふと。
廊下を踏む音がした。
障子の向こうで立ち止まる影があった。
「何用か?」
「先刻、先触れが来ました。御城から使いが来るとのこと」
「使いが」
「逼塞は明日までにということの、通達であるとのこと」
「そうか」
通例ならば、逼塞は三十日から五十日であるが、まだ十四日である。
先にあった内示の通り、寛大な御処置をいただけるようだ。
城からの正式な使者であれば、すぐさま主人である自分が応対せねばならないところであるが――
「しかし、そうなると――――」
厳延は文机に向かった。
御使者に直接お渡しするものではないが、お帰りになられた後、『御城』にすぐに届けないといけないものがあった。
書きながら、内容を口にする。
「…………浦屋敷への出入りの許可を願いたく、申し上げ候」
十.
浦屋敷というのは、厳延の叔父御である浦連也斎が晩年に住んでいた屋敷のことである。
元々はこの地には小林城があったという。城趾であったということもあってかなり広大であり、屋敷には多くの使用人がいたが、叔父御は庭造り以外はほとんど贅沢をしなかった。庭造りというだけで大変なものであったというのもあるが、それ以外は生半の僧侶などよりも清浄な生活をしていたということもあり、世の人は別に叔父御を「小林和尚」とも呼んでいた。
そのことを久々に訪れて厳延は思い返していた。
今やこの屋敷は柳生家との直接の関係はない。
叔父御は遺言で、この屋敷を殿と御隠居様のため、外出に際してのお弁当場にでも使ってくださいと徳川家へと返したからである。
その後は時折に殿の外出に随行してこの屋敷に来ることはあったが、厳延はほとんどこの屋敷には関わっていない。
そのような事情もあって、この屋敷に彼が単身で乗り込むためには殿の許可が必要なのであった。
「これはまた、随分と……」
天井裏に隠されていた櫃は、思っていたよりも大きかった。
叔父御が密かにしていたものを従僕たちに見せるわけにはいかず、彼らには台所に行かせて飯の用意をさせていた。この屋敷を管理する使用人たちの賄いを分けてもらえと命じてある。櫃をどう処分するかはまだ決めてなかったが、まず自分の目で確認しなくてはならない。
しかし、清秀老の言葉どおりに叔父御の部屋の天井裏にあった櫃は、かなり大きい。天板を二つ外さなくては下ろせなかった。重たくもあり、従僕たちに手伝って貰えばよかったと後悔する。
(さて……これを元の場所に戻すのも億劫だな)
いっそこのまま持ち帰ってしまおうかと考えるが、それもこの屋敷にあるということは殿の所有物であるわけで、無断でどうにかできるはずもない。
考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。
早くもここでこうしていることを後悔し始めた厳延であるが、叔父御が遺したものとなれば、知ったしまった以上は見ずにはいられない。
(果たしてこれを、どうして叔父御は処分しなかったのか)
忘れていたとは思えないが。
かじかんだ指を口元ですり合わせながら息を吐きかけ、指を暖めてから、ゆっくりと箱を開けた。
櫃の中には丁寧に畳まれた包み紙と、幾つもの小箱が入っていた。箱にはそれぞれ何が入ってるのかの紙が貼られている。何事も細かいところまで気配りする叔父御らしいと思った。
(この紙は裃を包んでいたものかな)
清秀老の言葉が正しいのなら、であるが。
もしかしたら嶋家に関わるものは他にあるものかと思っていたが、小箱を出して畳の上に並べて確認してみたが、それらしいものはなかった。
あるいは、清秀老が持ち帰ったのかもしれない。
すぐ解るものは、新陰流の技法解説の他に、円明流、外他流についての覚え書きのようなものが多かった。
(と言っても、そうたいしたものが書かれているわけでもないか)
懐かしい叔父御の手跡を読みながら、厳延はだいたいこの櫃の中身がどういう性格のものなのかを察していた。
これは、浦連也という人物が考えをまとめるために出力した覚書、それを保存した櫃なのだ。
(几帳面だな)
恐らくは弟子に示すために色々と考え、そのための走り書きなどを書き損じも含めて捨てずに保存していたのだろう。一時の思いつきのような、彼の目からしても適当なものもあれば、執拗とも言えるほどに熟考を重ねたものもあった。
(上泉武蔵守様の伝書に対する疑問から、天狗抄と天狗勝はどちらが正しいのかなどというような、どうでもいいようなことも書いてある)
とにかく兵法に関係して書いたものを、端から収納したというように思える。
しかし新陰流についてのそれの後に、外他流のものを見るとそれもまた少し違うと改めた。
(他流については、俺たちにはほとんど考えを見せなかったものであるが)
外他流については、清秀老の言葉を裏付ける内容ではあった。
外他流の中核を成す、上極意五点などの解説が何枚も書かれている。これは流儀の詳細を深く学んだ者だけができることだ。
(いや、しかしこれは…………?)
よく読んでいくと、外他流の解説というのとはやや違っているように思えてきた。
外他流の理念の解説――から、個々の技を破るための
(新しい工夫を思いついては、改めていたのだろうな。だが、なんという執拗な…………)
これは、違う。
これは外他流の解説書ではない。
いかに外他流に勝つか、対外他流の研究をまとめたものだ。
ドクン、と胸が鳴った。
(外他流……一刀流は、かつて将軍家御指南の役を担っていた……という意味で、我が新陰流にとって重要な研究対象であったのは、解るが……)
かつて叔父御は、江戸詰めしていた頃に一刀流の剣士たちと試合をさせられたという話がある。
その尽くに勝利したというが、そのような仕合をさせられたということそのものが、世情ではいずれの流儀が優るのかというのは興味の的であったということを反映していたに違いなく、叔父御はこれらの研究をしていたからこそ、危なげなく勝ち抜けたのかもしれない。
書付は古い順から新しく並べてあったようであるが、最初に外他流の幾つかの技を打太刀にして、それに対処する仕太刀にするべきかの案が検討されたりしていたが、最終的にはどの解説も外他流の太刀は新陰流に云うどれそれに似て、これこれの工夫で対処すべし、となっているのを見るに、要は新陰流についての深い理解と修行を積めばどうにかなるのだ――という結論に落ち着いたものに思えた。
叔父御の新陰流に対しての深い理解と自負、自信が感じられた。
(いかにも叔父御らしいが……)
ふと見ると、
〝兄者之一ツ勝〟
と書かれた束があり、それが一番厚かった。
最初の紙には小転とだけ書いてあったが、大転となり、その次にまた小転とあり、やがて合撃にて工夫、というのが現れた。
「これは……」
思わず、声にしていた。
(叔父御が苦慮なさっている……)
一ツ勝――切り落としとは、一刀流、外他流の根本理念である。厳延は当然知らないが、後世、小野家の流れから出た中西家に学び、北辰一刀流を創始する千葉周作は「剣法秘訣」で、
小野一刀斎にて最も初めの組太刀一つ勝。切落しの意味一本発明すれば今日入門したる者も明日必ず皆伝を渡すべしと申し教ふるなり。
……と述べている。
最初に学ぶ一ツ勝を会得できたということは、それは皆伝を得たも同然であるとのことである。
天保の頃の評価などを厳延が知ることはありえないが、その類の言葉が出るほどに、この技は一刀流の根本として位置づけられてるということだった。
さしもの連也であっても、この理を打ち崩すのは容易ではなかったのだろうか。
しかし……。
紙束をめくっていくうちに、厳延は覚書に違和感を覚える。
「そういえば……一ツ勝にだけ、兄者とあるな……」
何気なくそう言ってから、ふっと思い至る。
(兄者とは、清秀老のことか)
他に考えようはない。
浦連也の身近で外他流(一刀流)の使い手と言える人間は嶋清秀ただ一人しかおらず、清秀老は十歳も年上だった。
嶋家の相続の件で揉めたとはいえ、叔父御にとっては血縁でもあり、ちょうど清厳伯父も亡くなった直後に出会った仲でもある。
そうと考えれば、清秀老を兄と慕っていたとしても、さほど不思議ではない。
「ああ、そうか――」
「これは、清秀老の外他流に勝つための覚書なのだ」
何か、腑に落ちた。
まったくその理由は見当もつかなかったが、剣術についての研究は生半ではなかった叔父御のことである。
身近にいた他流の、恐らくは当時は地力では自分に優る腕前であったろう嶋清秀の剣に勝つ方法を模索していたとして、さほどに不思議なことでもない。
それよりも「兄者之」とわざわざつけているからには、一ツ勝の技、世上に伝えられるそれとは違うものなのだろう。小野家に伝わる前の形態なのか、あるいは当人の独自の工夫か。
剣の技などというものが一世代で激変することがあるとは、厳延は知っている。
元の一刀流の技を直接見たことがないし、清秀老の使ったのも、上段へと振りかぶってからの打ち込み――恐らくは、あれが一ツ勝――だけしか知らない。
何がどう違うのかなどは解らないのだが、叔父御はあの技を破る工夫が立たず、こうしてあれこれと試行錯誤をしていたのだろう。
(果たして清秀老は、これらのものは見たのだろうか)
浦屋敷に裃の男が現れたという噂は、何月のものであったろうか。
恐らくは櫃を開けて裃を取り出してから自分に合うものかをその場で着てて確認し、そこを誰かに目撃されたということだろう。
迂闊なことこの上ないが、状況が異常といえば異常である。
この浦屋敷は主家に返還されたものであり、そこに無断で侵入するというのがまずあり得ない。
そこに隠された櫃を確認するというのが、さらにおかしな話なのだ。
(清秀老は大曽根の御隠居と懇意にしていたようだから、そちらから話を通せば堂々と入り込めただろうに)
あるいは、この中身を一人で確認したかったのかもしれないと、そうも思った。
(あの叔父御の、浦連也斎が残した櫃などというものがあれば、大曽根の御隠居も中身を見たくなるものだ)
もしも自分にとって都合の悪いものがあれば、困ると、そう考えたとしても不思議ではない。彼自身もここに来る口実として、正月からのありえない失態を恥じて自ら省みるため、亡き叔父御を偲び云々……などと適当なことを口上を述べていた。
そういう仮定に立てば、清秀老にとって困るようなものは、もう入っていないのかもしれない。
あって確認する時間があれば、取り除いただろうし、こうして自分に櫃の所在を知らせることもなかっただろう。
多分。
(まあ別に、弱みを握りたいなどと考えてきたわけでもない)
そう自分に言い聞かせながら、外他流についての覚書を改めていく。
「どの道、これは叔父御の工夫だ……俺がどうやったところで、清秀老に勝てる手立てが身につくわけもない……」
そう口にしてみた。
あくまでも、ここに着たのは叔父御の遺品を改めて確認するのが目的であって、こうして清秀老の使い技について書かれていることなど、まったく想定もしていなかった。
(あの打ち込みに合撃にてどうにかできるとしたら、それこそ叔父御くらいのものだろう)
そう思いながら、最後の一枚をめくって。
様子が違うことに気づき、眉をひそめる。
火乱坊
とあり、それに斜線が引かれていた。
「火乱坊……二刀打ち物? なんで一ツ勝に対して、そんなものがでてくる……?」
思わず声に出た。
二刀打ち物というのは、打太刀に二刀流の使い手を配置し、その逆二刀からの小太刀の投擲を回避、仕太刀が打つという新陰流・天狗抄の一手である。
古くより二刀使いは小太刀打ちをするのが常道であるとされ、かの宮本武蔵も小太刀を投げ打つのに長けていたという。
しかしこれは一ツ勝の勝口を追求したもののはずだ。
(別に書いたものが混じったか)
そう思うのが順当であるが、どうにも何か引っかかるものがあった。他の文書と違い、斜線が引いてあるというのも気になる。思いついて書いてはみたが、即座に、あるいは考えた末に駄目だと否定したものなのだろうか。
(どういうことだ?)
しばし紙束を床に起き、腕を組んで考えてみたが、上手く考えがまとまらなかった。
そんなことをしているうちに、寒さに身震いする。
いつまでも時間があるわけでもない。
「わからぬことを、いつまでも考えても仕方がないか……」
櫃をどう処分するにしても、いちいち引っかかっていてはどうにもならない。というよりも、寒さのあまり、さっさと火鉢にでもあたりたい気分だ。もう少し確認してから、従者たちの待つだろう台所にでも行こう。
そうして外他流以外の文書を確認していく。
意外なのは、円明流についての多さだ。
(寺尾殿を経由したものかな)
清秀老が言っていた、宮本武蔵と関わりがあったという寺尾長政は元々は彼の祖父である如雲斎の弟子であったが、いつの頃からか二十も年下の彼の叔父、連也斎の指導を受けるようになっていたらしい。
義直公に殉死するに際して、介錯し、片手打ちにてその首を刎ねたのも叔父御だ。
新陰流の両刀(二刀流)の工夫も円明流に関係するという話を聞くが、どういう経緯で入ったものかは実は厳延もよく知らない。
彼の師匠たちはそのことについては特段に解説しなかったし、彼自身もさしてそれを求めなかったからだ。
ただ武蔵がしばらく尾張に逗留していたというのは聞いていたので、そこから何かしらの交流があって伝わったものだと思っていたが――
(叔父御の両刀についての研究は、思っていた以上に深かったのか)
あるいは、先程の火乱坊と書かれた文面も、本来はこちらのものであったのかもしれないと思った。
叔父御とて、整理を間違えることもあるだろう。
そうして大方の櫃の中身は大方確認できた厳延は、とりあえずこのまま晒すわけにもいかぬと蓋を手にとってから、指がかじかんでいたために上手くつかめず、取り落してしまった。
「あ――――――」
と思った時には、蓋が櫃の角に当たり、大きな音を立てた。
(なんたる無様だ)
と蓋を改めて手にとって、今度は落とさないように裏側にも手を伸ばして挟み込み――
「なんだ?」
指先に、紙の感触があった。
すぐさまひっくり返してみると、蓋の裏側に封書が糊付けしてあるのが見つかった。
(こんなものが、こんなところに……)
隠されていたのだろうか、と思ってから、それにしては無防備ではないかと思い直す。
何か、色々と中途半端だ。
簡単に見つけてほしくはないが、別に見つかったとしてもいいか、くらいの投げやりな態度が伝わってきた。
叔父御のやってることとは、思えない。
「これは……」
とりあえず封書をぺりぺりと剥がし、中身を確認した。
「入門誓詞?」
それは「嶋新六」という名で、二天一流の新免藤原玄信に入門したことを書いたものであった。
勝負如此ニ御座候(しょうぶかくのごとくにござそうろう) 奇水 @KUON
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