第4話 さよなら、トロイメライ

 別れは唐突とうとつにやってくる。

「父の仕事でね、今度はロンドン、ちょっと遠いよね」

 祖母の部屋は春の麗かな陽気と夏間近の強い日差しが混在していた。春から夏にかけて、世界の熱量が上がりだす。そんな時期だった。自然と僕の情熱も上がり出していた。

そんな僕を知ってか知らずか、彼女はバツ悪そうにピアノに向き直り、四角い椅子をキィキィ鳴らしながら、足をぶらぶらと、もて遊ぶ。

俯く背中にかける声が見つからない。


 君が悪くない事は分かっている。知っている。理解している。自分の事しか考えられていない。情けない。それも理解している。

 それでも、明日から君がいないと思うだけで、不安で、憂鬱ゆううつで、悲しくて、虚しい。

 音階の一音が世界からそっと抜き取られてしまったような感覚。祖母が消えた、あの時と同じ感覚。


 まだ、君と出会って一年もたってないのに、ずっと昔から一緒にいたような、幼馴染というより前、母のお腹の中で羊水にかり、命が芽吹くときから、あるいは前世から、君と歩みを共にしていたような気がする。


 錯覚。

 記憶の相違。


 そんな気持ちにさせるのは、君の弾くピアノの所為せいだ。

 シューマン、トロイメライ。

 まるで、メリーゴーランドの中をクルクルと回っているような夢見心地。

 昔を思い出させるような優しい旋律。母に抱かれた記憶。父に守られていた感覚。


 連想。

 緑豊かな草原を童が無邪気に走り回り、少し膨らんだ丘の上にはメリーゴーランド。

 見守るように君はグランドピアノをそっと奏でる。

 いつしか子供達は君の周りに集まってくる。

 子供達は膝を立てて座り、膝に肘を乗せて頬杖を突きながら、もっともっと、と音を欲している。そんな光景が浮かび上がる。


 本当は祖母のピアノ教室に君はいたのではないか?

 不思議なほど懐かしく、幼少期を思い出させるような、彼女のしっとりとした柔和な音色。

 そんなこと、今はどうでもいいのに。


 今日は琴音と最後だって言うのに、いつものところで君と別れる。

「じゃあ。ここで」

 彼女の声が苦しい。

「ピアノやってて良かったよ。琴音とあえて良かったよ。嫌なことも辛いこともあったけどさ。やっぱりやってて良かったよ」

 僕は思いのたけをぶちまけた。去り際にこんな事言うのは卑怯かも知れない。ただ彼女を悩ませるだけかも知れない。

 でも伝えたい。伝えたい気持ちを抑えきれない。

「俺、ピアノ続けてみるよ。今は琴音の足元にも及ばないけど。音高受験して、音大に進んでさ。琴音のピアノが僕を救ってくれたように、今度は僕のピアノが君を、、、」

 その次の言葉が出てこない。結局、僕は、一人の女性のため、私利私欲の為に音楽を続けるのか。ちげーだろ、琴音が僕に伝えたかったことはそうじゃねーだろ。

「辛いよ。痛いよ。苦しいよ。誰かを救うのは自分を犠牲にするの。嬉しいことも、悲しいことも、何もかも。楽しいことだって、失っちゃうのよ」

 そうなんだ。そう、なんだ。

 これ以上ピアノと向き合う。音高行って、音大行って。今みたいに惰性だせいで続けることが出来なくなる。ピアノの楽しい部分だけ抜きとって、ヘラヘラ笑って誤魔化ごまかせなくなる。僕にその覚悟があるだろうか。


 琴音に出会ってわかった。琴音が教えてくれた。僕らは音の中でしか泳げない魚だ。日々絶え間なく流れる音に耳を傾ける。いつも、モーツァルトとは限らない。バッハの日もあれば、ベートーベンの日もある。クラシックだけとは限らない。音の数だけ世界は色を変え、僕達の意志とは無関係に感情は激しく揺さぶられて心は疲弊して行く。


「僕は楽しいを捨てるよ。音楽を辞める。あの日失った音を探したいんだ」

 僕の決意。今にも泣き出しそうな僕に、

 彼女は、琴音は、精一杯の笑顔を見せてくれた。


 次の日、担任が琴音の転校を告げる。

 もう隣の席に琴音はいない。上の空、ぽっかりと雲が抜き取られた。ウザいくらいの青。

 本日は晴天なり。


 彼女が去って数日のことだった。

 あの母が、どうしても調律が合わないと知り合いの調律師に片っ端から連絡をかけていた。

 なすすべなく日に日にグランドピアノは狂っていき、ある日、突然言葉を失った。

 利用価値のなくなったピアノは、東京にある自然の森美術館に寄贈された。


 その後、音大に進んだ僕は、プロのピアニストを目指している。それにしても音大は辛いの一言。座学でいくら学んでも、異才の前に影は薄い。

 決して煌びやかとは言えないし、正直いって楽しくもない。

 僕を突き動かすのは、あの日の高揚感と失われた音だけ。


 それなのに、琴音とはあの日以来、会うことはおろか連絡すら取れなかった。彼女がピアノを続けていれば、音楽業界は狭い世界だから、せめて耳にしても、おかしくは無いと思っていた。


 あれだけ恋焦がれたピアノには、もう興味がないのだろうか。普通の大学にでも通って、彼氏でも作って一般的な幸せに身を投じたのだろうか。

 もう、あの音は聞けないのだろうか。


 うじうじとそんなことを思いながらも、

 それでも、少しずつ分かってきたこともある。

 君があの時、僕に教えてくれたこと。

 僕たちは音楽を楽しいものだと、素敵なものだと感じるためには、音楽を捨てなくてはいけないということ。

 頭では分かっているハズだった。


 でも、どうしても、答え合わせがしたくて、あの時からポッカリ空いた何かを探りたくて。

 訪れた、自然の森美術館。

 都心にこんな場所があったとは。


 芝生の少し盛り上がった丘の上に、あの時、僕に夢や希望、絶望や落胆、全てを与えてくれた黒いグランドピアノ。

都会の喧騒は遮られ、小さな丘陵の上、吹き抜けの天上から降り注ぐ陽光を浴びて、未だ死んだとは思えないくらい立派なピアノ。


 あの中に祖母が眠っている。そう感じた。

 おばあちゃん、僕、頑張っているよ。

 辛いけど、苦しいけど、虚しいけど。

 おばあちゃん、僕は結局、あなたと同じ道を歩んでいるよ。


 琴音、会いたいよ。あの時の音、もう一度、もう一度だけで良いから、君の音を聞きたいよ。


 朝の館内。観覧者も従業員も見当たらない、僕と同じ空っぽ、空っぽな空間。

 都心から切り離された別の世界。

 僕はピアノに誘われるように足を進める。

 足元には膝丈ほどのくいとロープ。そして立ち入り禁止の看板。一度、躊躇ちゅうちょして止まるも、おもむろにロープを乗り越える。

 黒い長方形の椅子に腰を落としカバーを持ち上げる。黄ばんだ鍵盤からは未だ音が出そうな気がする。そっと鍵盤に右手を添える。


 幻想。夢想。ゆめうつろ。

 鍵盤の上、僕の右手を懐かしく温かい両手とが、あの時と同じように包み込む。

 セピア色の思い出。

 金木犀の香りが、僕をそっと抱きしめる。

 僕の目から溢れ出す感情は頬を伝い、地面へとポタリと落ちていく。

「お客様、こちらは立ち入り禁止となっております。」

 悪戯に笑う彼女と泡のようにしっとりとした声は、吹き抜けを通り、色褪せた青空へと消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

だから、僕は音楽を辞めた ふぃふてぃ @about50percent

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説