第3話 雨粒のコンソレーション

 季節は秋を早々に、寒気極まる冬に変わりつつあった。下校の時刻。昇降口には冷たい北風が入り込み、行き交う生徒達の体温を奪う。

 今日は昼から急に雨が降り出している。


 意を決したように外へ飛び出す男子生徒、それを横目に優雅に傘をさし、談笑しながら帰路を歩む女子生徒達。


 僕は普通なら前者になる予定だった。

 天気予報もスルー、母の忠告もスルーの救いようの無いバカヤローに、琴音は傘の半分を譲ってくれた。

 噂に新しい可憐な少女との相合傘。

 周りからは疎まれる光景だが、僕の気分は上がらない。


 浮かない顔の僕を気遣うように「どうしたの?」と尋ねる彼女。

「雨の日はね、嫌なことを思い出すんだ。琴音は、この傘を弾く雨音がギャロップの足音に聞こえたりするかい?」


 琴音は不思議な顔をする。

 説明も無しに意味不明、意図不明、理解不能な発言を口走っていることに気づき、慌てて補足する。


「いや、母が好きな小説の一文なんだけど、素晴らしい感性を持つと、コレが馬の足音に聞こえるんだって。雨音は雨音にしか聞こえない。僕は普通の人なんだと、いつもこの音を聞くと思い知らされるんだ」


 一時期は音高受験も視野に入れていた。敷かれたレールをただ必死に走り続ければ、自ずと何処かにたどり着くものだと信じていた。

 祖母の死がこれほど僕に影響を与えるとは自分でも思ってもみなかった。世界から好きな音が消えていた。ぽっかりと心に穴が空いていたんだ。


 ハッキリと気付いたのは、祖母の死から一年後の秋。僕が中学一年生の時、祖母の死を乗り越えての久々のコンクール。今日みたいに急な雨が滴る、少し肌寒い日だった。


 本番当日、整髪剤とタキシードで身なりを整えピアノを前に立つ。祖母の死後も、それなりに師を変え、練習は続けていた。祖母を知る者は惰性で続ける僕にも優しく接してくれた。

 もしかすると、その時の師が潮時と見極めて、あえてコンクールを勧めたのかもしれない。


 結果は惨敗……。


 曲のイメージが全く沸かない。自分がどう演奏したいかも、まったく出てこない。虚無の暗闇をさまよい歩きながら、指だけが鍵盤をなぞる。夜の墓場に彷徨うマミーのようだった。


 気づけば僕は年下の女子に完膚なきまでに叩きのめされていた。拍手喝采を浴びる少女に何の感情も抱けない自分が心底、情けなく感じた。

 そして、その日に母がふと漏らした問いかけが決定打となった。


 雨音がギャロップの足音に聞こえるか。


 僕にとって雨音は雨音。どうあがいてもギャロップにはならない。

 その時、ピアニストという異才の中に埋もれる自分の未来がはっきりと映った。


 いつの間にか2人は祖母の部屋。

 悲嘆にくれる僕の手を琴音はぎゅっと握る。

 我に帰る僕。高鳴る鼓動。

 雨脚は早まり、止む気配はない。雨粒が窓ガラスに打ちつけられ、ポツッポツッと弾け飛ぶ。


 琴音はそっと手を解きピアノに向かう。

 コンソレーション(慰め)第3曲。

 超絶技法を謳うフレンツェとしては異形の作品。


 ノクターン風のアルペジオが僕の凝り固まった心を解きほぐす。彼女のしっとりとした弾き方が演奏効果を最大限に引き出していた。

 琴音の奏でる悲しい旋律が涙をグッと上の方まで持ち上げ、生ぬるい液体は頬を伝い一筋の軌跡を作る。


「貴方はまだ幸せな方よ。悩むことが出来るんだもの」

 ハッとする。

「ごめん」

 謝る事しか出来ない。助けることも慰める事も出来ない。自分の事ばかりで、いつも被害者面して、無能な自分に嫌気がさす。


「気にしないで、今回はまだましな方。国が変わるわけじゃないし、歩いて直ぐにピアノはあるし。ウチは転勤家族で持ち家にピアノがあるなんて羨ましい。でも、私も今は恩恵に預かってるし、助かってるけどね」

 ニコッと笑う琴音の裏には、どれだけの苦難があったのか計り知れない。


 しんみりとした部屋に、雨粒の様な冷たいノクターン。アルペジオがポタポタと音の雫を落とす。


「でも、最初からピアノが無かったら、もっと世間一般的な幸せがあったかなって考えることあるよね」

 彼女の優しい言葉に甘え、僕はゆっくりと首を縦に振る。


 塾に通って、部活で汗を流して、友達との下らない会話に花を咲かせて、彼女と巷に溢れる音楽の話しで盛り上がって。

 初めから音が無ければ、僕だって周りと変わらず、音の無い世界でも優雅に泳げたハズなんだ。



 しんみりとしたまま彼女が席を立つ。気づけば日が覗く事もなく、闇が近づいていた。


「送ってくよ」

「うん」


 その後も雨は弱まる事が無く、暗い街路樹を打ち付ける。二つの傘は雨粒を弾く。


「じゃあ、ここで」

「わかった」


 そう言って、いつもの場所まで琴音を送り、帰路に着いた。



 まだ、貴方には選ぶ権利がある。

 彼女の言葉が突き刺さる。


 知らないフリをしてきた。ピアノから逃げる口実だけを考えていた。そして、考えては見ても、何処か他人事のように、胸の奥底に仕舞い込んでいた。


 彼女のいない陰鬱とした祖母の部屋。

 どう足掻こうと、琴音のようなコンソレーションは生み出せない。

 左手で奏でるアルペジオがため息のように聞こえる。それに反して右手は見栄を張り優雅に和音を奏でている。


 僕のごちゃごちゃに、混ざりあった感情。

 彼女のどうにもならない心境。

 僕の葛藤。彼女の絶望。

 その中に密かにしまいつつある互いの渇望。


 ピアノが弾きたい。


 琴音のように、目の前から音が本当に消えてなくなった時、僕はどうなってしまうのだろうか。

 今思えば、どんな時でも、祖母のピアノは目の前にあり僕を見守ってくれていた。鍵盤の黄ばんだピアノは僕に寄り添ってくれた。そして、これからも母が最高にコンディションを整えて音を紡いでいく。


 紛れもない真実、絶対的な安心。

 祖母への信頼。母への感謝。

 気づけば僕は様々な人に支えられている。


 恩返しがしたい。

 このピアノは何を望む?

 僕に祖母の真似事は今は出来ない。でも、彼女がいてさえしてくれれば……。


 言い訳ばかりの僕に芽吹いた微かな光。

 こんな僕に音をくれたピアノへ、音のギフトを届けたい。このピアノと琴音がいてくれれば。音だって作れる。そんな気がした。


 この冷たい夜風すら、琴子の最後のため息すら、南風の音色に変えられる。そんな気がした。そんな気がしたんだ。


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