帰り

 女はうっすら汗ばんだ額をハンカチで拭いながら、「お待たせしました」と微笑んでタクシーに再び乗り込んだ。その際、ツンと鼻につく匂いがした。

 和彦はその匂いにクラリときて一瞬だけ息を止めた。


「駅までお願いします」


 と、女が和彦に頼んだ。和彦は上辺だけ微笑んで頷くと、アクセルを踏む。

 早く帰りたかった。早く、早くと焦っていると、女が喋り出した。


「私、こういう事したの初めてだからドキドキしちゃった」

「そ、そうですか。中、危ない所はありませんでしたか」


 女が何をして来たのかは、知りたくも無かった。


「全然。とてもしっかりした造りをしていて、綺麗でした」


 ふぅ、と満足気に息を吐いて、女は続けた。


「ありがとうね、わたべ、かずひこ……? さん」

「えっ」


 何故、と、ゾッとしてから我に返る。


 運転席の後ろには、運転手の紹介としてネームプレートがくっついている。和彦のタクシー会社の社長が隣の町の人間に変わってからの事だ。お客に親近感を与える為と言って悦に浸る社長に、何故か古参の運転手達は逆らっていて、ネームプレートを付けている者は少なかった。

 和彦は社長に目を付けられるのが怖いから、ちゃんとネームプレートを付けていた。

 その際、本来なら『渡邊』と書く和彦の苗字を『渡辺』にしたら、と勧められた。


――――ほら、わかりやすいからさ。書く時楽だし。


 利用客は町の年寄りばかりで、町には昔から渡邊だらけだというのに、わかりやすいって。隣町の人らしいや。そう思い内心笑っていたのを思い出す。

 さておき、彼女は彼の真後ろでそれを見つけただけだ。

 それなのに、名前を知られていた心地悪さに胸がざわつく。

 でも、何か返事をしなければ。何か、何か……。


「ここいらは渡邊だらけで……」

「そうね、この町に根付く名前の一つだもの」


 まるで、「特別な名前よ」とでも言いたげに女は心をこめて言う。


「根付く……?」


 優しい声が返って来たのに、和彦の腕の粟立ちは納まらなかった。女は追い打ちをかける様に続ける。


「この町、渡辺、平野、田原、が多いでしょ?」


 当たっている。和彦の同級生も、漏れなく彼女の上げた名前で重複していた。


「……そうです。田舎ですからね、ほとんど親戚縁者で……」

「ええ。一世代前までは土井もたくさんいたのよ。そのもっと前には、山越。どちらも途絶えてしまって、今は町にいない」

「そう……なんですか」


 だから? と、和彦は気丈に思う。今まで意識した事も無いような事だ。彼女がそれを知っているからなんなのだ、と、思うのに、この息苦しさは何故だろう?

 女が知っているという事が、鎖の様に感じる。彼女が何か言う度に、鎖が和彦に絡みつく。

 女はさらに鎖を引く。


「この町に住んでいるのに、あまり知らないのね。興味なかった?」

「さぁ、いやぁ、そうですね……お客さんの親族の方は、随分詳しかったみたいですね……」

「そうね、絶対に忘れないって感じだったかな」

「この町をお好きだったんでしょうねぇ、はは、ははは……」


 和彦が意味もなく乾いた笑い声を上げると、女もころころ笑い出した。


「ひいお爺ちゃんったら、口を開けばここの事ばかり話してた。私、物心つく頃には既にこの町の事色々知っていたの。つまり、物心つく前から、繰り返し繰り返し、聞かされていたのよ。だから、生まれた時から知っている気分なの。―――十三郎さん、青山記念病院、青山集落、集落の人々が受けた嫉妬と迫害、出て行った若者、朽ちていった人達―――」


 女は天井を見詰め、過去に失われたものを宝物の様に並べ、胸に手を当てる。そし小さく囁いた。


「心はここで育ったの。だから、私もひいお爺ちゃんと同じ気持ち。――――この町が、憎い」


 脳裏に新しい、門柱に刻まれた廃病院の名の力強い書体を鮮烈に思い浮かべながら、和彦はなんとなく観念する。 


――――お客さん、どちらからいらしたんですか?

――――青山から。


 どこか、憧れてやまない都会の洒落た町の名前だと思った。だって、女の見た目がそうだったから。

 けれど、彼女の心はここで育ったのだと言う。追い出されて朽ちた誰かの、憎しみの中の、ここで。


「ずっと忘れて無いの。絶対に忘れない。どうして苛めたの? どうして助けてくれなかったの? 最後の一人になっても見て見ぬフリをして……そして、今も尚知らん振りしてる――――土井、山越、平野、田原―――……渡辺」

「ぼ、僕は、し、知らん振りしてるわけじゃ」

「そう、知らなかっただけよね? でも駄目。だって、渡辺じゃない」

「……?」

「青山集落の人も皆、『だって集落の人間だろ』って言われてたのよ。理不尽でしょ?」


 女の視線をバックミラー越しから強烈に感じたが、和彦は必死でそれに抗い一心に山道を見詰めた。


「びょ、病院で何して来たんだ。健康成就とか言っておいて……」

「あら、ちゃんと健康成就を祈って来たのよ。言いそびれちゃってたけれど、大切な人が最近事故をしてしまって……昏睡状態なの」

「は、は、は……? あ……そりゃ、大変な事で……え、え? そんな時に、どうしてこんな所に?」


 和彦が驚いて尋ねると、女は熱っぽく答えた。


「だからよ。私、十三郎さんにその人を助けて下さいって、お願いに来たの」

「へ……? へぇぇ?」


 何か「渡辺」である自分に害を成しに来たのかと想像して怯えていた和彦は、拍子抜けしてマヌケな声を上げた。


「もしかしたら望みを叶えてくれるのは、十三郎さんじゃないのかも知れないのだけれど……でも、それは私達の願いだけを聞いてくれるの」

「け、健康に関する願いだけですか?」

「ええ。病院だもの」

「お客さん達の望みしか聞いてくれない?」

「ええ。病院だもの」


 行きに抜けたトンネルに入った。このトンネルを抜ければ、もう町だ。

 車内が再び真っ暗になって―――ふと、和彦は思う。



――――私達の病院。



 苦笑いが込み上げる。「ほら、そっちだって」と、声がする。

 その声を聞いて、和彦は、女が誰かの憎しみの場所で育ったのなら、自分だって誰かの「我らは悪くないぞ」という傲慢の中で育ったのだと、虚しく思った。




 女を乗せて、タクシーは無事に鉄道駅まで辿り着いた。

 心底ホッとした。何も起こらなかった。本当は料金など要らないから、女にサッサとタクシーから降りて欲しかった。

 けれど女は高級そうな革の財布を取り出して、支払いの準備をしている。

―――このまま、至極普通に―――だって、普通に行って、帰って来たのだから―――最後まで普通に……。


 そう思って、料金を告げた。大丈夫。もう終わる。和彦には上手く受け止めきれない、奇妙な心騒めく一日。明日から心を刺す、薄暗い影。でもそれでもいい。終われ。早く、早く……。

 料金を手渡しながら、女が「そう言えば」と、顔を上げた。


「どうしたら願いが叶うのか、教えてあげていなかったね」

「ええ……? いえ、結構です。もう、早く降りてください……」

「でも、忍びなくて……」


 女はそう言って、鞄へ財布をしまうのと入れ替わりに、太いマジックペンを取り出して和彦に見せた。ツンとインクの匂いがして、和彦は顔をしかめる。


「あの病院はね、二階が療養病床で、各病室の扉の前に療養者の名を記す名札があるの」

「はぁ……もう降りてくれ」


 和彦は運転席から降りて、自ら後部座席のドアを開いた。

 女は恐れもしないで和彦を見上げ微笑んでいる。


「オカルト話はウンザリだ。お、降りろ」


 女の細い腕を掴んで引っ張り立たせる。この期に及んで、女の腕の細さや柔らかさに和彦は少し手加減をしてしまう。昏睡状態で朽ちるのを待つだけの「大切な人」の為に、こんなところまでやって来て。可哀想に、と、同情してしまう。

 しかし、最後まで優しい和彦の気持ちが、女には通じなかった。


「名札に、この町の誰かの名前を書くの。山越と土井はもう使われちゃってるから、平野か、田原か、渡辺さん……ふふっ、そうするとね、ご褒美にその名の持つ命の時間と入れ替えてくれるの。自分の助けたい人と!」


「さよなら、渡辺和彦さん」と言って、手を振る女の笑い顔と言ったら、とても晴れやかで、真夏の太陽の様だった。和彦は立ち去る彼女の影の中で、目を見開いて立ち尽くしている事しか出来ないというのに。


 女が鉄道駅の中へ消えると、緊張の糸が切れて気分が悪くなった。和彦は地面に膝をつき、後部座席のシートに突っ伏した。シートにはまだ女の温もりが残っていた。唸り、呻いて片腕で乱暴にシートカバーを乱す。

 くらくらする狭い視界で、自分のネームプレートが揺れた。


『このタクシーのドライバーは 


     渡辺 和彦 です!』


 自分の手書きのネームプレートを悔し気に眺めながら、和彦は「あ」と声を上げる。

 呑気な社長の声がする。


―――君の名前さぁ、『なべ』が難しいよね。簡単な方で書きなよ。


「ふふ、社長……」


 和彦は再び後部座席のシートに突っ伏して、笑った。

 女は廃病院の病床室の名札に『渡辺和彦』と書いたに違いない。

 鉄道駅にたった二両編成の列車が、大袈裟な音を立ててやって来るのが見えた。息を殺して列車を見詰め、程なく駅を出て行くのを見送って、和彦は小さく呟いた。


「ふふふ、ふふ……さよなら」


 君の願いは叶わないけれど、さよなら。


 その夜、和彦は夢を見た。


 暗闇に浮かぶ青山記念病院の前に立っている夢だ。

 眠りに落ちるまで気になって仕方がなかったのだから、当たり前の様な気がする。

 和彦は恐る恐る、真っ黒な口を開けている廃病院の入口へ入って行く。

 不安で不安で仕方がなかった。

 ロビーがある。小さなガラス引き戸の付いた受付も。

 女の言う通り、しっかりした造りで思ったよりも綺麗だ。

 階段を見つけて、段を踏みしめる。折り返しの踊り場に窓があったけれど、窓の外は真っ暗で何も見えなかった。二階に上がると、ズラリと扉の閉まった部屋が並んでいた。きっと療養病床だ。どの部屋にも名前の無い名札が掛かっていて、一つ一つ確認しては安心していく。

 しかし、奥の方に進んで行った先に『土井道成』と書かれた名札を見つけた。息を飲んで立ち止まる。

 名前のある名札の部屋からは、何かの気配がしたけれど、和彦はドアを開いて中を見る勇気なんて無かった。早足に通り過ぎると、すぐ隣の部屋には『山越やす子』と書かれていた。部屋から、すすり泣きが聴こえる様な気がして、これも通り過ぎる。

 そして、和彦は足を止める。通り過ぎた隣の部屋に、『渡辺和彦』の名札があった。


「は、はは……」


 恐ろしいやら、ホッとするやら。

 けれど、この感じ。今日一日あの女といて味わった、この恐怖と安堵の連続。

 それを嫌と言う程味わって、どうしても安心出来なくて夢にまで見たのだ。

 何故なら、女は何でも知っていたから。和彦の知らない事まで。この町に根付く名前の漢字くらい―――。

 震える手で名札を手に取り、和彦は息を乱して裏を見る。


『渡邉和彦』


「う、ふっ―――はは、はあはは!!」


 和彦はドアに震える身を預け、ずるずると座り込んだ。


「やった、やったやった!! 渡邊じゃない! ふふ、あはは!! ――――は、は……?」


 大喜びする和彦の目の前で、ギィ、と、隣の部屋のドアが少しだけ開いて、そこに掛かった名札が見えた。和彦はその名札を見て、唇を噛んで目を閉じる。


―――ああ、また引っ掛かった。……やられた―――そうだ、あの女、くそ……!


 和彦の目の前で、『渡邊和彦』名札が揺れていた。

 誰かが、開いたドアの向こうから出て来る。


 誰だろうか。十三郎? 青山集落の誰か? それとも、あの女の「大切な人」?


 誰だって良いや、と和彦は考えるのを諦める。これから理不尽な目に遭うのだと、それだけを覚悟して。

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廃病院までお願いします 梨鳥 ふるり @sihohuuka

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