廃病院までお願いします

梨鳥 ふるり

行き

 和彦の勤めるタクシー会社には、そこに連れて行けと言う客は断った方がいいという暗黙の掟のようなものがある。その話は新米ドライバーの和彦も、先輩達からよくよく聞かされていた。


「そこ」というのは和彦の住む小さな田舎町から一山超えた廃集落の中に建っている廃病院の事だ。

 何もかも朽ちてしまった場所に、その廃病院はひっそりと建っている。確かに少し不気味な場所だ。

 しかし、和彦の先輩達は廃病院ではなく「そこへ行きたがる客」を敬遠しているのだった。

 何故なら、というしっかりした事例は実を言うと無い。少なくとも和彦は知らない。

 しかしそれは、昔からの怪談話や言い伝えと同じ湿度で彼らに根付いていた。


 客はほとんど狂ってやって来るだとか、この世の者では無い、といった如何にも空笑いが出てしまいそうな話を、長年ドライバーを勤める大の男達が真面目に語り継いで警戒しているのだった。余程「そこへ行きたがる客」に付き合うのはリスクがあるのだろう。


 新米の和彦はそれらを、馬鹿げた肝試しや心霊取材をする素人達の面倒ごとに巻き込まれない為の、注意喚起だと胸に留め置いていた。小さな田舎町は、それでなくとも外部の人間を嫌がるものだ。


 そうだ。ただの、注意喚起だ。


 そう強気に思いながらも、和彦はそわそわとバックミラーを盗み見た。

 和彦は「その客」を乗せてしまっていた。「そこへ行きたがる客」を。



 乗り込んできたのは、こんな田舎には一生縁の無さそうな垢ぬけた若い女だった。田舎町で地元の老人客ばかりを相手にしている和彦の目にとって、すらりとした彼女が手を上げている姿の眩しさといったら、真夏の太陽の様だった。

 髪を洒落た団子に纏めている為晒されている真っ白なうなじが、猛暑を迎えた日差しに照らされているのを痛々しく感じた和彦は急いでドアを開けた。女が乗り込むと、甘い花の香りがして、和彦は一発でクラリときてしまった。そして、そのすぐ後だった。

 女は、そっと大切な包みを開く様に言った。


「この町に廃集落がありますよね? そこにある病院へお願いします」


 そう言う女へ、先輩なら「いや、降りてくれ」と言っただろうか?

 和彦には無理だった。彼は気が弱く優しい質だった。

 断れなかった。車内から追い出したら、この女はきっと数時間に一本あればやっとの鉄道駅で、ジリジリと焦がされて枯れてしまうに違いない。そんな心配をしてしまったのだった。



 和彦がバックミラー越しに盗み見た女は、紙の様にパリッとした真っ白なシートに涼し気に座っていた。

 狂ってもいなければ、死んでもいなさそうだ。と、和彦は安心する。

 和彦は女性のアレコレに疎い方だったが、彼女の化粧も洋服も垢ぬけていると思った。寂れた鉄道の駅前で彼女を見つけた時に目を奪われたピカリと光るヒール靴も、ここいらの女達は滅多に履いたりしない。そもそも、彼女の様な若い女がこの町にはいない。女だけじゃない。和彦の同年代の若者達は、意気地なしの和彦を置いて皆都会へ出て行ってしまった。

 和彦は職業柄を建前に、女に話しかけてみた。

 アレはただの注意喚起だ。自分に言い聞かせる先輩たちの中に、実際「そこへ行きたがる客」と出会った人は一人もいないじゃないか。そう自分に言い聞かせて。

 だってこんな事は二度と無いと知っているから。和彦は、そういう土地で生きているから。

 記念写真を撮るみたいに、思わず心弾ませて。


「お客さんどこから来たんです?」


 女は目を上げて、迷いなくバックミラー越しに和彦と目を合わせた。バックミラーを使って彼女を盗み見ていた事に気付かれていたのだと思うと、たちまち自分が卑しい者になってしまった気がして慌てて目を逸らした。


「青山です」


 女は少し試す様に答えた。


「はぁ」


「青山と言ったって、何処の青山ですか」なんて和彦は尋ねなかった。

 女はきっとどこからやって来たかを煙に巻きたいのだと思った。更に尋ねるなんて、野暮な下心があるななどと思われてしまうかも知れない。それは避けたい。和彦はこれからこの女を乗せて山を越える。ちょうど目前に迫って来た薄暗い小さな山だ。その薄暗く車通りも少ない山道を小一時間は走る事になる。その間、危険を感じて緊張されたくなかった。この男は安全だと安心していて欲しかった。そして、あわよくば「帰りもお願い」と言われたかった。日の暮れた山道を走り、彼女を安全に連れ帰るのは、少年時代に憧れたヒーローみたいな心地じゃなかろうか。

 同級生達のように田舎から出て行く勇気が持てず、田舎でタクシー運転手になった和彦の平坦な日々に舞い降りた、和彦に丁度いいドラマ。ささやかだけれど、特別な一日。明日から心にさす、一輪の花。きっとそうなる。

 だから、「そうですか」と、答える事にした。

 女は少し構えていたのか、ふっと車内の空気を和ませた。それを感じて和彦もホッとした。


「どうして廃病院なんかに行きたがるんです? ネットか何かに載ってましたか?」

「人に聞いて来たんです。いわゆる……パワースポットなんですって」

「パワースポット?」

「ええ。あるでしょ? 願望成就とか、縁結び神社とか、反対に縁切り神社なんていうのとか」

「いや、お客さん。あそこは廃病院ですよ?」


 おかしいやら面食らうやらで、和彦は笑った。女も「ふふふ」と笑った。


「そうよ。だから、健康成就ってところかしら」 

「何処かお悪いんですか?」


 タクシーは薄暗い山道へと入り込んだ。すぐに道のアスファルトが途絶え、むき出しの土になり、車内が揺れる。「きゃっ」と、女が運転席の背もたれに掴まった。それで、女の願望を聞きそびれてしまった。大丈夫ですか? 大丈夫ですなどとやりとりしている内にも鬱蒼とした木々の下を走り抜け、小さな古いトンネルに入った。もうこのトンネルを使う者は滅多にいないから、電灯が一つも無い。

 暗くなった車内の中で、女が潜めた声を出す。


「気味が悪いトンネル」

「ずーっと昔のですから。大丈夫、怖い事ないですよ。すぐ抜けますし」

「そうね、一番怖いのは人間っていうし。運転手さんはこれから行く病院が怖い?」


 ドキリ、として和彦はフロントガラスを見詰める。運転に集中しようとそうしたのに、彼の背後から覗き込んでいる女と目が合ってしまった。

 女の目が笑った。

 和彦はつられて笑う。―――綺麗だナァ。なんて、半ば魅せられて。

 トンネルを抜けて車内が明るくなったものの、辺りは薄暗かった。


「そりゃあ、朽ちてますから、少しは」


 それよりも、僕らドライバーはそこへ行きたがる者の方を……なんてとても言えない。

 駄目だ、茂る木々と悪路に弱気になっている。この女は、何かきっと切なる願いを抱え、すがってやって来ただけだ。それだけだ。


「でも、あそこは怖い所じゃないでしょう? 町から離れた集落の為に、集落出身の町の名士が建てたのよ。確か、十三郎さん」


 和彦は驚いて思わず女を振り返る。


「危ない、運転手さんったら、前を向いてよ」

「は、はい。あの、よくご存じで……」


 女の言う通り、廃病院は集落出身の町の名士、十三郎(姓を持っていない)が死に際に建てた立派な病院だった。

 これは町の人間なら皆密やかに周知している事だ。この話を教えてくれる時、どの大人も皆ひそひそ声だった事を、和彦はなんとなく思い出していた。さておき、女はどう見ても町の外の人だ。どうしてそんな事を―――しかも、和彦が生まれるよりもずっと前の事を―――知っているのだろうか。もしかしたら、町の外でも少しだけ有名な話なのだろうか。だから町の中の自分達が知らないところで、あの廃病院がパワースポットなんて言われているのだろうか?

 女が吐息する音が聴こえた。窓ガラスは曇っただろうか。運転する和彦からは見えない。


「凄いわよね。生まれ育った場所の為に……」

「ええ……一代で財を築くような凄い人だったみたいで、そういう方は、やっぱりそういう偉い事をするんでしょうねぇ」

「でも、天涯孤独だったのよね。きっと、皆に何か残したかったんだわ。忘れて欲しくなくて……」


 和彦は眉を寄せて、横目で女を見た。実際には位置的に見えなかったけれど。


「そうなんですか……?」

「子孫と名乗る人がこの町にいらっしゃる?」

「いや……そうですね。もしいらっしゃったなら……目立ってるハズかな……でも、どうしてそんな事まで知ってるんです? お客さん、もしかして、この町の所縁の方ですか?」


 もしそうなら嬉しい。そうじゃないなら、なんとなく不気味だ。何を願いに来たのか知らないが、そこまで町の事を調べるなんて。

 女は「ふふ」と笑って「実はそうなの。曾祖父がここ出身だったみたい」と言った。

 和彦はそれを聞いて一気に安堵した。


「そうだったんですかぁ」


 なんだ。なぁんだ。なら、あそこに興味があってもしょうがないかも知れない。町の事を色々知っていても、おかしくないじゃないか。きっと変な風に昔話を聞いたのかな。立派な名士・十三郎さんを慕っていて、神格化しているみたいな。なんだ……ああ、良かった。

 心に言い聞かせるように安堵していると、女が言った。


「でも、どうして立派な病院が建ったのに集落は潰れちゃったのかしらね」

「あ~、そりゃあ病院が不釣り合いなモノだったからですよ」

「不釣り合い?」

「町の名士は、朽ちるのを待つだけの集落に、コンクリート二階建ての立派な病院を建てたんです」

「……何がいけないの?」

「町の方が人が多いのにって、不満が出たんですよ」


 どうせなら町の中に建てればいいものを、と秘かに町の人々の不満や嫉妬が蓄積していた。十三郎が逝ってしまうと堰は切られた。集落の人々は何かにつけて「そっちには大きな病院があるからいいじゃねぇか」などと難癖をつけられ、何か困った事があっても手助けを得られず、大人も子供も、町へ来る度視線や囁き、露骨な態度で苛められた。病院に勤める医者も看護師も自分の身を案じて逃げ出し、病院は築一年と少しで機能しなくなった。そうして町から締め出される格好となってしまった集落の人々は、若い者は怒りを胸に抱いて都会へ出て行き、老いた者は彼らを頼って、もしくは、悲観して寿命を縮め、あの世へと出て行ってしまった。


「酷い……そんな事だけでそんな目にあうものかしら?」

「さぁ。戦前のずっと前の話ですからあんまり詳しくは……でも、実際町に建てれば良かったと思いますけどねぇ」


 和彦は『あっちが悪い』と存分に偏見や意地悪を含んだ町側の話を聞いて育った人間なので、女の同情を新鮮に感じた。町側の主張を口走りながらも、そうだ、町の人々は病院が建つ前から集落の人々を最初から見下していたんだ、と、ふと思う。


「そうかも知れないけれど、集落の人達は何も悪い事していないじゃない。十三郎さんも浮かばれないわ。せっかく集落の人の為に建てたのに」


 感情を込めて女が言うものの、和彦は返事に困ってしまう。


「そうですねぇ……」

「運転手さん、何歳?」

「え、っと、僕は二十五です」

「あら、一緒」

「え、そうなんですか? わあ」


 あまり楽しくない話題が切り替わり、更に同じ年齢だと分かって小さく歓声を上げる和彦をよそに、女は何か指折り数え出した。


「ひぃふぅみぃ……私達は、病院が建った時から四代目ね」

「……はあ」

「これって運命かしら? 四代目同士が出会った」


 廃病院が軸の運命なぞ、ちっとも嬉しくない。

 女の目がキラキラ輝いているのが怖かった。


「え、あ、あはは……? 大袈裟だなぁお客さん」

「ふふふ、だってもうすぐでしょ? 嬉しくて」 


 女の言う通り、タクシーは廃村に到着していた。前方の茂る木々の隙間から、妙に真っ白な建物が見え隠れしている。廃病院だ。


 和彦は瞬きをする。朽ちて尚、あれほど白い建物などあるだろうか?


 けれど、その建物は生き生きと白く、堂々とさえしていた。


 とうとう到着してしまった、と、緊張する和彦に微笑んで、女は料金を支払った。


「すぐ戻るので、待っていて頂けますか?」


 そう言う女に、和彦は頷いた。もうすぐ日が暮れる。こんな所に、まさか置き去りに出来ない。


 だってちゃんと町へ送り届ければ、終わるのだ。置き去りになどしたら、必ずなにか起きるだろう。軽くてクレーム。最悪は遭難事故。和彦は責任を取れない。


 廃墟と化した病院の門の中へためらいもなく入って行く女の後姿を見送っていると、門に病院の名前らしきものが刻まれていた。


『青山記念病院』



 大丈夫大丈夫、ほら、夕暮れの中、あの女ひとは直ぐに戻って来たもの。


 静かに満足気に微笑んで、生き生きとしている。


 僕はそんな彼女を、後はただ、送り届けるだけでいいんだから、大丈夫、大丈夫。

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