Secret Track

 頼みたいことがあるから、ちょっと来て。

 お母さんからそんなメールが届いたのは、5日前のことだった。詳しい用件がわからないまま、パートが休みの日曜日、3歳になる娘を夫に任せて、隣町の実家へと車を走らせた。自宅は実家から遠く離れてはいないものの、頻繁に顔を出すわけではない。お盆に家族3人で帰省して以来だから、3ヶ月ぶりだ。


 わざわざわたしを呼びつけるほどの頼みごととは、いったい何だろう。そろそろ雪が降りそうだと天気予報で言っていたから、タイヤ交換でも命じられるのだろうか。

 今はガソリンスタンドに行けば請け負ってくれるというのに、変なところで財布の紐が堅い母は、毎年自分でタイヤ交換をしていた。しかし、最近腰を痛めたというから、わたしに白羽の矢が立ったというのは想像にかたくない。


 あるいは、離婚届にサインしてくれと言われたらどうしよう。今どき、熟年離婚は他人事だと高をくくっていられないほど増えているらしい。

 ひとり娘のわたしが嫁いでふたり暮しになったことで、それまで見えていなかった欠点やら汚点やらが露になり、不満が積もり積もって、なんてことになっていたら……。お盆のときはそんな兆候はうかがえなかったが、可能性はゼロではない。


 そんな想像のせいでいつになく緊張しながら、玄関のドアを開ける。自宅とは違う、あたたかく安心するにおいに包まれる。毎日当たり前に嗅いでいたころは、こんなにおいがすると気づいていなかったのに、不思議と懐かしく感じられる。

 石のタイルの三和土には、お父さんとお母さん、ふたりの靴が30センチくらいの間を空けて置かれている。あり余る空間を有効利用しているのか、それとも夫婦の仲が冷えきっていることを表しているのか、判断しかねる。


「おかえり、つぐみ」


 お母さんが手すりを掴みながら、一歩一歩踏みしめるように階段を下りてきた。うきうきした表情でわたしの背後をのぞき、わたしひとりだと知ると、あからさまに顔をしかめてくる。


「何よ、ひとりで帰ってきたの? 咲ちゃん連れてきなさいよ」

「だって、いっしょに行く?って訊いたら、ばあばの家にはおばけの鳥さんとかお魚さんがいるから行かないって言うんだもん」

「おばけ? やだ、咲ちゃん見えちゃうの?」

「子供にしか見えないものがあるんじゃないの」


 ふたつの靴のちょうどまんなかに靴を脱ごうとしたら、お母さんが右側のサンダルに足を入れて「ちょっと来て」とドアを開けた。


「何? 外?」


 わたしは半分脱ぎかけたスニーカーに足を戻し、お母さんの後を追う。どうやら、両親の離婚届は見ずに済みそうだ。

 車庫の前で軍手を渡されたときには、やっぱりタイヤ交換コースか、とげんなりしてしまったが、ハンコを押す方が重労働だったはずだと思うと、晴れ晴れとした気持ちで軍手をはめることができた。


 シャツの袖をまくり、明日の筋肉痛も覚悟し終えた。しかし、軍手の次に渡されたのは、レンチでもジャッキでもなく、割り箸くらいの細さの、小さな苗木だった。


「これを庭に植えてほしいのよ」


 枝ぶりは貧弱で、揺すったら葉っぱが落ちてしまいそうだ。まだ苗木とはいえ、こんなに脆そうなものを外に植えてもいいのだろうか。重量の9割は、ビニールのポットに詰まった土なんじゃないかと思うほど、その木には存在感がなかった。


「これ、何の木?」

「桜よ。ソメイヨシノではなくてね、何て言ったかな。派手に咲くやつじゃなくて、スズランみたいに下向きにぽろぽろと花が咲くらしいのよ」

「ふうん。桜っていうわりに地味そうね」


 先週、秋祭りの植木市で購入したらしい。庭は4坪ほどの広さがあるものの、両親ともにガーデニングや家庭菜園などの趣味がないため、殺風景を極めている。

 家を建てたときに記念樹として植えたというコニファーは、剪定していないおかげで自由奔放に育っている。色とりどりの花を咲かせているコスモスは、種がどこからか飛んできたらしく、いつのまにか生えてきたものだ。

 雑草だらけになるほど放置しているわけではないが、熱心に庭づくりをはじめたというわけでもなさそうだ。それなのに花木を買ってくるとは、どういう風の吹き回しだろう。


「何だかね、急に桜がほしくなったのよ。庭にあったらいいねって、めずらしくお父さんと意見が一致してね。植木市で木を買うことなんて一生ないと思ってたのに、やっぱり人生には意外性が潜んでいるものね」


 この辺にお願い、とお母さんが指示したのは、庭でいちばん日当たりの良い場所だった。

 長年使われておらず錆だらけになったスコップを、地面に突き刺す。土いじりなんて、何年ぶりだろう。


「つぐみ、昔はよく穴を掘ってたわよねぇ」

「そうだったっけ?」


 よく、と言うほど花を植えた記憶なんかない。


「ほら、金魚のお墓とかスズメのお墓とか、作ってあげてたじゃない。あんたが咲ちゃんくらいのころなんて、お父さんが殺虫剤で倒したハエまで丁寧に埋めてあげてたんだから。このままじゃ庭が墓だらけになるって、お父さん、つぐみの前では蚊もつぶさないようにしてたのよ」

「ええ、そうだっけ? そこまで昔のことなんて覚えてないってば」


 土は固く、作業は遅々として進まない。昔の話を聞かされ恥ずかしくなり、適当な返事を返して話はそこで打ち切ったが、ほぐされた心の大地からは、記憶がごろごろと掘り起こされていく。


 そうだ、わたしは昔、よくお墓を作っていた。好きでやっていたわけじゃないし、義務感を抱いていたわけでもない。だれにやり方を教わるでもなく、死んでしまったものは土に埋める、ということを最初から知っていたように思う。墓を作るということが、本能として備わっていたのかもしれない。


 わたしが最後に作った墓は、うさぎのさくらのものだった。8年前。たしかな場所は覚えていないが、あのときも日当たりのよいところを選んだような気がする。


 さくらはとても長生きしたうさぎだった。うさぎの平均寿命は8年から10年ほど。さくらは13年も生きた。大きな怪我も病気もなく、死ぬ間際も派手に老けこむことなく、その生涯を終えた……そうだったらいいと思っている。

 と言うのも、さくらと過ごした最後の1ヶ月ほどの記憶が、すっぽりと抜け落ちてしまっているから、本当のところはわからないのだ。8年前のことだったら、忘れても仕方ないかもしれない。ところが、思い出せないのは、今にはじまったことではない。さくらが死んだ当時から、思い出すことができないのだ。


 さくらの最後の1ヶ月の記憶を探ろうとする度に、すべての思い出をすっ飛ばして、わたしの脳裏には腕の中で目を閉じたさくらの姿がぽんと浮かんでくる。

 さくらは、わたしの腕の中で死んだ。家から500メートルも離れた道端で、空から夕暮れのレモン色が消え、紫色が次第に濃くなっていく時間帯だった。わたしはその日、なぜか仮病を使ってまで仕事を早退し、急いで家に帰る途中だった。


 さくらに何かをあげるために。

 朝の後悔を払拭するために。

 そんなことを思いながら、子供のころに戻ったような必死さで走っていたのだった。だからだろうか。あのとき、腕の中のさくらが、出会ったばかりのころの姿に見えるような気がしたのは……。


 さくらと心のどこかで繋がっていて、その糸を引き寄せればすべてを思い出せそうだと思うこともあった。だけど、力任せにたぐり寄せたら切れてしまいそうなほど、たしかな手触りのない細い糸を引くのは怖くて、わたしはいつも動かなくなったさくらを思い出したところで記憶を辿るのをやめてしまう。

 思い出したいのに思い出せない……この8年間、心の隅にはもやもやしたものが常に存在していた。


 穴はやっと、こぶし1個分の深さまで掘り進められた。湿った色の土が見えてきた。乾いた地表よりは、スコップがよく刺さる。

 景気づけに勢いよくスコップを振り下ろした。カツン、と先端が硬い何かにぶつかった感触がする。まさかうちの庭に底があり、こんなに浅いわけじゃあるまい。スコップの先端を少しずらすと、深く突き刺さる。小石でも埋まっているのだろう。桜の生育の邪魔になってはいけない。スコップを倒し、硬いものを掘り出した。


 転がり出たのはやっぱり小石だった。なのに、なぜかそれをただの小石と放っておくことができず、気づくと手に取っていた。手のひらの上で転がすと、土が少し剥がれ、その隙間から透明感のある青色がのぞいた。

 それを目にした瞬間、凍った記憶の鍵穴にあう鍵が、不意に差しこまれたような感覚がした。軍手に包まれて動きにくい指で、土をこすり落とす。心がやけにざわついている。


 わたしが掘り出したものは小石ではなく、宝石のおもちゃだった。500円玉くらいの大きさで、青色のプラスチック製。ダイヤモンドのようなかたちをしている。砂粒に削られ傷だらけだが、輝きは現存していた。

 クリスタルを透かした陽光が、軍手の手のひらに青い光を落としている。その光景はまるで、手のひらで青色の滴を受け止めているかのようだった。


「あら、懐かしいものが出てきたわね」


 わたしの手のひらをのぞきこみ、お母さんが口もとをほころばせる。


「小さいころ、そういう宝石をたくさん集めて大切にしてたわよね。たまに意を決した表情で、キラキラお供えしてくる、ってスズメとか金魚とかのお墓の前に置いて、手をあわせてたわ。実はね、お供えしたやつはお母さんがこっそり拾って、つぐみの宝箱に戻しておいたんだけど……拾い損ねたのが出てきたのね」


 青い光を呆然と目に映していたら、さいごの1ヶ月、さくらはやたらとわたしの小指を舐めていたな、とそんなことを思い出した。舐めるだけじゃなく、鼻水もつけられた。そして、そんなさくらに、わたしもなぜか小指を舐めさせなきゃ、と思っていた。


 こんな感じの青色の滴が、わたしとさくらをつないでいた……そんな気がする。


 目が潤み、青い宝石はいっそうキラキラと輝いて見える。


「あ、もしかして、咲ちゃんが見たのって、つぐみが作ったお墓のおばけだったりして。幽霊って、足がないでしょ? ということは、ハエのおばけも足がないのかしら? そしたらハエのおばけは、こう、手をすりすりってできないのかしら」

「ハエがすりすりしてるのは手なのか足なのか」


 お母さんの間抜けな発言に、つい笑いがこぼれる。涙は引っこむ。

 今度は、やっぱり咲も連れて来よう。嫌がったら、大好きなアイスをだしにして。そして、もし咲が「うさぎさんのおばけもいるよ」と言ったら、わたしの言葉を伝えてほしい。


 わたしから最後の1ヶ月の記憶を奪ったのは、さくらなんでしょ?


 青い宝石を見た瞬間、あのころのさくらは、何かを企んで悪さをしていたような気がしてきた。さくらはそれを忘れてほしかったのではないか。

 ずっと思い出したいと思っていた。でも、さくらが望んだのなら、忘れたままで構わない。もしかしたら、当時のわたしも、さくらに隠しごとをしていたかもしれない。それならばお互いさまだ。


 でもね、さくら。

 もし、記憶を返してくれる気になったら、わたしにも姿を見せて、鼻水でもつけにきてよね。いくらでも小指を舐めていいから。


 おもちゃの青い宝石を指で撫でながら、心の中で語りかける。いつも心のどこかに立ちこめていた黒い雲が切れはじめ、晴れ間が見えてきた。綺麗に晴れ渡るまでにはまだ時間がかかりそうだけど、気持ちはだいぶ軽くなっていた。黒雲の向こうには、薄めた青色の空があることを思い出せた。


 スコップを軽快に振るい、穴を深くしていく。大地に植えつけられるのを待つ桜の苗木が、風に吹かれてさらさらと葉を鳴らしていた。

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