Track6
どうやら今のは、時間が壊れた音だったらしい。
それを境に、辺りから音が消えたのだ。音だけじゃない、風もまったく吹いていないではないか。山の端に沈みかけた太陽は、うさぎのヒゲほどの細さをかろうじて保っている。
これはどうしたことだろう。見渡す限り、動いているものがない。路端の枯葉なんか、風にあおられ宙に浮いた状態で止まっている。忍び足で近寄ってにおいを嗅いでみるが、何も感じない。鼻先が触れた感触もない。
そう言えば、身体の疲れや重たさもなくなっている。とん、と後ろ足を跳ね上げる。身体は軽々と弾み、まるで若いころに戻ったかのような感覚がした。
胸の高鳴りを抑えきれず、夢中で走り出した。四肢を思い通りに動かせる。胴体がよく伸びる。好きなだけどこまでも行けそうだ。
もしかしたら、これが「死」なのだろうか。
そうだとしたら、とんだ思い違いをしていた。死がこんなにも自由なものだったなんて、想像だにしなかった。
久しぶりの疾走感を味わっていると、だれかがだれかを呼ぶ声が聞こえてきた。ここは死の世界。その人も、私と同じように死んでしまったのだろうか。
「……くら、……さくら!」
私の名前だ。呼ばれているのは私だ。
呼んでいるのは。この声は……。
足を速める。身体はどんどん加速する。地面すれすれを低空飛行するツバメの気分で疾駆する。
どこから声が聞こえるのかはわからない。だけど、私の脚は迷うことなく路地を駆けてゆく。見えない線を辿るように、見えない糸を手繰り寄せられるように。
西の空は夕方のレモン色と、夜のすみれ色が層になっており、境目にうさぎのかたちの雲が浮かんでいる。その雲は空にぺたりと貼りつけられたシールみたいに、薄れることも崩れることもなく、時を忘れてそこにある。
私以外の何ひとつ動かない世界で、会いたかった人が待っていた。
「さくら!」
つぐみちゃんが腕を広げて、私の名前を呼んだ。私は柔らかな脚を弾ませて、つぐみちゃんの腕の中に飛びこんだ。
つぐみちゃんの姿が、はじめて出会ったころの幼い少女に見えたのは、私が若返った気分でいるからだろうか。苦しいほどの抱き締め方が、力加減が苦手だったころを思い出させるからだろうか。
「さくら……会えてよかった……!」
大好きなつぐみちゃん。これまでずっといっしょにいた。これからもずっといっしょにいたかった。
今がさいごだ。たぶん、ここは死後の世界じゃない。これは神さまがくれた時間なのだ。
おそらく、CDの最後の空白の時間は終わっている。だけど、そこでそのCDが終わるとは限らない。隠しトラックがはじまる場合もあると、神さまは言っていた。神さまは私に、その隠しトラックをプレゼントしてくれたのだ。
つぐみちゃんと、ちゃんとお別れをするための時間を……。
「さくら、ごめんなさい」
つぐみちゃんはわたしを抱き締めたまま、震える声で言った。ぽたぽたと、私の背中にだけ、雨が降りはじめる。
「今朝、青い滴をあげられなかったのは、わたしのせいなの。わたしが、迷って躊躇ったから……。やっぱりあげなくちゃって思い直して、なるべく早く帰ってきたんだけど、間に合わなかった」
青い滴を……あげられなかった?
なぜ、つぐみちゃんの口からそんな言葉が出てくるのか。私は混乱した。青い滴は、私と神さまとの秘密ではなかったのか……?
つぐみちゃんは涙で潤んだ声で言った。
「わたしね、神さまにお願いしたの。わたしの命1日分を、さくらにわけてあげられるようにして、って。そしたら、神さまはそれを叶えてくれた。心の中で念じて、1日分の命を青い滴にして舐めさせれば、さくらの1日分の命になる。そういう契約を結んだの」
私は困惑していた。青い滴は「つぐみちゃんの不幸」じゃないのか? 私は今まで、何のおかげで息長らえていたのだろう。「つぐみちゃんの不幸」か、「つぐみちゃんの1日分の命」か……。
私の心の声が神さまに聞き取られてしまうように、この空間ではつぐみちゃんにも伝わってしまうらしい。つぐみちゃんは私の耳もとでかすかな笑い声を漏らした。
「わたしたち、神さまに騙されていたのかな。思えば、あの神さま、何か怪しかったよね。頭と手はうさぎなのに、身体は人間っぽくて。それに、普通の神さまなら、命をCDに例えたりしないよね」
つぐみちゃんは私を抱き締めていた腕をほどいて、顔を見せてくれた。目からは涙がぼろぼろとこぼれ、鼻は真っ赤になっていた。けれど、口もとは笑みのかたちに綻んでいた。
「ねえ、さくら。さくらも神さまのこと、信じてたんだよね。不幸を食べるの、怖くなかったの?」
私はつぐみちゃんの幸せをずっと願っていたし、つぐみちゃんと少しでも長くいっしょにいるためなら、何も怖いことはなかった。私のわがままなんだから、私が苦しい思いをするのは当たり前ではないか。
「何だ、わたしといっしょだったんだね」
つぐみちゃんと私が、いっしょ? つぐみちゃんは、自らの命を削ってまで私を生き延びさせてくれた。私は、私の願望のためだけに、茨の道を進んできただけだ。
つぐみちゃんは失うばかり、私は得るばかり。いっしょなわけがない。
「いっしょなんだよ。わたしが命を分けたいと思ったのはね、さくらがもうすぐ死んじゃうのが可哀想だと思ったからじゃない。ずっとずっとさくらといっしょにいたいって、そんなわたしのわがままのためなんだよ」
つぐみちゃんは絶え間なく、優しい手つきで私の背中を撫でてくれる。ときどき声を詰まらせながらも、話をつづける。
「最初はね、さくらとずっといっしょにいられるなら、わたしの命が半分になってもいいと思ってた。さくらとお別れしてからあと60年生きるより、さくらといっしょにあと30年生きた方がいいって、そう思ってた。でもね、あの青い滴を舐めさせた日から、さくらが辛そうにしてるのを見て……これでいいのかなって。これがわたしの望んでいたことなのかなって、疑問がわいてきたんだ。わたしはもしかしたら、さくらに命を押しつけているだけじゃないかって。さくらはそれを望んでいないんじゃないかって。悲しい思いをしたくないがために、さくらに生きることを無理強いしてる。ずっと悩みながら、それでもさくらの存在にすがりついて、青い滴をあげつづけた。でもね、やっぱり違うんじゃないかって思ったら、今朝、青い滴をあげられなかった」
つぐみちゃんはうつむいた。前髪の先が少し震えている。手は静かに、私の背中を撫でつづけている。
「もしかしたら、神さまに試されていたのかもね。自分の願いと、相手の幸せ。どっちを大切にするのか。運命を無理やり捻じ曲げてまで守るべきものはどっちなのか」
たしかに、青い滴を舐めるようになってから、辛い思いをした。滴がお腹の中に溜まり、固まって石のようになっているんじゃないかと思うほど、身体が重くだるかった。
それでも、つぐみちゃんともっといっしょにいたいと思ったことを後悔することはなかった。
ぽたっ、とつぐみちゃんの涙が私の額に落ちた瞬間、ぎりぎりとゼンマイを巻くような音がしはじめた。それはつぐみちゃんにも聞こえているらしい。怪訝そうに辺りを見回している。
隠しトラックがそろそろ終わり、本当のさいごが訪れようとしている。
「さくら、ありがとう。わたし、幸せだった。さくらに出会えて、いっしょにいられて……、さいごに、こうして通じあえて……」
流れ出した時間が、見えない怒濤になって私の身体に襲いかかってくる。風がひげを揺らす。枯れ葉の舞う音が耳朶を叩く。つぐみちゃんのにおいを感じる。身体のだるさがよみがえる。うさぎの雲が歪みはじめる。
太陽が、動き出す。
わずかに残っていた光が、山の向こうに消えてゆく。
私はさいごの力を振り絞って、つぐみちゃんに言葉をかけた。
私も幸せだった。つぐみちゃんと出会ってからというもの、ずっと幸せだった。
ありがとう。
私の思いは、つぐみちゃんに届いたらしい。涙目ながら、飛びっきりの笑顔を見せてくれた。レモン色が消えた空の下、つぐみちゃんの笑みを瞳に焼きつける。
命を押しつけてられていた、なんて思っていない。命をわけてもらった1ヶ月はとても大事な日々だった。
今日、滴を私にくれなかったことを恨んでもいない。それはつぐみちゃんが私のことを考えて選んでくれたことだ。つぐみちゃんが気に病む必要はない。
だけど、つぐみちゃんはとても優しいから、後悔したり自分を責めたりしてしまうことがあるかもしれない。私のことを思い出すたびに涙を流されては、いい気がしない。
だから、この1ヶ月間の記憶はなくなってしまった方がいい。青い滴に関することは、ぜんぶ。死など想像上のできごとで、神さまを信じなくていいほど無敵だったころ……1日が永遠のように長かったころの楽しい思い出だけを、胸に留めておいてほしい。
私のいない世界を歩んでいくつぐみちゃんが、幸せであるように……。それだけを願いつつ、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
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