Track5

 ガチャリ、という重々しくも小気味いい音に耳がピクリと反応して、そのあとでこれは玄関の鍵が開けられた音だと理解する。

 ドアにはめこまれた飾りの磨りガラスからは、白い光がこぼれている。この角度だと、午後4時くらいだろうか。お父さんとお母さんは、案外早い帰りだったようだ。安心感と緊張とで、心臓がどう動いたらいいのか迷っているみたいに暴れている。


 私はケージの入口に前足を揃えて座った。お父さんがケージの前を通るときが、勝負だ。後ろ足で音を立てて気を引き、どうにか手を……小指を、私の口が届く範囲に近づけてもらわなければならない。

 お父さんはつぐみちゃんみたいに、わざわざケージを開けてまで私と触れあってくれることはない。お父さんは撫で方が少し乱暴だし、彼の発するにおいが好きではないので、これまでなるべく関わらないようにしてきたが、今はそんなわがままを言っている場合ではない。日没まで、チャンスは一度きりかもしれない。


 磨りガラス越しのふたりの影が、もやもやと煙のように動いている。ドアが開いた。しかし、ふたりともなかなか玄関に入ろうとしない。ふたりは何やら言い争っている。


「やっぱりお清めしないうちに入るのはまずいだろう」

「だって、お水がないんだもの、仕方ないでしょ。大丈夫、つま先でちょちょっと行って戻ってくるだけだから」

「接地面積の問題じゃないと思うけどな」

「じゃあ、息も止めて行ってくる」

「息止めに何の効果が」


 お母さんは渋るお父さんを「大丈夫大丈夫」と雑に言いくるめて、黒い靴を脱ぐとつま先立ちでちょこちょこと台所へと駆けていった。しばらく物音がして、それが止むと、水で満たしたグラスを手に、またちょこちょこと玄関に舞い戻る。つま先が向いた黒靴をちらと見たものの、結局はサンダルを突っかけて、外へ出ていった。普通の帰宅とは違い、何だか慌ただしい。


「はい、お父さんも、手洗いうがい」

「お清めは風邪予防じゃないんだから」


 お父さんとお母さんは、水を少量口に含んですすいだり、指先を流したり、きらきらとした細かい白砂のようなものを身体に振りまいたりしている。

 不思議な儀式を終えると、やっと玄関をまたいだ。ふたりとも、甘いような煙たいようなにおいを纏っている。はじめて嗅ぐにおいだったが、なぜか自分と縁のあるもののように感じた。


 お父さんの大きな靴が目の前にやってきた。待ちに待った瞬間。私は後ろ足を床に叩きつけ、甲高い音を響かせた。


「おおう、何だ何だ」


 お父さんはびくりと震え、足を止めた。立ったまま、ケージを見下ろしてくる。


「遊びたいのか? つぐみが帰ってくるまで、もうちょっと待ってな」


 お父さんはそれだけ言うと、靴を脱いでさっさと居間に引っこんでしまった。最後のチャンスが期待する間もなく消え失せてしまった。私は呆然と立ち尽くすしかない。


 終わりなのか?

 こんな、呆気ない終わりでいいのか?


「ちょっとお父さん、さくら、何だって怒ってるの?」


 お母さんの声が、居間から聞こえてくる。お母さんは、まるで私が人間であるかのように話す癖がある。お父さんは「さあ……」と歯切れの悪い返事をしている。

 さあ……じゃない! 早くしないと日が暮れてしまう。私の命のタイムリミットが、刻々と近づいているのだ。私は堪えきれず、もう一度足を鳴らした。

 それが聞こえたのか、お母さんが「あっ」と声を上げた。


「お水かごはんがないんじゃないの? それか、トイレ掃除してくれー、とか。お父さん、ちょっと見てあげて」

「ああ、じゃあ先に着替えてきてからでいいかな。礼服だと、しゃがむのもつらい」

「そうね、しゃがまないで。ズボンのお尻がビリッと裂けそうだもんね。お父さん、また太ったみたいだし」

「そういう風に言わなくてもいいんじゃないかな。礼服に伸縮性がないのがいけないんだし……」


 お父さんはしょんぼりと愚痴をこぼしながら、廊下を歩いてゆく。私はとっさに頭を回転させた。

 お母さんの華麗なアシストを無駄にするわけにはいかない。牧草入れには牧草が半分ほど残っている。そうだ、空の牧草入れをくわえて振り回して見せれば、お腹を空かせていると思ってくれるかもしれない。そうすれば、ケージの中に手を入れてくれる……。


 私は無心で牧草を口に詰めこんだ。咀嚼する暇も惜しいので、十分に噛み砕かないうちにどんどん飲みこんでいく。腹には相変わらず、青い滴が石になって固まっているような重たさがあり、何度も食べるのをやめたくなった。しかし、止まってなどいられない。


 青い滴を得るため。

 帰ってきたつぐみちゃんに撫でてもらうため。


 私はひたすら牧草をほおばり、どうしても食べきれない分は、ケージの針金の隙間から外に落とした。壁際だから、ケージをどかさない限り、気づかれることはないはずだ。

 どすどすと、重たい足音が階段を降りてくる。どうにか牧草入れを空にして、お父さんを迎えることができた。


 お父さんはジャージを思いっきり伸縮させてしゃがみこみ、ケージをのぞきこんできた。これみよがしに牧草入れをくわえ、振り回す。満たされた腹と老化とで重たい身体に鞭打って、全身で空腹を装う。早く青い滴を食わせろ。焦りで呼吸が荒くなる。


「わかったわかった。おなかが空いてるんだな。つぐみ、餌やるの忘れたのか。ちょっと待ってろよ」


 お父さんは慣れない手つきで袋から牧草を掴み出し、牧草入れに詰めこんだ。つぐみちゃんがくれる量の倍はあり、牧草は大半がちくちくと飛び出ていた。


「あとでつぐみには言っといてやるからな。いっぱい食えよ」


 お父さんは相変わらず、力加減もへったくれもない荒々しい手つきで背中を撫で回してきた。青い滴を口にするために我慢する。

 手が首もとにやってきた。つぐみちゃんの親指くらいはある小指に狙いを定め……私は愕然とした。


 小指に青い滴がない。


「どうした? あ、さっきのお清めの塩、手についてたかな。食べちゃったか? しょっぱくてびっくりしてるのか? ごめんな」


 めまいがした。床がなくなり、底なしの穴に落ちていく感覚がした。身体が震えてくる。玄関ドアの磨りガラスから射しこむ陽光には、オレンジ色が混ざりはじめていた。


「ああ、たしかにトイレも結構汚れてるな。ちょっと待ってろ、綺麗にしてやるからな」


 お父さんはトイレをケージから取り出すと、それを洗うために玄関を開けて外へ出ていった。取り残された私は、腹の重さと極度の焦りに耐えきれず、ふらりとよろけてしまった。


 青い滴が途切れてしまった。

 細々とつづいていた延命の日々は、今日の日暮れとともに終わるのだ。

 さよならだ。さよならだよ、つぐみちゃん。


 この街のどこかにいるはずのつぐみちゃんへの別れを告げ終えたときだった。


 身体が勝手に……いや、そう思えただけで、実際には意図した行動だったのだろう。私はケージの外へ駆け出していた。

 ちょうど、トイレを洗い終えたお父さんが、ドアを開けて玄関に足を踏み入れた瞬間、私はその足をかいくぐって、家の外へと飛び出した。お父さんが制止する声が聞こえる。ばたばたと追いかけてくる足音もする。

 しかし、足音も呼び声も遠のくばかり、お父さんに私を止める術はない。老いぼれてもうさぎ。中年おやじに捕まるようじゃ、小動物最速の名が廃る。


 外へ出れば、不幸を抱えた人間のひとりやふたり、簡単に見つかるだろう。それで応急処置をしよう。日が暮れるまであと1時間あるかも怪しい。急がなければ、つぐみちゃんにもう二度と会えなくなる。

 私は力を振り絞って後ろ足を蹴り上げ、夕暮れの道をひた走る。足もとから伸びる長い影は、黒い怪物のようだった。そんなものがぴったりと併走しているのは気味が悪い。夕風に吹かれる耳が冷たくなっていく。


 道に沿って走るが、なかなか人間に出会えない。なぜだろうかと思っていると、私のすぐそばを、ものすごい速さで何かが走り去っていった。

 人間ではない。それどころか、生き物でもなさそうだ。身体は光沢のある青色で、4本の足はすべて地面に接したままなのに前に進んでいく。どうやら、円い足は回転しているみたいだ。だから、立っているように見えて、滑るように移動できるのだろう。

 もしかしたら、あれは人間が動かしているのではないか。この世界はとてつもなく広いらしい。あんなに大きな人間でも、遠くに行くのは大変なのかもしれない。人間はとてもすごいから、移動するための道具を作るのなんて朝飯前だろう。


 赤々と輝く太陽が、山の稜線に触れている。息が上がり、足の運びが鈍くなる。毛皮に包まれた身体は燃えるように熱く、立てた耳がうるさいほどの風の音をとらえている。

 人間はひとりも歩いていない。四つ足のテカテカしたやつばかりが、すごいスピードで私を追い越してゆく。青だけじゃなく、赤や白や黒もいた。皆、夕日を受けてオレンジ色を反射させていた。


 たった1滴だけ、青い滴を口にすればいいのだ。つぐみちゃんの不幸がなくなった今が潮時だと、理解しようとする自分もいる。しかし、一度湧き上がってきた死への恐怖、生への執着は簡単には消えてくれない。

 不幸じゃないことと、幸せであることがイコールで結ばれるのかはわからないが、大事なひとが不幸を抱いていないのなら、それは喜ぶべきことだろう。不幸を望む方がどうかしている。


 怪物のような影の輪郭がぼやけてきた。太陽が半分、山の向こうに隠れている。

 わかっている。

 不幸を食べて生き延びている私こそが、怪物なのだ。


 足が止まる。身体が重い。自由が根こそぎ奪われたみたいだ。心臓がまだ動いているのが奇跡に思えた。


 待ってくれ、太陽。まだ死にたくない。お願いだ、だれか、ひと欠片だけ、不幸をわけてくれ……。

 持てる力をかき集めて、地面を強く蹴り上げた、その瞬間。


 ぱきん、と何かが壊れる音がした。

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