Track4
つぐみちゃんは、出勤前にかならず私を撫でてくれる。そのお返しをねだるように、彼女は私の口もとに指を差し出してくる。私は飢えた猛獣のように小指に飛びつき、私にしか見えない青い滴を舐めとる。私が不幸を食べているなんて、つぐみちゃんは想像もしていないだろう。
青い滴を舐めると、口いっぱいにたまらない苦味が広がる。それは至って不快なのだが、今では同時に安心感が身体のすみずみまで染み渡っていく心地がする。今日もまた無事に延命できた、と心が安らぐのだ。
今日も外では夜が明け、私の心臓がカウントダウンを刻みはじめる。日暮れまでの命が騒ぎはじめる。
だけどそれは、つぐみちゃんが玄関で靴を履き、私の住むケージの前にしゃがみこむまでのことだ。青い滴を舐めれば、夜帰ってきたつぐみちゃんに、またたくさん撫でてもらえる。私は足をお腹の下にしまって丸くなり、つぐみちゃんの出勤時間を待った。
静かだった。いつもの慌ただしい朝とは違い、空気の流動すら止まっているかのような静けさが、家じゅうに満ちていた。
今日はすでに、つぐみちゃんのお父さんとお母さんは出かけてしまった。三十分ほど前だろうか。ふたりとも黒い衣服を纏い、ひそひそと陽の光から隠れるようにうつむきがちに玄関を出ていった。
家には今、つぐみちゃんと私しかいない。耳を澄ますと、つぐみちゃんの部屋のある二階から、かすかに物音が聞こえてくる。つぐみちゃんが立てるその物音すら愛おしい。
早くつぐみちゃんに会いたい。騒ぎ立てる私の胸を、安心で満たしてほしい。
少しうとうとしていた。二階からころんころんと転げ落ちてくる足音に、私ははっと首を伸ばした。
つぐみちゃんは玄関の上がり口に座り、靴にストッキングの足を滑らせた。いつも通り、ケージの前にしゃがみ、扉を開けて私の額を撫でてくる。
「さくら、行ってくるね」
耳の付け根、肩、背中と、つぐみちゃんの手が全身を移動していく。その手の心地よさに、まぶたが下りてくる。つぐみちゃんの手が口もとにやってきた。好きにしていいよ、と言うように差し出された小指。私はその指先を見て硬直してしまった。
……青い滴がない。
身体から力が抜けていく。床板が波打っているかのように、よろめいてしまう。小指を一応舐めてみるが、少しも苦くなかった。
つぐみちゃんは立ち上がり、姿見で身だしなみをたしかめると、名残り惜しそうに何度か振り返りながらも、結局は手を振って出かけてしまった。施錠の音がやけに大きく聞こえる。
最近、つぐみちゃんは明るく、元気がよかった。以前に比べて表情も生き生きとし、声にも張りが出ていた。
神さまは言っていた。私が不幸を食べるから、彼女の中で不幸の泉がどんどん小さくなっているのだ、と。
いつかは来るものだと恐れていたが、ついに今日、つぐみちゃんの青い泉が枯れてしまったらしい。つまりつぐみちゃんは今、不幸な気持ちを抱いていないということ。つぐみちゃんは夜にならないと帰らない。日暮れまでに青い滴を舐められない。
今日の日没と同時に、私は死んでしまう……。
焦っているはずなのに、心臓はとても静かだ。もう止まってしまったのだろうか。息をひそめて胸もとに意識を集中すると、ようやくかすかな拍動が感じられた。
死はだれにでも訪れる。私もそのときを迎えたというだけのことだ。今日までの一ヶ月ほど生き延びられたうえ、つぐみちゃんの不幸をなくすことができたのだ。これ以上ないハッピーエンドではないか。
死を覚悟する覚悟を決めつつあった私の前に、神さまが光をまき散らしながら降りてきた。
「どうした、覇気のない顔をしているじゃないか」
そりゃあ覇気などありません。私、今日で死ぬのです。神さま、今までありがとうございました。
「何じゃ何じゃ、辛気臭いのう。つぐみちゃんの青い滴を舐められなかっただけじゃろう」
だけ、って……。私が死にかけているっていうのに。
神さまはかかかかかっ、と笑い声を上げた。
「わしは、あんたの『空白部分』を引き延ばしてやると言ったとき、つぐみちゃんの不幸だけが延命のためになるとは言っとらんぞ。お母さんとお父さんがいるじゃないか」
その神さまの言葉で、私の生に対する執着がふたたび炎を上げた。
昨日の晩、つぐみちゃんとお母さんが話している声に耳をそばだてていたら、両親は今日、親戚の葬式に出席するためにそろって仕事を休むのだと言っていた。少し遠いところまで出かけるみたいだ。帰りは何時になるかわからないが、それほど遅くはならないだろう、ということらしかった。
「お母さんは今朝も塩に触れていたから浄化されてしまったとしても、お父さんは大丈夫じゃろう。普段、お父さんはあまりあんたに構うことはないようじゃが、気を引いて手を近づけさせればいいことじゃ」
そんなに簡単に事が進むだろうか……。神さまは途方に暮れる私に「巡回に行ってくるからの。健闘を祈る」と言うと、キラッと一際強く光を放ち、次の瞬間には姿を消していた。
玄関の姿見には、神さまの残していった光の粒と、やつれて醜くなった私の姿が映っていた。
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