そして誰もいなくなった
安崎依代@1/31『絶華』発売決定!
そして誰もいなくなった
バタバタと騒々しい足音に、私は椅子に腰かけたまま静かに目を閉じた。
深く呼吸すると聴覚がより鋭敏になって、目を開いている時よりも多くのことが分かるようになる。
静かに空気を震わせる空調とパソコンの排気ファン。向かってくる人数は一人。男性。彼がこの研究室の扉を開くまでの所要時間は残り3秒、2秒、1……
「
バンッと壊れそうな勢いでドアが開かれ、騒々しい足音が部屋の中へなだれこんできた。荒々しい呼吸の音。ドクドクと張り裂けそうなほどに脈動する心臓の音。彼はよほど焦ってここへ来たのだろう。
「どうして……っ!! どうして、こんなことになったんだっ!?」
ヒステリックな声は、彼の今の心境を如実に表している。ということは、彼女は彼が提供した飲食物を躊躇なく口にしたということになる。
私からの、警告を無視して。
「なぁ、どうしてなんだよ黒沢……っ!!」
そこまで分析してから、私は静かに瞳を開いた。
殺風景な研究室の中心で椅子に腰かけた私。その前には肩で息をしながら立つ彼。彼の瞳が、混乱と憎しみをこめて私を見据えている。揺らぐ瞳の中でも揺らがない私が、無表情に私自身を見つめ返していた。
「あぁ……」
その瞳の中の私が、トロリと相好を崩す。
唇から零れたのは、歓喜の声。
「やっと、私を見てくれた」
私の言葉に、彼の瞳にまたひとつ、新しい揺らぎが生まれる。
「今まであなたはずっと、私を通して
「黒沢……お前、そんなこと言うなんて……じゃあ、媚薬だって渡してきたのは……!?」
彼が何かを悟ったかのように体を震わせる。
彼がいくつか真実と食い違った解釈をしたということは分かっていたけれど、私はあえて恍惚とした笑みを浮かべたまま唇を開かなかった。
「なんでなんだよっ!?」
そんな私の両肩に彼の手が伸びる。そのまま揺さぶられて、椅子がキシキシと悲鳴を上げた。
「どうして……!? お前と
下手に口を開けば舌を噛んでしまいそうな振動。
だけど、この言葉には口を閉じ続けることができなかった。
「馬鹿なことを言わないで。雪を殺したのはあなたよ。私は何もしていないわ」
「媚薬だって言ったじゃないかっ!!」
「私はそんな言葉、口にしていない」
腕を伸ばして、軽く彼の手を払う。たったそれだけで私の肩から手を滑らせた彼は大きく体勢を崩した。私にもたれかかるように崩れてきた彼の鳩尾に肘を突き出すと、狙っているんじゃないかと思うくらい綺麗に肘打ちが決まる。
「あなたは私に媚薬の製造を依頼した。私はその言葉に『イェス』とは欠片も言っていない。それなのにあなたは私が媚薬の製造を受けたと思い込み、私の実験室から勝手に劇薬を持ち出し、勝手に雪に盛った。雪を殺したのは、あなたの身勝手な欲望よ」
そしてこの結果は、彼女の望みでもある。
私は警告していたのに。『彼に気がないならば、彼から提供される飲食物には一切手を付けないで。一緒に食事の席につかないで』って。その警告を無視したから、今、こんなことになっている。
私は変わらず椅子に腰かけたまま、床にくず折れて四つん這いになった彼を見下ろした。『薬学部のプリンス』とまで言われた彼が、随分惨めなものだった。その惨めな体勢のまま咳き込んでいた彼が、顔を上げてギリッと私を睨んでくる。
「じゃあ……なんであの日、あんな香水瓶みたいな入れ物に人を殺せるような試薬を入れてあんな目立つ場所に置いてたんだよ!? あんな紛らわしいメールまで送ってきて……っ!!」
「実験へのモチベーションを上げるために、私の好きな物に試薬を入れていただけよ」
この発言も、想定済み。
だから私は、己の頭の中にある台本通りの台詞を口にする。
「褐色瓶だったでしょう? あの瓶。試薬の保存に向いていたのよ。そもそも、私の実験に使う試薬をどこに保存していようが、私の勝手でしょう? あの場所に置いてあったのは、すぐに実験に取り掛かるため。それに、紛らわしいメールって何? 私はただ、あなたの研究室の教授に頼まれていた実験試薬が用意できたから取りに来てって、あなたの研究室のパソコンにメールしただけよ。そのままの用件だったじゃない。現にその試薬は、私の机に用意してあったわ」
よどみなく、感情もなく言葉を紡ぎ、最後に添える笑みにだけ、冷たさを乗せて。
「……まぁ、あなたは何を勘違いしたのか、私が席を外している間に勝手に私の試薬を持ち出して悪用したみたいだけれど」
そう、私が彼の殺人に手を貸した証拠なんてどこにもない。全ては彼の勘違いと自惚れが生んだ悲劇。誰が捜査に入っても、彼から私に繋がる殺意の糸は見えない。
私はその確信を抱いて、今更小首を傾げて問いを口にした。
「そういえば、雪が死んだってどういうこと? 今日、あなたと一緒に呑みに行くって雪から聞いていたんだけど……」
その問いで冷静になったのか、彼はくず折れた体勢のままサァッと顔色を悪くした。一連の流れを思い出して、自分の発言を裏付ける証拠が一切ないことに気付いたのだろう。
それでも彼は、私を睨み付ける瞳から殺意を消さない。
なぜならば彼だけが、この悲劇の脚本を描いた裏に私がいると知っているから。
「ハメやがったな、黒沢……!! お前が俺に惚れてたってことは分かってるんだっ!! それなのに俺が雪ばっか見てて面白くなかったからこんなことを……っ!!」
「何の話?」
サラリとかわして、優雅に微笑む。雪が見たら『絶対零度』と評してくれそうな微笑で。
「そもそもね……『あなたの親友をモノにするために媚薬を作ってください』なんて言われて……オンナがオトコのために素直に媚薬を作ってくれるっていう前提が、間違っていると思わない?」
私と雪は、幼稚園からずっと一緒にいた親友だった。小中高大と学校も学部を一緒で、部活だってサークルだってずっと一緒だった。兄弟姉妹よりもずっと時を共にしてきて、誰よりもお互いのことが分かっていた。雪は私のモノで、私は雪のモノだった。そんな私達を見て、周囲の人間はよくこう言ったものだ。『雪と
そんな私達の間に彼が割り込んできたのは、大学に入ってすぐのことだった。
『薬学部のプリンス』。そう言われるに相応しい容姿と頭脳。ただ性格だけが到底『プリンス』と呼べるものではなかった。
女好きで、惚れっぽい。狙った女は落とさないと気が済まない。自分の欲望を満たすために女のカラダを使う。汚い欲望を満たすためならば手段は選ばない。そんな自分の闇を隠すために頭脳と実家の力をフル活用。流れる噂さえ金とコネと力で押し潰す。そんなことができる自分はカッコイイと思っている。カッコイイ自分とプリンスな自分を完璧に使い分けることで優越感に浸っている。
だから彼の暗部は、彼のことを徹底的に調べ上げた私しか知らない。彼のクズなところにどうしようもなく惚れてしまった、私しか。
「や、やっぱり白井に嫉妬してこんなことを仕込んだんじゃないかっ!!」
悲鳴のような声で彼は私を糾弾する。静まり返った研究棟の中で、彼の声はどこまで届いただろうか。
「あぁ……やっぱりあなたは、勘違いをしているのね」
彼の声が響く代わりに、私は囁くようなトーンで言葉を口にした。彼の声が空気を裂いて周囲に存在を知らしめるものならば、私の声は誰にも存在を知られずに消えていく煙か霞のようなものだったのだろう。
「私が嫉妬した相手は、あなたよ」
「は?」
私は軽く足を上げるついでに足元に這いつくばる彼の脇腹を蹴り上げた。予期しない攻撃に、彼は簡単に床を転がる。汚い悲鳴が上がる中、私はそのまま優雅に足を組んだ。
「雪は、私のモノなの。あなたなんかにあげないわ」
私が黒ならば、雪は白。私が悪ならば、雪は善。疑い分析するのが私の役目で、信じて愛するのが雪の役目だった。
だから彼の暗部を雪は知らなかった。だから彼の暗部を私は知っていた。雪は彼のプリンスな面に惹かれて、私は彼のクズな面に惹かれた。雪は彼にプリンセスとして扱われることに喜びを感じ、私は彼に雪へ近付く道具として使われる中、彼のクズな面を存分に眺められることに喜びを感じていた。
女二人が、一人の男に惹かれた状況だった。
だけど私にとっては全然問題がなかった。
だって私はそれ以上に雪を想っていたから。
愛だの恋だの名前がつけられる以上の想いを雪に向けていたから。雪への想いは、次元が別のものだったから。だから全然、問題なかった。雪もそれは一緒だった。
「大切な大切な親友を穢す手伝いをしろだなんて、私から奪い取る手伝いをしろだなんて、誰が了承するもんですか」
一緒だったけれど、ベクトルが違った。
私は、雪を別次元で想っているからこそ、彼と男女の仲にならなくて良いと思った。雪は、私を別次元で想っているからこそ、彼と男女の仲になっても良いと思った。
別次元の色と量の感情を向けながらも同じ平面上に雪と彼を並べていた私。そもそも私と彼を別の平面に並べていた雪。私の中では雪への愛と彼への愛は同時に成立することはなく、雪の中では私への愛と彼への愛が同時に成立した。同じシート上で1位はふたつ存在し得ないのに対し、シートが2枚あれば1位はふたつ存在できる。その齟齬が生んだ違いでもあった。
ずっと気付かなかった、似ているようで大きく違うその齟齬は、私の予測を超える大きな感情を私の中に生み出した。
「あなたに奪い取られるくらいならば、私が掻っ
嫉妬。
暗くて重くてドロドロした感情が、初めて私の胸を焼いた。どうして? 何で? と問いをずっと胸中で繰り返した。今まで雪が誰を見ていても、誰と何を話していてもこんな感情を抱いたことはなかったのに、雪が頬を染めて彼の話をするだけで、視線で彼を追うだけで、身を裂かれるような痛みが私の胸の中で暴れ回った。
私がずっと雪の一番だったのに、雪は別の一番を作ろうとしている。雪の中では次元が違って私は彼とは比べるまでもない高みにいるのかもしれないけれど、それでも私以外の一番が作られるなんて到底許せなかった。同立1位なんてものは嫌だった。
私だけを見て。
余所見なんてしないで。
私で全てを満たされていて。
他なんて求めないで。
あなたのことを一番知っているのも想っているのも私なのに、そしてそれをあなたも分かっているのに、どうしてあなたは私から視線をそらそうとするの……っ!!
苦しくて、つらくて、叫び出しそうになる感情を必死に押し殺していたことに、雪はきっと気付いていなかっただろう。いや、もしかしたら気付いてはいたのかもしれない。だけど気付いたとしても、それが一体何だったのかまでは分かっていなかったのだろう。だって雪は、こんな黒い感情とは無縁な生き方をしている人間だったから。
「誰であろうと、私と雪の間に割り込むことなんて許さない」
そんな時、彼は雪を落とす最後の仕上げに入ろうとした。よりにもよって、私を使って。
彼は私が彼のどこに惹かれているのかは気付いていなかったくせに、私が彼に惹かれているということだけは分かっていた。だからその感情を利用して上手く私を使おうとした。もしかしたら、最初からこのために私に近付いたのかもしれない。雪は美味しいオマケってだけで。
私が専攻しているのは、フェロモンの生体への影響。その一端として惚れ薬や媚薬といった類の研究もしている。欲望のためにオンナを欲する彼からしてみれば、私は便利道具を作り出す青い狸に見えたことだろう。
彼は私に甘い言葉をささやきながら媚薬の横流しを依頼してきた。使う相手は雪だとはっきり言っていた。一緒に呑みに行った時に、飲み物か食べ物に混ぜて飲ませたいと。データを取るための実験だと思えばいい。雪に効いたら、黒沢とヤル時も使ってイイ思いをさせてやるからって。
なんてバカなんだろうと殺意にも近い感情が湧いたけれど、私はこれを利用させてもらうことにした。
「私ね、クズが壊れていく所を見るのが大好きなの。その瞬間に、最高に興奮するの。そのためによく、クズを育てたりもするのよね」
本当はこのクズももっと育ててから壊したかった。だけど雪の純潔を守ることの方が大切だったから、このタイミングで壊すことにした。
彼の研究室の教授から実験試薬調達の依頼メールが来たのはたまたまだったけれど、それも利用させてもらった。あえて彼が勘違いするような曖昧な受け答えをして、勘違いするような瓶を用意して、実験にも使う劇薬を入れて、あえて彼がやってきそうな時間帯に席を外した。
後は全てシナリオ通り。彼は媚薬だと信じて、雪に劇薬を盛った。雪はこんな男に穢される前に、綺麗なまま誰も触れられない所へ逝った。
「今のあなたは殺人と窃盗という罪がついているわ。さっき警察に連絡しておいたし……。そもそもあなた、どうせもがき苦しむ雪を見て、気が動転して雪を放置したまま店を飛び出してきたんでしょう? 店からも通報が入って、今頃捜査の手がここまで伸びてきているはずだわ」
これで彼は壊れる。このレベルの罪を揉み消すことは、彼の実家にさえできることではない。今まで築き上げてきた学歴も、積み上げてきたイメージも、全部崩れることだろう。
その瞬間に彼がどんな顔を見せるのか想像しただけでゾクゾクしてしまう。過去に押し潰されて口を閉ざした人々も、これを機に口を開くに違いない。あとは勝手にワイドショーが騒いでくれる。
全てを奪われて絶望した彼がどんな風に壊れ切ってくれるか、それを最後まで見届けられないことだけが残念だった。だけど雪と私の仲を裂くような不届き者を社会的に抹殺できたのだから、それだけで良しとしなければならない。
「……大切だったなら、どうして殺すような試薬を……」
ようやく私の意図を読み切れたのか、彼は能面のような顔でフラフラと立ち上がった。せわしなく揺れ動く目は、逃げ道でも探しているのだろうか。もうそんなもの、この世のどこにも存在しないというのに。
「私としては、どちらでも良かったのよ。雪が飲もうが、飲むまいが」
私が雪に伝えた言葉は『彼に気がないならば、彼から提供される飲食物には一切手を付けないで。一緒に食事の席につかないで』。裏を返せば『彼に気があるならば、彼と食事をして』になる。
疑うことを知らない雪は、その言葉をその額面通りに受け取った。だからその答えを行動で示した。私がわざわざ忠告するというのがどういうことなのかを知っていながら、私に答えを返すために行動した。
彼に気があるならば、雪は盛られた毒を口にして死ぬ。だから彼が雪に手を出すことはできなくなる。彼に気がないならば、雪はそれとなく彼をかわすようになる。だからそもそも手を出す余地は生まれないし、私がそんな隙を与えない。だから私にとってはどちらに転ぼうとも、望む結果が得られる筋書きだった。
「雪が私だけのものになってくれれば、それで良かったの」
フワリと、口元が緩んだのが分かった。彼へ向けていた笑みとは種類が違う、純粋な毒気のない無邪気な笑み。その笑みを受けて、彼がジリッと足を引いたのが見えた。彼の瞳の中にいる私は、無邪気でありながら狂気に満ちている。その空気に彼が脅えたのだと分かったけれど、もうどうでも良かった。今まで私と雪の仲を見た男はみんな同じような顔を向けてきたもの。みんなみんな、私と雪で壊してやった。
「……さて、じゃあ、私の結末を用意しなくちゃね」
私はゆっくりと椅子から立ち上がる。胸ポケットの中に仕込んでおいたハンカチで包まれたガラス瓶を取り出すと、彼の瞳に宿る脅えがさらに強くなったのが分かった。
「お……っ、俺も、殺すのか……!? 白井を殺したのと同じ薬で……っ!?」
「どうして私があなたを殺さなくてはいけないの?」
彼はまだ私の狂気にも似た雪への思慕の念を分かっていないらしい。どうして雪に盛った薬と同じ物でこいつを雪の元へ送り届けなければならないのだろう。そんなことをしたら、そもそもこの脚本を書いた意味がないというのに。
「この薬を飲むのは、私」
彼との間にある三歩分の距離を詰めて、彼の手に瓶を握らせる。私の手の中にある間はハンカチに包まれていたから、瓶に私の指紋は付いていない。万が一付いていても問題はないはずだ。だってこの瓶は、この学部の人間ならば誰にでも触れられる実験室の戸棚に保管されていた物だから。揉み合った時に私の手が触れたことにしてもいい。まあ、それを判断するのは、捜査に入った関係者であって、決めるのは私ではないのだけれど。
「雪を殺したあなたは、同じ薬で私も殺した。理由は……そうね。痴情の
瓶を握った彼の手の上に自分の手をかぶせて、彼の手で瓶を覆うようにして瓶の蓋を開く。自分が何をさせられるのかようやく理解したのか、彼の腕が不自然に強張る。だけど私は彼が行動を起こすよりも早く、全体重をかけて彼の腕を自分の方へ引いた。瓶の口にあらかじめ口を付けておいたから、試薬が誤ってこぼれることもない。傾いた瓶は、私の口の中に中身を注ぎ込む。
「――――――――っ!!」
途端に広がる筆舌しがたい痛み。彼の手から滑り落ちた瓶がパンッと儚い音を立てて破片に返る。悲鳴を上げるべき喉は試薬で焼けただれてかすれた息の音しか紡がない。勝手に跳ねる体が椅子を弾き飛ばしてけたたましい音を立てる。そんな私の耳に、遠くからこちらに向かってくる騒々しい足音が届いた。男性。人数は、三人以上。
人間の数の認識能力は、1、2、たくさん。だから3以上の数はみんな一緒なのだと教えてくれたのは雪だったなと、こんな時に思った。
こんな時だからこそ、思った。
「お……お、俺はやってない……っ!! 殺してなんかいない……っ!!」
視界に移る足がもつれて、体重を支え切れずにカクリと折れる。私と視線を合わせるかのように尻餅をついた彼は、そのままガタガタと震えながら『殺してない……殺してないんだ……』とうわ言のように繰り返していた。
だけど、もう私には、そんなことはどうでも良かった。
瞳を閉じて、体中に広がっていく痛みを味わう。雪が最期に感じた痛みと同じ痛みを。今までずっと胸の内に凝っていた黒い感情がついに堰を切って私の体を焼いているのかと錯覚するような痛みも、雪が最期に感じたものと同じものだと思っただけで妙に甘美に思えた。こんな風に人の意識が上書きされていくなんて、読み漁った論文には一言も書いていなかったのに。この感覚について論文を書けたら、学会で大きく取り上げられたに違いない。きっと雪も目を輝かせて『すごいね!』と褒めてくれたはずだ。
だけどそんなことも、今ではどうでも良かった。だって、先に逝った雪を待たせる訳にはいかないから。おっとりしているくせに時間にルーズなことだけは許してくれなかった雪だから、きっと怒られるに違いない。
雪、雪。ずっとずっと、傍にいてあげるからね。どこへ逝っても、何をしていても、私達、ずっと一緒だからね。
あなたを私の元から奪おうなんて、何人たりとも許せない。男でも、女でも、子供でも、大人でも、神でも、世間でも、……誰であろうと、何であろうと、壊してあげる。
たとえあなたを殺してでも。
「殺人容疑で捜査中の
開きっ放しだったドアから人が飛び込んでくる。だけど私はもうそれが男なのか女なのか、ここまで所要時間が何秒必要だったのか、それを分析している余力もなかった。
「テメェ、居酒屋での白井雪の他にも
「ちっ……違うっ!! 違うんだっ!! 雪だって黒沢だって、俺は……っ!!」
「じゃあこの状況はなんだよっ!? 取り押さえろっ!! あと救急車っ!!」
バタバタと、研究室の中が一気に騒がしくなる。このタイミングで警察が突入してくることは予測済み。だからこの時点から逆算して、救急車を呼ばれても助からないタイミングで毒を飲んだ。全てが私の描いたシナリオ通りに収まっていく。私と雪が、永遠に二人きりになれるシナリオに。
──……ああ、なんて、幸せな心中。
……そういえば雪、心中物の古典文学が好きだったよね。人形浄瑠璃が見たいとか。古臭いなって思うし、全然興味ないけれど、雪が見たいって言うなら一緒に行こうか。きっと面白おかしく筋書きとかを教えてくれる。雪は理系でも、国語もできる理系だったから、興味のないことを説明してくれる時だって、ものすごく面白くお喋りしてくれるから……
焼けただれた神経では、もう正常に思考回路を回すことも、全身に回る痛みを感知することもできない。どこかで今考えるべきことではないと分かっていても、私は雪への想いしか思考に上げることができなかった。
痛覚だけではなくて、五感全部がだんだん遠くなっていく。だから私は口元に満足の笑みを刷いた。人形劇を完璧にし終えた、劇作家のように。
胸の内だけに広がる甘い甘い歓喜とともに舞台の幕が下りて、私は劇場を支配する真っ黒な闇の中へと想い人を追って旅立ってく。
──そして私の思考回路という舞台に立つ人間は、誰もいなくなった。
【END】
そして誰もいなくなった 安崎依代@1/31『絶華』発売決定! @Iyo_Anzaki
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