【書籍発売記念】恋の矢に射抜かれたなら

 2022/12/23『月華の恋 乙女は孤高の月に愛される』メディアワークス文庫より発売中です!

 web版から加筆改稿し、よりドラマティックで読みやすくなりました。

 ぜひ、書籍をお手に取ってフリッツと月乃の物語を応援していただけたらうれしいです。



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「俺の顔を描きたい?」


“フリッツさんの絵を描かせてほしい。”


 月乃がそんなことを言い出したのは、いつものようにふたりで学園の裏庭にいた時だった。

 フリッツが片眉を跳ね上げたので、月乃は持っていた本でおどおどと口元を隠しつつ、うなずく。


「だめですか?」

「いや、光栄だが……。なんのために?」


 月乃は絵が好きだ。この間など、何か降誕祭クリスマスの贈り物にほしいものはないかと尋ねたら「絵を描くための紙がほしい」と答えたくらいだ。

 ただ、いつもはもっぱら花や鳥ばかりをモデルにしているようで、人物画を描いている場面はほとんどお目にかかったことがない。


 フリッツの問いに月乃は少し口ごもり、ややあって恥ずかしげにぽつりと零した。


「フリッツさんとお会いできない時に、姿絵をお守り代わりに眺められたらいいなって思って……」

「そんな健気な台詞を言われたら、断れる男はいないだろうな」


 フリッツにしてみれば、「あなたと会えない時間が淋しい」と告げられたも同然だ。

 大和撫子やまとなでしこらしく普段は抑えがちな月乃の本音を思いがけず漏れ聞いて、まんざら悪い気もしない。


 それに。


 月乃が絵を描く時に見せる真剣な表情。対象の内面まで写し取ろうとするかのごとき一途なまなざし。

 あの目が自分に向けられたら、一体どんな気分になるのだろうか――。


 想像すると、心の奥がざわりと波立つ。


Alles klarいいとも. 好きに描いてくれたまえ」

「は、はい! ありがとうございます」


 もったいぶって許可すると、月乃は満面の笑みを花開かせた。


 こうして翌日から早速、月乃はお手製の画板を手に肖像画制作に着手した。


 一日目。いつも通りに紙巻煙草シガレットをくゆらせるフリッツの横顔を、月乃はじっと観察していた。

 二日目。フリッツの顔と手元の紙を見比べながら忙しそうに手を動かす。

 三日目。何か思うところがあるのか、手が動かなくなった。難しい顔をして、描きかけの紙を近付けたり遠ざけたりしている。

 そして四日目。ついに完全に手が止まり――


「無理……やっぱり描けません!」


 突然。月乃は悲痛な声で叫んだかと思うとがばりと画板の上に突っ伏してしまった。


「珍しい。君でも描けなくなることがあるのか」


 画家とか作家とかいった生き物は非常に繊細で、ちょっとしたきっかけですぐに筆が止まるものらしいとは知っていたが、少なくともフリッツの前で月乃が描くことを投げ出したのはこの時が初めてだった。

 伏せたまま動かなくなった細い肩を両手で掴んで起こしてやると、月乃は弱々しく首を左右に振る。


「観察して描こうとすればするほど、私の思っているフリッツさんと違ってきてしまうんです! だって、フリッツさんはもっと……!」

「Love looks not with the eyes but with the mind.〈愛は目で見るのではなく、心で見るものだ〉」


 うつむいていた月乃の顔が持ち上がる。潤んだ瞳がぱちぱちと不思議そうに瞬きしたので、フリッツは「シェイクスピアの言葉だ」と付け加えた。

 そのまま月乃の右手を取って、顔の高さまで持ち上げる。


「目が頼りにならないのなら、触れてみたらどうだ? 幸い、君の絵のモデルはすぐ触れられる距離にいるのだから」

「えっ?」

「遠慮する必要はない。存分にたしかめてもらってかまわない」


 そう言って自分の頬に月乃の手のひらを置き、触れさせる。

 ちょうど口元に小指が当たって、月乃の手は強張った。しかしフリッツは素知らぬ顔で、その桜色の爪先をカリ、と小さく食んでみせる。


「どうだ?」

「え、あ、えっと……その」


 灰眼を細めて微笑むと、月乃は真っ赤になって固まってしまった。そういう初心な反応こそがフリッツの悪戯心を煽るのだと彼女は知らない。

 フリッツは月乃の右手を上から包んで「ここが耳」「口の形はこうだ」と懇切丁寧に導き、順に触れさせてゆく。


 月乃はしばらくの間、言葉も発せず、掴まれた手を引っこめることもできず、ただただフリッツに弄ばれるまま整った鼻梁を指で追い、男らしく筋張った首と喉仏の感触を覚えこまされた。

 だがある瞬間、それまで戸惑いがちに泳いでいた月乃の目にハッと輝きが宿る。


「……目で見るのではなく心で見るもの……」


 不意に、画板に置かれたままだった月乃の左手がフリッツに触れた。そのまま小さな両手は頬を覆い、澄んだ瞳がじっと灰の目を覗き込んでくる。

 突然の大胆さに、今度はフリッツの方が面食らった。いつの間にかふたりの顔は、ほとんど重なりそうなほど近かった。

 風が月乃の黒髪の間を通り抜け、甘い石鹸サボンの香りを運んでくる。


 ああもう、いっそこのまま唇に教え込んでやればいいか――フリッツが早々に教師の仮面を投げ捨て、指に絡めた黒髪ごと後頭部を引き寄せようとした刹那。


「つまり、視覚の情報に捕われすぎず、思うままにのびのび描いてみたらいいということですね!」


 がばりと月乃が立ち上がった。膝から落ちた画板を拾い上げると、晴れ晴れした表情で陽にかざす。


「“愛は目で見るのではなく、心で見るもの”――フリッツさんのおかげでシェイクスピアの言葉の意味がわかりました!」

「いや」

「なんだか描けそうな気がしてきました……! ごめんなさいフリッツさん、つづきは寄宿舎の部屋に戻って描いてみようと思うのですが、いいですか?」


 どうやら、一連の行為がなんらかのインスピレーションを与えたらしい。

 月乃は今すぐこのひらめきを形にしたいとばかりに、そわそわと草履ぞうりかかとを上げたり下ろしたりしはじめる。


「……さっさと行け」

「はい! 失礼します!」


 フリッツが視線を逸らしてしっし、と追い払うしぐさをすると、月乃は深々と頭を下げた。やがて背を向けたと思ったら、脇目も振らず寄宿舎の方へと駆けていってしまう。

 長い髪を彩る絹のリボンが、彼女の弾む心を表わすように頭の後ろで揺れていた。


 御納戸おなんどはかまの後ろ姿が完全に走り去ったのを見送ってから、フリッツは脱力して、ハァ―――と座っていた長椅子ベンチに沈み込む。


“Love looks not with the eyes but with the mind.”

〈愛は目で見るのではなく、心で見るもの。〉


 シェイクスピアのその言葉にはつづきがある。

 ――「だから、恋のキューピッドは盲目なのだ」と。


 元々この台詞は喜劇のものだ。恋の神キューピッドは翼があるのに目が見えない。彼の放つでたらめで無節操な恋の矢に射抜かれれば、人はたちまち正常な判断力を失い、周りが見えなくなってしまうのだ。


 つまり、この台詞が真に意味するのは――


「“恋は盲目”――か」


 フリッツはくしゃくしゃと前髪を乱して天を仰いだ。


“君は俺に恋するあまり、ずいぶんと盲目になっているのでは?”


 そうからかったつもりだったのに、気付けば翻弄されたのは自分の方で。

 彼女の純粋さはフリッツを魅了してやまないと同時に、時々とても腹立たしく憎たらしい気持ちにさせる。


「盲目なのは一体どちらだろうな」


 フ、と自嘲めいた笑みをひとつ零し、くわえた煙草に火を点けた。



 その後、月乃はひと晩かけて肖像画を完成させたらしい。

 らしい、というのは、月乃が恥ずかしがってできあがった絵を見せてくれなかったからだ。

筆記帖ノートブックに挟んで、時々こっそり見返してるんですよ」とうれしそうにしていたので、一応納得のゆく出来栄えではあるようだ。


 だから結局、月乃が描いた自分がどんな表情をしているのかフリッツはわからないままだったけれど。


 その答えは、後日廊下をすれ違った千代が苦々しい顔つきで教えてくれた。



「月乃ちゃんには、貴方があんな風に優しそうに見えているのね。まったく……恋って盲目だわ」

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