番外編二、紅い月にくちづけを

 こちらの短編は、5/23のキスの日記念の番外編としてTwitterに掲載したものです。お題通りフリッツと月乃がキスするだけのお話です。

 ちょうど2021/5/26の満月にスーパームーン+皆既月食という珍しい天文イベントが重なるため、話のネタとして拝借しました。

 時系列は最終話後、年が明けてから(番外編一より後?)を想定しています。



 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



「それは、月のせいでしょうね」


 学園の寮舎の二階にあるふたり部屋。就寝前に窓辺で黒髪をいていた千代が、さらりと答えた。


“しばらく会えない”


 月乃がフリッツにそう告げられたのは今日の昼、いつもの裏庭のベンチでのことだった。元より多忙な彼と会える頻度は高くないのだが、わざわざ「会えなくなる」と口にされるのは初めてだ。


“何か、ご事情が? お仕事ですか?”

“そんなところだ”


 それきり途切れたそっけない会話。どうにも引っかかって千代に打ち明けたところ、返ってきたのが冒頭の言葉だった。


「月のせい? どういうこと?」


 月乃の疑問に、千代は無言で観音開きの窓を押し開ける。澄んだ夜気が部屋に入り込むと、「ご覧になって」と天上を指差した。


「近頃の月はとても大きいでしょう」


 言われるまま千代の隣へ歩み寄った月乃は、夜空を見上げて「本当だわ」と息を呑んだ。

 なるほどたしかに今宵頭上に輝く弓張月は、いずれ地上にちてくるのでは錯覚しそうなほど圧迫感がある。月は一定の周期で地球との距離が近付いたり離れたりしているのだと、以前読んだ本にも書いてあった。


「この大きな月が満月になる時――。つまりあと数日後に、皆既月食が起こるのはご存知?」

「ええ、新聞で見たわ。『機会まれなる天文の神秘』って」


 月乃がうなずく横で、千代はうっとりとした様子で己の小指を噛んだ。


「空いっぱいに浮かぶ満月が真っ赤に染まるのよ。ふふ、その夜の前後は吸血人も、人狼も――有象無象のあやかし達は皆、血が騒ぎ浮き足立って、平静ではいられないでしょうね」

「人ならぬ者は皆……?」

「ええ。あたしも明日からしばらく実家に帰るつもりよ」


 月乃が困惑に目をしばたたかせるのを尻目に、千代は静かに窓を閉める。


「だって……。間違いがあったら困るもの、ね」


 誰にでもなくそう笑って、形の良い唇をニィ、と三日月のように吊り上げた。


 古来より、満月は人ならぬ怪異の野生を呼び覚ますと言われている。怪異に狙われやすい体質の月乃も、「満月の夜は出歩くな」とフリッツや暁臣から度々言われていた。

 それが今回の満月はいわゆる近点満月スーパームーンで、しかも皆既月食ブラッドムーンも重なるのだ。普段以上に魔の気配は濃くなるだろう。


半鬼人ダムピールであるフリッツさんにとっても、次の満月は心乱されるものなのかしら)


 いつだって冷静で、理知的で、本能に支配されることなどないかに見えるフリッツ。しかしそんな彼も、吸血鬼ヴァムパイヤーの血を引いている。

 果たしてフリッツは大丈夫なのか、独りで苦しむことになりはしないか――。考えれば考えるほど月乃の心は焦燥に包まれ、不安が押し寄せた。



 ◇



「――それで君は、のこのことここまでやって来たというのか?」


 空に満ちる紅い月。

 白いシャツにナイトガウンをまとったフリッツは、恐ろしく冷たい形相で屋敷の入口にたたずむ月乃を見下ろしていた。


「フリッツさんのことが……心配で」


 対する月乃は完全に萎縮してしまい、弱々しい声を絞り出す。

 結局、皆既月食の今夜――月乃はフリッツの身を案じるあまり、居ても立ってもいられずに彼の屋敷までやって来てしまったのだ。


 身を縮こまらせた少女を前に、フリッツはいらついた様子で自身の髪をかき乱す。ややあって「Scheißeクソ!」と獨語で吐き捨てた。


松吉しょうきち、お前は減給だ! フロッケも……後で、覚えておけよ」


 月乃に請われるまま彼女をここまで連れてきたのは、フリッツのお抱え俥夫しゃふの松吉である。門の外まで響く声で一喝すると、フリッツは月乃の腕を掴んで強引に屋敷の中へ引き込んだ。


 バタン! と大きな音を立てて重いマホガニー製の扉が閉まる。がらんどうの玄関ホールには明かりがなく、外よりも暗い。右手首を掴んでひねり上げる彼の力には、これまで向けられたこともないような強烈な怒りが込められていた。


「俺は以前から、満月の夜は出歩くなと口酸っぱく忠告していたはずだが?」

「……はい」

「なぜ約束を破った」

「フリッツさんのことが、心配で……」


(違うわ。本当は、私自身が不安だっただけ。私の知らないところでフリッツさんが傷付いたり苦しんだりしていたら嫌だって……。ただの、つまらない独占欲よ)


 月乃は己の軽率さを恥じた。胸の内にはたくさんの感情が押し寄せてくるのに、口からは先ほどと同じ台詞しか出て来ない。


「思い上がるな!」

「きゃあっ!」


 感情を抑制しきれない様子で、フリッツは声を荒らげた。次の瞬間、月乃は右腕を掴まれたまま横壁に叩きつけられる。あっという間に両手を頭上で拘束されたかと思うと、壁に張り付けにされた。ひゅ、と思わず息を呑めば、フリッツの美しい顔がすぐ面前にある。その凍れる眼差しに射すくめられたなら、身体は石像になったように動かない。


「君はいつも他人のことばかりを気にかけるが……いつでも都合良く、誰かが助けてくれると思わないことだ」

「ご、ごめんなさ……んっ!」


 謝罪の言葉は、フリッツの唇に呑み込まれた。


「く、ふ……」


 まるで噛みつくような獰猛どうもうなくちづけ。それはこれまで彼がくれたどのキスとも違った。

 あごを掴まれ、上向きのままむさぼられる。あまりの性急さに月乃は息もできない。ただはくはくと酸素を求めて口を開ければ、吐息も丸ごと喰らわれて、おびえる舌に荒々しい熱が絡みついた。


(なんで……、こんなの、知らない……)


 ふたりの口から漏れる水音だけが場を支配した。頭が痺れ、意識がぼんやりしてくる。脚の力が抜けて崩れ落ちかけたところで――ようやく、唇が解放される。

 困惑で纏まらぬ思考の中、月乃は必死に肺に呼気を取り入れようとする。その間に、顎を掴んでいたフリッツの指が唾液に濡れた口を拭った。かと思うとすぐにまた顔が近付いて、左耳をんだ。


「俺が獲物を捕らえた吸血鬼ヴァムパイヤーだったなら……。まず、逃れられないように四肢を折る」

「……っ、」


 ぞわりと脳髄に纏わりつく声。熱い吐息を耳孔に浴びせられて、月乃の身体は震えた。


「泣いて懇願する叫び声すら、心たかぶらせるに違いない」


 頬をそっと撫でて、首筋に触れた。その優しげな手つきとは裏腹に、みしみし、頭上で月乃の両手首を押さえつけるもう一方の力は強まって、骨がきしんで悲鳴を上げる。


「快楽と苦痛を同時に与えて、自尊心を粉々に砕くのもいい。それから――」


 喉元を滑った指が着物の合わせ目をなぞったところで、ぴたりと動きが止まる。月乃が呼吸も忘れて固まっていると、やがてフリッツはハァ、と大きな息を吐いた。


「これにりたら、軽率な行動はつつしむことだ」


 不意に、壁に縫い付けていた力が緩んだ。唐突に解放されたので、月乃はぺたんとその場に座り込んでしまう。恐る恐る見上げると、フリッツは一歩離れてこちらに背を向けていた。


「悪かったな」


 背中越しの謝罪。月乃は壁に手を付きつつ、よろよろと立ち上がる。


「いいえ……。私こそ、すみませんでした」

「だいたい、未婚の令嬢が夜に男の元を訪ねるだなんて――父君が泣く」

「はい」


 父の名を出されると、余計に罪悪感が湧いてきてしまう。月乃がうつむくと、ふわりと肩に何かがかかる。フリッツの纏っていた闇色のナイトガウンだった。


「今夜は帰りなさい。を身に付けていれば、滅多なことは起こらない。下弦月になる頃に使者を寄越そう。それとも――」


 暗闇でもなお輝く白金の髪をかき上げて、男はフッと挑戦的に笑った。


「それとも、このまま朝まで寝台ベッドの中で詩でもそらんじてやろうか?」

「いいえ……」


「大丈夫です」、ガウンの襟を合わせてぎゅっと握る。こちらを見つめるフリッツの眼差しは、いつものように穏やかだった。


Gute Nachtおやすみ、Träume süß良い夢を


 捕らえた小鳥をかごから解き放つように。

 慈しむ声でささやいて、フリッツは重い玄関扉を押し開けた。


 再び月の下へと出された月乃は、きょろきょろと玄関ポーチから夜闇を見渡す。少しの間躊躇ちゅうちょするようにその場に留まっていたが、ある瞬間、意を決した様子でフリッツの方へ振り返った。やおら彼のシャツの胸元を掴んで引き寄せると、背高の上体がぐらりとかしぐ。そして。


 フリッツの唇に、羽毛のごときささやかな熱が、ちゅ、と触れた。


「フリッツさんが、良い夢を見られますように……」


 引っ張ってしまったシャツの乱れを整えて、月乃は恥ずかしそうに笑った。フリッツがぽかんと立ち尽くしていると、すぐに「おやすみなさい!」と黒髪を揺らして松吉のくるまが待つ門の外へ走って行ってしまう。


 それはまじないだ。

 心惑わす紅い月に、彼の夢見がおかされることのないように。


 しばらく去り方を眺めていたフリッツは、俥が角を曲がると静かに屋敷の中へ戻った。背後の扉が閉まった途端、ずるりとその場に崩れ、もたれかかる。


「満月より、彼女の方がよほど俺を狂わせる」



 紅い月が支配する夜は、まだ始まったばかり。

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