番外編

番外編一、君だけの聖ワレンタイン

 こちらの短編は、バレンタインデー用の番外編としてTwitterに掲載したものです。

 特にヤマもオチもなく、月乃とフリッツがイチャイチャしているだけの小話です。時系列は最終話後、年が明けてからを想定しています。



 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



 時は二月。立春を過ぎ、この日は暦通り春の気配に満ちて暖かかった。

 学園の裏庭の奥の奥、誰にも知られずひっそりと置かれた長椅子ベンチ。今日もそこに、月乃とフリッツは並んで座っている。

 フリッツがこの学園にやって来た昨年の秋から変わらず続く昼休みの光景。ただひとつ異なる点は、天長節舞踏会を過ぎてからふたりの距離がぐっと縮まったということだ。ちょうど見頃を迎えた椿の植え込みの向こうで隣り合うふたりの後ろ姿は、ほとんど半身が触れ合う程近い。


「ミスタァ・イェーガー、質問をいいですか?」


 それまでフリッツの隣でじっと膝の上の本に目を落としていた月乃が、ふと顔を上げた。


「手短にしてくれ」


 対するフリッツは、紙巻煙草シガレットの煙を明後日の方向へ吐き出しながら答える。素っ気ない返事だが、これは彼の「だく」を意味する。いつも通りのわかりにくいやさしさに、月乃はくすりと笑みを漏らした。


「聖ワレンタイン・デイとは、どのような日ですか? 今読んでいる洋書に出てくるのですが」


 月乃が今読んでいるのは英国の小説。その中に出てきた“St.Valentine's day”という語を指し示すと、フリッツは横目でチラとだけ視界に入れる。


「それは英語講師としての俺に聞いているのか? ミス・揺川月乃」

「? ええ、そうですけど……」


 じっとこちらを覗き込まれて、月乃はたじろぎつつ頷いた。

 こういうふとした瞬間に、フリッツの非の打ち所のない美に圧倒される。時折優雅にしばたたくまつ毛などまるで繊細な水鳥の羽のようで、今も見るたびどぎまぎしてしまう。急に気恥ずかしくなって目を逸らすと、フリッツも向こうを向いて煙草を一口吸った。そのまますらすらと聖ワレンタイン・デイについて解説する。


「二月十四日、聖人の命日だ。元々は羅馬ローマ神話の女神、ユーノのための祝日だった」

「まあ。それならちょうど今週末ですね」


 今週はちょうど紀元節(※二月十一日、現在の建国記念日)もある。由来は全く異なるが、月乃は異国の祝日である聖ワレンタイン・デイにほんの少し親近感を抱いた。


「何か特別なお祝いをするんですか?」

「恋人や家族に日頃の感謝や愛情を伝える日……らしいな」

「らしい、とは?」

「俺の国ではあまり一般的な習慣ではない」


 彼の英国英語クイーンズ・イングリッシュがあまりに流ちょうなので忘れそうになるが、フリッツは獨国人である。


「この本の著者は英国の方です」

英国人あいつらは自分こそが世界の中心だと思っているフシがあるからな」


 何やらとげのある物言いで、地面に落とした煙草を踏み消した。かと思いきや、振り返った彼はにやりと意地の悪い笑みを浮かべている。


「それで? 俺個人には聞かないのか? バレンタインデーの意味を」

「……?」


 月乃が小首を傾げると、フリッツは本の上に置かれていた月乃の左手を取った。


「英国人の真似も、悪くはない」


 ぐっと腕を引かれて、膝の上の本が音を立てて地面に落ちる。そのまま手の甲に口付けされて、月乃は耳まで赤くなる。


「ふ、フリッツさん……ここは学園です。誰かに見られたら……」

「こんな裏庭の端に好き好んでやって来るのは俺と君くらいだろう」


 確かにこの半年で、秘密の逢瀬を誰かに見咎みとがめられたことはない。


「Ask me anything〈何でも聞いてくれたまえ〉」


 英国人の真似、だろうか。

 フリッツは月乃の手を握ったまま、片目を閉じて笑いかける。これは彼が何かよからぬことを考えている時の顔だ、と頭の隅で理解しつつ、月乃は彼の笑顔の引力にあらがえない。


「ぷ…… Please tell me about a St.Valentine's day〈聖ワレンタイン・デイについて教えてください〉」


 吊られるまま英語で返す。するとすぐさま、「Sureもちろん」というささやきと共に腕の中に閉じ込められた。

 途端に月乃の五感の全てが、彼に覆われてしまう。目の前には眩しく揺れる白金の髪。胸いっぱいに広がる煙草と麝香ムスクの香り。フリッツの整った鼻先が耳に触れて、その吐息の熱さに全身がびくりと戦慄わななく。


「愛しているよ、月乃。俺の女神」


 身体を抱く力強さとは裏腹に、その言葉は慈しむようにそっと。

 何の飾り気もない、生まれたままの感情。だからこそ真っ直ぐ心に響いた。あまりの殺し文句に月乃は「ひぇ……」という情けないうめきしか出てこない。

 彼女の全身がカチコチに固まったのを感じたのか、フリッツはフ、と耳元で笑った。


「続きは週末に、ふたりきりで」


 耳に触れるだけのキスが降って、すぐに苦しい程の抱擁の拘束は緩められる。


(まだ続きがあるの――!?)


 月乃は週末の聖ワレンタイン・デイ当日を思って目眩めまいがした。もしもこれ以上熱烈な愛を浴びせられたら、きっと自分の身体は液体のように溶け出してしまうに違いない。


 ああ、けれど。

 その時にはこちらも伝えよう。「私も愛しています」と、精一杯。

 数日先の未来を想って、月乃はきゅっと大きな背を抱きしめ返した。

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