最終話、私の夢

 わぁああ、と人々の歓声が聞こえた。

 天候は快晴、絶好の船出日和。白いウミネコがしきりに鳴き、青空に翼を広げて飛び違う。

 月乃は大型客船の欄干から身を乗り出して、波止場で手を振る友人達に別れの挨拶をしていた。


「お嬢様、お元気で」

「月乃ちゃん、幸せに」


 暁臣と千代が、遥か下方から船上に呼び掛ける。月乃は白い手巾ハンケチを目一杯振ってそれに応えた。

 不意に海から潮風が吹いて、月乃のバッスルドレスの裾を持ち上げた。同時に被っていた羽根帽子が頭から浮いて、あっ、と声をあげそうになる。すると後方から長い腕が伸びて、飛ばされかけた帽子をひょいと捕まえた。


(フリッツさん……)


 三つ揃えの背広スーツに身を包んだフリッツが、月乃の頭に帽子を被せ直して笑いかける。彼の左手には四角い革鞄が握られていた。


「間もなく出発だ。故郷を離れるのは淋しくないか?」


 淋しくないと言えば嘘になる。見知らぬ土地へ旅立つ不安もある。


(でも、あなたがいるなら……)


 月乃がそっとフリッツの右手を握ると、彼も月乃の手に指を絡めた。


「向こうへ着いたらまず、君をナイチンゲェルのむ森へ案内しよう」


 そうだ。彼の故郷へ着いたら、たくさんの詩や物語に登場するナイチンゲェルの声をこの耳で聞くのだ。そう考えたら、心は急に浮足立った。

 きっとこの旅は、素晴らしい発見と出会いの旅になるだろう。明日への希望は波間にきらきらと陽の光を投げかけていた。


「でも、父さんはちょっと賛成できないな〜〜」


 突然、懐かしい声がして振り返る。すると前方の甲板の上に、月乃の父親が腕組みして立っていた。

 いきなり現われて出発の感傷を台無しにするなんて、と月乃が少しムッとすると、父は真面目ぶった表情でペラペラと話し始める。


「大体さ、洋行ってそんなに簡単じゃないよ? ちょいと匣根はこねに行くのとは訳が違うよ? 鑑真なんて隣の国からやって来るのに五回も失敗したんだよ?」


 そこまでまくし立てると、身に付けた白く立派な船長服の襟をピンと立ててみせた。

 ああそうか。父は意地悪で言っているのではなく、異国へ旅立つ娘の身を心配してくれているのだ。


(それでも、私は彼と一緒にいたい。彼がこの先の人生で目にするものを、私も隣で見ていたいの)


「そっか。まあそこまで言うんならしょうがないか。可愛い子には旅をさせろって昔から言うしね」


 正直な気持ちを打ち明けると、ウンウンと納得して笑ってくれたのでホッとする。


 ありがとうお父様。

 そう言いかけたところでふと気付く。


(ちょっと待って、どうしてお父様がここにいるの――?)



「月乃ちゃん、月乃ちゃん。そろそろ午後の授業が始まってしまうわよ」

「……お父様!」


 肩を揺すられて、月乃はがばりと跳ね起きた。

 ここは寄宿舎の月乃の部屋。起こしてくれたのは千代で、月乃は机に突っ伏したまま寝てしまっていたのだ。

 窓辺からは冬の低い陽射しが差し込んで、なんとも心地良い昼寝日和だった。


「フフ、楽しい夢でも見ていたのかしら。珍しいわね、月乃ちゃんがうたた寝だなんて」


 上品に口元を隠して笑う千代は、相変わらず美しい。

 彼女は二週間程学園を休んだ後、これまで通り最上級生として復帰していた。


「昨日、新しいお話を思いついて夢中で書き留めていたら、寝るのが遅くなってしまって……」


 言いかけたところでハッとして手元を見ると、開きっぱなしの筆記帖ノートブックが机の上にあった。どうやらこれを枕にしてしまっていたらしい。


「あまり遅くまで起きていると、健康に良くなくってよ」

「そういう千代ちゃんも、最近遅くまで勉強をがんばっているじゃない」

「ええそうよ。だってあたし、決めたんだもの」


 月乃の指摘に千代は得意げにフフンと胸を張る。


「たくさん勉強して、卒業面そつぎょうづらを極めて、ゆくゆくはこの学園の教師になろうと思うの。どんな男にも負けない自立した淑女になる、それが今のあたしの夢よ。そうしてこの学園の女学生達も、いずれそうなるようにビシビシと鍛えるの」


 千代の声は明るく、生き生きとした表情は理想に燃えていた。


「それじゃあ、お裁縫の課題もがんばらないといけないわね」

「お裁縫が出来なくても職業婦人にはなれるわ!」


 千代は頬を膨らませたが、そのうち堪えきれず、ふたりは声を上げて笑い合った。

 千代は元から裁縫以外は成績優秀だったし、それに何より面倒見がいい。彼女は教師に向いていると月乃は思う。ただ手に入らない自由を嘆くのではなく、自らそれを手に入れるべく努力する。新たな目標を得て前に進もうとする友人を、月乃は心から誇りに思った。


「月乃ちゃんは、何か夢があるの?」

「私の夢……」


「お嫁さんかしら?」とからかわれて、真っ赤になって首を振る。


「物語をね、作っているの。いずれ挿絵を付けて絵本にできたらいいなって」

「へぇ、彼に差し上げるつもりなの?」


 うん、と頷くと、千代は何だか物言いたげな顔でジーッとこちらを見てくる。


「で、でも、完成したら一番最初に見てもらうのは千代ちゃんよ」

「そうね、それがいいわ。だってあたしは月乃ちゃんの一番の“フアン”だもの」


 千代が今一度堂々と胸を張ったので、月乃も嬉しくなって微笑んだ。


(世界にたったひとつの絵本を作る、それが今の私の夢。けれどいつかは――)


 いつか、遠い未来に。

 彼の故郷の森に棲むナイチンゲェルの声を、この耳で聞いてみたいと思うのだ。


「さぁさ、張り切ってお勉強よ。月乃ちゃんも、次の時間は大好きな英語でしょう?」

「ええ」


 学園を騒がせていた怪異事件が解決して、フリッツは仮初めの英語講師から本来の悪魔殺しデモントーターに舞い戻った。今は帝国陸軍の対怪異特別顧問として迎えられているらしい。それとは別に片手間でいくつも事業を動かしているとかで、なんだか忙しそうだ。

 あの裏庭の長椅子ベンチに並んで座ることはもうできなくなってしまったけれど、彼と月乃には特別な絆が結ばれていた。


「君が学園を卒業したら、その時は――」


 そう言われてとびきり大きな宝石の付いた指輪を贈られたのは、まだ千代にも秘密だ。指輪は大切に鎖に通して、今も着物の内側で身に付けている。


 だから大丈夫。

 会える時間は減ってしまったけれど、彼を想って過ごすひとりの時間も案外悪くないものだ。


「行きましょう、千代ちゃん」


 月乃と千代は御納戸袴を可憐に揺らして、学舎へと駆けてゆく。

 季節は間もなく十二月。降誕祭クリスマスの季節だ。まだ世間では一般的ではないけれど、薔薇学園では毎年、盛大な祝宴が開かれる。


降誕祭クリスマスまでには頑張って、絵本を一冊完成させよう。それが、私からフリッツさんへの贈り物プレゼントだわ)


 会えない時間もこんなにも胸が躍る。それこそが、月乃が手に入れた特別な贈り物。

 そんな月乃の元へ少し早いがやって来るのは、つい数分後の話。


「今日は皆さんに、新しい講師の先生を紹介します。彼は今後不定期に、学園で英語の特別授業を受け持ってくださいます。お名前は――」



〈魔月恋月〜をとめの恋は月下に咲く〜 終〉







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