熾火
3月
Epilogue.儀武一寸/いっそ消せたら楽なのに
空気が急に生温くなった日、久しぶりに純文学系の文芸誌を購入した。目的はもちろん、掲載されている坂下佐和の新人賞受賞作だった。
喫茶店に入り、コーヒーを注文し、ページを開く。
よく知った人間の書いた小説を読むのは緊張する。その人が、自分には見せていない内面を覗き見ているようで、いけないことをしているような気分になるのだ。
そして、その内容に、儀武一寸こと木村巧は胃の辺りの痛みを覚えた。
上京した女が作家志望の青年と出会い恋に落ちるが、その青年はやがて評価されないことや同世代の作家の活躍、自身の才能の限界のような、越えられない壁にぶつかる。そして、苛立ちや焦燥感を恋人である主人公にぶつけるようになる。当初は献身的に支えていた彼女だったが、友人からそれはDVだと言われ、自分の現在地に強い違和感を覚える。DVだとは少しも思っていなかったのだ。だが、言われ、気づいてしまってからは、メッキが剥がれるように青年の愚かしさや子供っぽさが目につくようになる。その転回の描写が見事で、純文学作品にも関わらず娯楽小説のようなカタルシスがある。
そしてふたりの恋は終わる。
これは、佐和の私小説だ。しかし私小説にしては読者が意識されている。それが評価された理由だろう。きっと彼女には、私小説以外の引き出しもある。
事件後、入院した巧の病床に佐和は駆けつけてくれた。打ち合わせがあったから、ついでだからと理由をつけていたが、身を案じてくれていることは痛いほどわかった。実家を仕切る兄と母とは徹底的に仲が悪く、半ば絶縁状態であり、頼れる人はほぼいなかった。
そして、彼女の左手の薬指に、指輪はなかった。
奇妙に思って訊いてみると、「伊達だよ」と佐和は応じた。実家のある街では、それでトラブルが防げることも多いのだという。続けて、「あなたと同じ」と言った。既婚者騙りという点では、確かに同じと言えるのかもしれない。欲求の根底にあるものがあまりにも異なるが。
きっと佐和との関係は続いていく。弱みを全部知られながら、佐和しかいないのだと見透かされながら、彼女の書く小説を読みながら、でも距離は近づくことなく、続いていく。身を案じる優しささえも、彼女にとっては復讐なのかもしれない。
雑誌を閉じる。いつの間にか、コーヒーは冷めていた。ひと息に飲み干し、二杯目を注文した。そして、時計を見た。待ち合わせの時間を既に一〇分ほど過ぎていた。
その時、軽やかにドアベルが鳴り、待ち人が現れた。
店内を見回す彼女に、巧は片手を挙げる。気づくと、微かに微笑んで頭を下げる。碧月夜空こと中村未知瑠とふたりで会うのは、事件後初めてだった。
「お薬を飲めば、やっと眠れるようになりました」と未知瑠は言った。「それと、自分にリラックスする時間がないことにも、やっと気づきました。自分では落ち着いてたり、休んでいるつもりでも、いつも神経が張り詰めている感じで……それが神経が張り詰めている状態なんだって、ようやくふと気づけたっていうか」
「通院は今も?」
「はい。幸い、よくお話を聞いてくださるお医者様に巡り会えたので。医者との相性という話もよく耳にしますから……」紅茶に口をつけてひと息つく。「木村さんは? お仕事辞められたと聞きましたけど」
「やっと次の就職先が決まったところです。前職は食品メーカーのマーケティング部門だったんですけど、今度はニッチな飲料メーカーです。勝手が違うので、慣れるには時間がかかりそうです」
「へえ……楽しそうですね」
「そうはいっても仕事ですよ」
「お怪我の方は?」
「痛みはもうほとんどないですね」巧は下腹部を撫でる。「傷跡も目立たなくなってきました。でも、不意に怖くなることはあります。雨の日の、他の人の傘とか、ペンとか、スマホとか。何かを持って近づいてくる人を見ると、身体が強張るんです」
「それは……怖いですね」
「中村さんが感じてらっしゃるだろうものに比べれば、大したことないですよ」
「……正直、こうしてふたりで会うこと自体、勇気が要りました」未知瑠は両手でカップを包む。「連想ゲームなんです。連想させる要素をなるべく避ければ、大丈夫なんです。繋がってしまうと、あの時の音とか、臭いとか、感触とかが一度に蘇ってくるんです。まるでもう一度襲われてるみたいにリアルに。でも、生活していくには少しずつ慣れていく必要もあるって、お医者様も仰ってて、だから木村さんは、チャレンジなんです。男性で、関係者で、小説ですから」
「辛いと思ったら、何も言わずに出ていかれて構いません」
「ありがとうございます。正直あまり、自信なくて……」そこで、目線を避けていた未知瑠は、テーブルの上にある文芸誌に気づいたようだった。「……純文学みたいなの、読まれるんですか?」
「昔の知人が書いたものが載っているんです」文芸誌を慌てて鞄の中に隠す。「これの話は、やめましょう」
「大丈夫です。どんなことでも、誰かと話せることが嬉しいんです」
「でも、僕とあなたの共通の話題は、事件か小説のことしかないですよ」
「古田勇さんは、社会と繋がるために私たちと会話しようとした。私はそれを拒否した。今私は、あなたと話すことで、社会と繋がろうとしている。あなたは、私を拒否しますか?」
「しません。絶対に」
「よかった」と応じて、未知瑠は鞄の中から取り出したものをテーブルの上に置いた。「なら、私はこれを使いません」
悪寒が走った。
ナイフだった。アウトドア用品ブランドの名前が刻印されている。野外で肉などを切るのに使うもので、古田勇の使った切り出し小刀より大振りだった。
「バッドエンド回避、というわけですか」巧はコーヒーに口をつける。味を感じなかった。「じゃあ、これでハッピーエンドですか」
「成長、してますか?」
「成長?」
「ええ。登場人物は結末までに成長していなければならないんです。成長していない人物は、退場していくんです」
「あまり実感はありません。ツイッターはやめましたし、ナクヨムのアカウントも削除しました。でも、書くことはまだやめられていません。たぶん、公募とかに少しずつ出すことになると思います」
「私は、古田勇さんのことが少し理解できた気がします」未知瑠はナイフの柄を指先で撫でる。「でもこの感覚、木村さんじゃないとわかってくれないだろうなあ。私の家族とかじゃ、全然意味不明だろうし」
「ご家族とは、話せていますか?」
「全然。バカ娘扱いですし。妹の婚約者の人は、私のことを気遣ってくれますけど……」
「小説は?」
「書いてません。たぶん、今の私が何を書いても、底の浅いメンヘラ女の自分語りにしかならないですし」
「もう、小説は、やめる?」
「……どうしてでしょうね。やめる気はしないんです」未知瑠は穏やかに笑う。「書いてて、よかったことや得したことより、嫌なことや損したことの方が多いはずなのに。たぶん私は、書き続けると思います。子供とかできたら違うのかもしれませんけど」
未知瑠はテーブルの瓶から砂糖を掬い、カップに流し入れる。そしてティースプーンで紅茶を撹拌し、カップの縁を叩く。その仕草に、巧は古田侑のことを思い出す。
「僕も、たぶんずっと書き続けるような気がします。羊が毛を刈り取られないと死んでしまうみたいに。……やっぱりこの話、やめにしませんか」
「どんな話を?」
「明るい話」
「たとえば?」
「愛とか、恋とか」
未知瑠はくすりと笑った。「なんですか、それ」
「明るいでしょう」
「じゃあ、明るい話」未知瑠は、初めて巧の目を真正面から見た。「木村さん、家族には私の彼氏ってことになってるんです。今日も彼氏に会うって言ってきました」
「……は?」
「まさか、逃げるなんて言いませんよね? 真面目で誠実で女性に優しい人ですもんね、木村さんは」
事件の日、巧は未知瑠を置いてあの三二二号室から逃げた。そして今、目の前には痩せ細った女がいた。佐和の手首を掴んだ時のことを思い出した。未知瑠の立ち居振る舞い、目線、仕草、言葉のすべてが、絡みつく糸になる。逃げられない。
そしていつまでも、誰にも読まれないし報われない小説を書き続けるのだ。
ナクヨムWeb小説コンテスト殺人事件 下村智恵理 @hisago_a
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