祈りの丘からは、町の全てが一望できた。

 漣と通った小学校の通学路に、昼休みに入り浸った中学校の屋上、真生と出会った高校に、漣を残してきた無人駅――。眠りにつき始めた町は、建物の輪郭が闇色に溶け合い、巨大な怪物のように見える。ぽつりぽつりとまばらに点いた輝きが、まだ人々の営みが潰えていない証として、意地っ張りな光を放っていた。

 薄く雪が積もった草原には、希海達の他には誰もいない。五月雨さみだれのように降り注ぐ星々が、宇宙の彼方で燃えている。長い時間をかけて地球まで届いた輝きに、乗せたい願いは決めていた。希海は、手を合わせて瞳を閉じた。

「神様、お願い……」

 ――残された皆と、力を合わせて生きていけますように。

 大切な人を失っても、流れ星に似た輝きを一つ一つ拾うように、希望を集めて生きていきたい。漣も、真生も、願いは同じだと信じていた。

 だから、隣から声が聞こえた時、希海は頭の中が真っ白になった。


「神様。世界の時間を、一年前に戻して下さい」


 瞼を開いた瞬間に、星空が視界いっぱいに拡がった。ざあっと強い風が吹き抜けて、丘を取り巻く森の梢をざわめかせる。驚きで声も出ない希海の隣で、切実な響きを帯びた少年の声が、願いごとを唱えていた。

「時間を、あの頃に戻して下さい。友達がいて、両親がいて……かけがえのない人達がいた頃に、僕達の時間を、戻して下さい」

 白い吐息が、沈黙とともに二人の間を流れていく。夜空を駆ける星々は、ここで滅びの願いをかけたという誰かが一人で流した涙みたいに、頭上を過っては消えていった。真生が、すうと息を吸い込んで、溜息を吐き出して、笑った。

「……なんて。叶うわけない、か」

「真生……」

「現実を見つめられなくて、そのくせ今は過去ばかりを見つめていて、何にも成長していない。そんな人間の願いなんか、聞いてもらえなくて当然だ」

 真生が、希海を見下ろした。星明りが照らし出した表情は、図書室で初めて言葉を交わした時から変わらない、寂しそうな微笑だった。

「ほら、希海。言った通りだっただろ? 僕は、弱いんだ」


     *


 冷えた風が、濡れた頬にぴりぴりと痛い。街の明かりが、先程よりも少なくなった。夜が更けていく丘でたった一人、希海は星空を見上げ続けた。

 足音が、下草と雪を踏みしめて近づいてくる。堂々たる足音がぴたりと隣に並んでも、希海は顔の向きを変えなかった。

「……だから止めたんだよ」

 低い声は、存外にばつが悪そうなものだった。「見てたの?」と希海が乾いた声で訊ねると、首を横に振った気配がある。

「真生はどうした?」

「先に帰ってもらった」

 希海は、緩い坂道に目を向けた。夜が生み出した怪物みたいな黒い町へと続く道を、真生は一人で下りていった。ここに残ろうとする希海を心配してくれたが、希海は今の自分の顔を、真生にこれ以上見せたくなかった。

「失恋を笑いに来たの?」

 鼻をすすった希海は、幼馴染をきっと見上げた。軽い調子で馬鹿にしてもらえたら、希海も存分に怒れて気が楽になる。

 なのに、漣は笑っていなかった。それどころか、「違うだろ」と静かに断定した。

「違う? 何が?」

「希海は、失恋して泣いたわけじゃない。俺の言った通りだったんだろ? お前達は、合わないって」

 止まっていたはずの涙が、また一筋零れた。怒りも恥ずかしさも湧かなかった。ただ、ほっとしていたのだ。今の希海の気持ちに寄り添ってくれる人間が、この滅びの願いで傷ついた世界に、たった一人でも居てくれたことに。

「漣。私だって真生みたいに、過去に戻りたいって考えたことはあるよ。でも、悔しいよ……」

 希海に〝希望〟を示した真生が、未来ではなく過去を望んだ。その事実が、希海にとっては失恋以上にショックだった。

「しょうがねぇなぁ、真生の奴は。お前もな」

 漣は眉を下げてさっぱりと笑うと、希海の頬にココアの缶を押し付けた。律儀に買い直してくれたらしい。手付かずの夜食を思い出した希海が、バッグを差し出して「一緒に食べる?」と訊ねると、漣は意外にもかぶりを振った。

「いや、後にするよ。先にやることがあるからな」

「後? それにやることって……漣、ここに何しに来たの?」

「迎えに来たに決まってんだろ。けど、俺も一つ祈りたいことができたんだ」

 漣は満天の星空を見上げると、何の前触れもなく、大声で叫んだ。

「聞いてるか、そこの神! 俺の願いを聞け!」

「ちょ、ちょっと! 漣っ?」

 目を丸くした希海に、漣は不敵に笑って見せて、天へと声を張り続けた。

「俺は、希海達と生きていく覚悟を決めてたさ! だけどな、気が変わったよ。誰にとっても文句なしのハッピーエンドの場所を、見つけたからな! ――俺達を、一年前のこの場所に、流星群の夜に戻せ!」

「そんな……漣……」

 漣まで、過去を願うなんて――身を固くした希海に、「早合点すんな」と漣は呆れ声で言った。

「俺は、真生みたいに『ただ時間を戻す』ことを望んでるわけじゃねえ。――止めるんだよ。俺に相談もなく勝手に思い詰めて、『世界なんて滅んじまえ』って神に願った馬鹿をな」

「それって……漣、まさか」

「ああ。希海も、もう気づいてるんだろ?」

 漣は、にっと笑った。

「救おうぜ、世界」

 とびきり明るい流れ星が光った時、漣が希海に手を差し出した。握り返した手が熱くて、心臓がとくんと跳ねる。閃光の軌跡に沿って青白い亀裂が拡がっていき、世界が真昼の明るさに照らし出されて――輝きが薄らいだ時、風の匂いが少し変わっていた。

 希海と漣は、思わず互いに目を瞠った。

 二人が着ている制服が、中学生時代のものに戻っている。

「じゃあ、ここは本当に……」

 一年前の世界――そう呟きかけて、希海は息を呑んだ。

 祈りの丘に、もう一人。空に最も近い場所で、祈りを捧げる少年の姿を見つけたのだ。見かけない制服姿で、ひどく暗い表情をしている。

「……もう嫌だ。僕のことなんかどうでもいい両親と話すのも、自分の考えを周りにわざわざ伝えるのも、全部……」

 やっぱり――そうだったのだ。

 空を見上げる真生の面立ちは、一年後の世界よりも、僅かだが幼い。希海は、静かに涙ぐんだ。何も成長していないなんて、そんなことはないのだ。後悔が生まれたから、真生は時間を巻き戻そうとした。

「どうせ、これからも一人なんだ。それなら、こんな世界なんて……」

「一人じゃねえぞ」

 漣が、前に進み出た。真生は驚愕の顔で、初対面の漣と希海を見つめている。

「未来のお前は、一人じゃない」

 希海も、真生の前に立った。「こんばんは」と挨拶して、無理やりに笑う。

「あなたも、星を見にきたんだね」

 三人で見上げた星空は、光の眩さが薄れている。代わりに、下界の街並みは明るかった。建物のあちこちで、橙の輝きが漏れている。ふと思いついた希海は、流れ星に手を合わせた。漣が、にたりと笑って訊いてきた。

「希海、何を願ったんだ?」

「皆で一緒に帰れますように」

「何だそれ」

「別にいいでしょ、すぐに叶っちゃうところが幸せで」

 やり取りを聞いていた真生が、何だか泣きそうな顔をした。今までに見たどんな顔よりも素直な表情に胸を打たれて、希海はもう二度と会えない滅びを願ってしまった未来の真生に、心の中で呼び掛ける。あなたの言った通りだったよ、と。

 世界がどんなに寂しい形に変わったとしても、パンドラの箱には〝希望〟が残っている。晴れやかな気持ちで、希海は言った。

「私は、希海。あなたの名前は?」


〈了〉

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パンドラの箱に星を集める 一初ゆずこ @yuzuko

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