真生

 一年前、希海達の町から、住人の大半が消えた。

 当時中学三年生だった希海は、頻繁に寝坊しては家族に起こされる日々を送っていた。この時期の町は流星群の話題で持ちきりで、希海も自宅の窓から星を眺めて、つい就寝時刻が遅くなった。

 そして、希海達の世界が大きく変わった、運命の日。

 希海を起こしたのは家族ではなく、隣家の窓から希海の部屋のベランダに飛び移り、家に乗り込んできた漣だった。

「希海、起きろ。……おばさんも親父さんも、誰もいない」

 目覚めた希海は、まず荒唐無稽な方法で部屋に侵入した幼馴染を罵倒した。いつもなら言葉の応酬が続くはずなのに、漣は言い返さなかった。恐ろしいほど真剣な目と向き合って、事態の深刻さを知った。スマートフォンの画面には友人から届いたメッセージが、切羽詰まった動揺を乗せて、流星群のように飛び交っていた。

 両親は、家から消えていた。漣の家も同様で、近所では逆に子供が消えて大人が残った家庭もあり、失踪の規則性は不明だった。災害時の避難所に指定された小学校へ足を運ぶと、ある者は再会を喜び合い、ある者は泣きじゃくり、ある者は混乱の怒号を張り上げて、意思のぶつかり合う声が体育館に木霊した。

 耳を塞いで俯く希海へ、漣が「希海、背筋を伸ばせ。俺を張っ倒す時みたいに。なめられる」と厳しく言った。背中に添えてくれた手の温もりを、何故だか今も鮮明に覚えている。

 その後、生き残った大人達による有識者会議で、希海や漣のように保護者を失った子供達は、金銭的な補助を受けられるようになった。変貌した世界で生き抜く基盤を固めながら、国を挙げての行方不明者の捜索は、一年経った今も続いている。

 けれど、希海達は知っている。世界から、人が消えた理由を。

 ――真生が、教えてくれたからだ。

 両親がいない家で過ごした希海が、漣とともに高校へ入学したばかりの頃。まだ一人暮らしに馴染めないでいた希海は、放課後に図書室へ寄った際に、心細さから涙ぐんだ。漣の言葉を思い出して自分を叱咤し、涙を堪えていた時だった。

 近くのテーブル席にいた男子生徒――倉科真生くらしなまおが、心配そうな顔で席を立ち、希海に声を掛けてくれたのは。数少ないクラスメイトの一人だった。

 しっとりと落ち着いた声は耳に優しく、強がっていた日々の緊張の糸がぷつりと切れたのが分かった。希海が泣き止むのを待ってから、真生は『噂を聞いたんだ』と囁いて、沈痛な面持ちで俯いた。

『流星群の夜に、誰かが祈りの丘で願ってしまったんだ。世界なんて滅んでしまえ。皆いなくなってしまえ、って』

『だから、人が消えたの? どうして、私達は残ったの?』

『宇藤さんは、パンドラの箱って知ってる?』

 希海が首を横に振ると、『ギリシャ神話に出てくるんだ』と真生は語った。

『ゼウスという神様が、地上で最初の女性であるパンドラに、世界の全ての悪が詰まった箱を渡すんだ。絶対に開けてはいけないよ、と言い聞かせて。けれどパンドラは好奇心を抑えられずに、箱を開けてしまうんだ。箱からは、悲しみ、怒り、憎しみ、恨み……数多の災いが飛び出した。けれど』

「けれど?」

「パンドラが慌てて蓋を閉めたから、箱の底には〝希望〟が残ったんだ」

 茜色に染まる図書室で、真生の前髪が紫色の影を作る。きっと自らも大切な人達を失って辛いだろうに、微笑んだ真生は、苦しそうに言ったのだった。

「世界は、滅びなかった。神様に消されなかった僕らは、宇藤さんの名前みたいに、きっと希望だ」

 この名前を与えてくれた両親の顔が、フラッシュバックした。また少しだけ泣いてしまった希海は、滅びの願いをかけられた世界で、初めての恋に落ちた。


     *


 祈りの丘は、町の最果てにある森を抜けて、なだらかな坂道を上がった先にある。真生が懐中電灯を用意していたが、星明りが希海達の道のりを照らしてくれた。

「ねえ、真生。覚えてる? 去年、パンドラの箱の話をしてくれたこと」

 木々の隙間から覗く夜空を、流れ星が泳いでいく。青白い光が現れては消えるまでの短い間、希海の斜め後ろを歩く真生は黙っていた。「覚えてるよ」と答えた声は、夜風に溶けそうなほど小さく聞こえた。歩き疲れたのだろうか。希海も息が上がってきたので、真生を励ますように話し続けた。

「あの時の私は、すごく弱くて、泣いてばかりだったよね」

「希海は、弱くなんかない。僕なんかより、ずっと強いよ」

 憂いのこもった声が返ってきて、希海は小さく笑った。真生は、いつも希海に優しい。

「希海。神様って、本当にいると思う?」

「突然どうしたの?」

「何となく、一度聞いてみたくて」

「私は、いないと思ってたよ。真生から、祈りの丘の噂話を聞いた時も」

 真生は、少し驚いたようだった。小さな息遣いが、背後から聞こえる。

「でも、今は『いる』と思ってる?」

「ん、ちょっとだけならね。寂しがり屋の神様なら、いるんじゃないかなぁって」

「寂しがり屋の、神様?」

「漣の受け売りなんだけどね」

 照れ臭くなった希海は、視線を大空に逃がした。吸い込んだ空気は、肺に痛いくらいに冷たかった。

「あの噂話を、漣に話した時に、言われたんだ。『神様も、願いをかけたそいつも、俺達と一緒にいたら、寂しがる暇もねえのにな』……って。漣らしいよね」

 願いをかけた人間と、願いを聞き届けた神様。双方の寂しさを蹴散らすように言った漣は、普段通りのあっけらかんとした顔をしていたから、希海は呆れつつも頼もしい気分になって笑ったものだ。

「……。うん。寂しかったんだ、きっと。認めたくなかっただけで」

 真生の声が、夜気に染み込んでいく。「え?」と訊き返した希海が振り返ると、真生は歩調を速めて、希海の隣に並んだ。前髪とマフラーが、表情を隠す。

「祈りの丘で、世界の破滅を願った人間は、両親との折り合いが良くなくて、心配してくれた友達にも、心を開けなかったらしいんだ」

「真生……?」

「変わり映えしない毎日が退屈で、窮屈で、そのくせ変化が恐ろしくて、明日には誰からも必要とされない、つまらない人間だという烙印を押されてしまいそうで怖くて、居場所を誰かに奪われる前に、居場所そのものを消してしまいたくなった……もし、その人間が滅びの願いをかける前に、漣と出会っていたら。世界は今、こんなにも寂しい形をしていなかったのかもしれないね」

 夜空と同じ濃紺に沈んだ真生の声が、不意に明るいものになった。

「漣の話をしてる時の希海って、何だかいきいきしてるよね」

「そ、そんなことないよ。何を言ってるの」

 希海が慌てて弁解すると、真生は穏やかな笑い声を立てた。釈然としない希海は、前を向いて歩き続けた。

「真生。神様が世界を寂しい形に変えたんだとしても、パンドラの箱の話みたいに、希望を残してくれたんじゃないかなって、軽くなった箱の中に、星みたいにきらきらしたものを集めていけるんじゃないかなって、今なら私も、思えるんだ……」

 神様は、誰かの寂しい願いを叶えて、地球から多くの人類を消し去った。後には繁栄の名残のような人間達が、明け方に見た夢の記憶のように、いつ消えてもおかしくない儚さで、それでもしぶとく生き残っているだけだった。

 つまり――希望は、残っている。

「私は、希海。ここで、皆で生きていくんだ」

「それが、希海の願いなんだね」

「そうだよ。真生は?」

「あ、希海。流れ星だ」

 真生が、オリオン座の辺りを指さした。虚をかれた希海は、一拍の間黙ってから「え、どこ?」と応じて、真生と一緒にはしゃぎながら歩いた。

 星を見るよりも大切なサインを、見逃しているような気はしていた。

 一年前とよく似た気持ちの空虚さは、心の箱に蓋をして、今は見ないことにした。

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