第9話 さようならは言わないで






私は駅員さんに揺り起こされて慌てて列車から降り、キャリーカートを引きずりながら地下鉄に乗り換えた。






地下鉄の列車は混んでいて、カートは邪魔になるし、早く降りたいなあと思いながら、スマホを手に取って、なんとなく漫画サイトを開く。


そこには、「オススメの漫画!」という広告で、「きみの名前を僕は知らない」というラブストーリーの漫画の表紙が映っていた。そこで私は大変な事を思い出す。




そうよ!名前!名前を確認していなかったじゃない!




私は、「とてもよく似た話だから、もう絶対にあれは良一君の話だ」と感じただけで、本当に確認を取ったわけじゃない!






私は駅のコインロッカーにカートを突っ込み、また実家のある駅までを、残り少ないICカードの残高を削りに削り、急行を使って走った。




なんてことなの。こんな大事な事に気付かなかったなんて!だってそうじゃない!もし違う子の話だったら、良一君を更に迷わせるだけになる!取り返しがつかなくなるかもしれないのよ!




早く着かないか着かないかと、焦れったい気持ちを押さえて、私は飛び去っていく窓の外の、前方向をじっと睨んでいた。






お寺の空気は澄んだままだったけど、雨が止み、爽やかな太陽の光が差す石段は、光を返しながらも両脇の木の影に隠されて、ひっそりと光る。




ここを一段一段昇るのを一日に二回もやるなんて思わなかった…足疲れた…でも、もう少し!


お寺の後ろにある墓地を目指して歩き、なんとなく寺務所の前を小走りで走り抜けて、私はお墓の中に踏み入った。




あれ…?これ、一つずつ確認するの…?そう思って私は力が抜けそうになる。




でも、こうしなきゃ進めないんだから!やるのよ!




自分を勇気づけて、私は一つ目のお墓を確認する。違う。次も、違う。これも…。






私は初めはこわごわと、そのうちだんだんお墓を見るのも慣れて、お供え物を観察もしていたけど、あとは「まだ見つからないの?」とくたびれていった。


三十列くらいあったお墓の、奥の方の列に入って歩いていると、あるお墓の前で私は立ち止まる。


「あった…?」


小さめの墓石には、「葛家之墓」と書いてあり、私は手を合わせてしばらく待ち、「お許しください」と心の中で唱えて、中に入ってお墓の中の人の名前の彫られた石を見る。




そこには、良一君の名前があった。「葛 良一」と彫られている。




蹲っていた私は、がっくりと項垂れながら立ち上がり、お墓の前でもう一度手を合わせて、東京に帰った。








地下鉄の駅を降りて、家に帰る道々、私はなぜか暗く、重苦しい気分だった。




良一君は、本当に死んでしまっているんだ。もう、帰って来ることはない。




それは、何をしても変わらない。




それが、自分がしようとしている事がどのくらい、なんの力になるのか、もしかしたらそれは虚しい事なんじゃないかと思いかけて、落ち込んでいた。








家の前で立ち止まり、私は悲しくなる気持ちをなんとか押し留めようと思ったけど、あんまり出来ないままでドアを開ける。


カートを玄関に置いて、靴を脱ぎ、私はダイニングに向かった。




良一君は窓の方を見て、雀がベランダで遊ぶように、留まる場所をあちこちと変えるのを見ているようだった。


ゆっくりと振り向いて、良一君は「おかえり」と言ってくれた。




私は「ただいま」と言おうとしたけど、ちょっと微笑む事しか出来なかった。




だって、もうお別れなんだもの。私は俯いてしまう。




「どうしたの?お姉ちゃん。悲しいの?」


私は良一君が心配してくれるのを聞きながら、お母さんの泣き顔や、お父さんの心配そうな顔、それから久雀和尚の細められた目を思い出して、顔を上げた。




「お母さん、見つかったよ」




私がそう言うと、良一君の目が驚きに見開かれかけた。でもそれはすぐにしぼんで、良一君は横を向く。


「…そんなはずないよ。見つけるのは難しいって、お姉ちゃん言ってたじゃん」


拗ねた顔で良一君は唇を尖らせ、ため息を吐く。




そうだよね、すぐに見つかるはずなんか無かった。




「ねえ、良一君…私、この部屋を選んでよかった」




そんな言葉が私の口から出る。良一君は訝し気に私を見つめて、「どうして?」と聞いた。




私は、ここまでしてきた事を思い出す。




「あのね、うちのお母さんの友達、良一君のお母さんだったの」




「え…そうな、の?」


良一君はどう驚いたらいいのか分からないまま、驚いているようだった。私は良一君のそばまで行って、床に座る。


「うちのお母さんがね、「友達の話だ」って言って、八年前に、十四歳で亡くなったお子さんがいたお母さんが、今でも悲しくてふさぎこんでるんだって、心配してたの…」


良一君の顔が輝きかけて、それから、ぬか喜びになるかもしれないという不安で、それは途中で止まった。




「それでね…私、今日…」




ここから先を言うのが辛い。どうしよう。言わない方がいいんじゃないかな。言ったらきっと、良一君は傷つくもの。




「今日…どうしたの…?」


良一君が少しだけ、膝を抱えた体で私の方に寄る。どうしよう。




「…良一君、ごめんなさい…」




私は、泣いちゃダメなのに泣いてしまった。良一君は慌てて膝を抱えた両手を解き、私の前でその手を行き場無く揺らす。




「どうしたの、お姉ちゃん?それで?」


良一君は、期待と不安でいうと、不安の方が大きそうな顔をしていた。


そうだよね、私、泣いちゃってるんだもん。




「良一君の、お墓を…見つけたの…」




ぴしっと空気が割れたような気がした。良一君はゆっくりと腰を下ろして、ぺたんと座り込む。




ああ、やっぱりダメだったんじゃないかな、こんなことしちゃ。




でも、ここまで口に出してしまったら、終わりまで話さなくちゃ。そうじゃなきゃ、ただ良一君を傷つけただけになっちゃう。私は俯きながら涙を拭った。




「それでね、良一君の苗字はすごくめずらしいし、多分、良一君のお母さんとうちのお母さんは、本当に友達なんだと思う」


良一君は黙ったままだった。黙ったまま、もう一度膝を抱えて、泣いていた。


「良一君のお母さんね…まだ良一君がいないのが悲しいんだって…だからね、良一君…」




私は必死に、その時言う言葉を考えた。




ダメ。迷ったままで言ったら、ダメなの!




自分の思いに急き立てられて苦しい胸を片手で押さえて、私は床をじっと睨みつける。




顔を上げた私は、どんな顔をしているか自分では分からなかったけど、良一君は私を見て泣いていた。





「お母さんは、きっと良一君のことを忘れない」





そう言った私は、自分の無力さを感じていた。




何よ。たったこれだけ?私が良一君のために言える言葉って、たったこれだけなの…?




悲しくて、悔しくて、良一君に申し訳なくて、次から次へと涙が溢れる。




私が両手で涙を拭っていると、良一君が私の頬を撫でたそうに、手を近付けてきた。




「良一君…」




「お姉ちゃん。僕、行っていい?」




「えっ…?」




服の袖で涙を拭い直して良一君を見ると、良一君は少し張り詰めて、真剣な眼差しをしていた。


それから良一君は床に正座をすると、前を向いて私を見つめる。




「僕、お母さんに会えるかは分からないけど、お母さんのところに行って、「僕もお母さんを忘れない」って言ってきたい。だから、行っていい?」




ああ、この子、本当に優しいんだ。胸が痛くなるほど。




私も良一君も、泣いていた。昼下がりの柔らかな光が、半開きのカーテンから差す部屋で。




雀のさえずりは、さっきまで遠かったのに、今は私たちを優しく慰める。





「ありがとう。お姉ちゃん。僕、お姉ちゃんのことも、ずっと忘れない」









さようならは言わないで、私たちは別れた。良一君が泣きながら笑っている姿は、陽の光に溶けるように、消えていった。




私はしばらくは、悲しいんだか嬉しいんだか分からない気持ちで泣いていた。




良一君は私を忘れないと言ってくれた。そのことが嬉しくて、良一君がお母さんのところに行けるのが嬉しくて。それから、やっぱり良一君は帰って来ることはないのが悲しくて。





良一君、私だって、ずっと忘れないよ。




そう言えば良かったかな…。









翌朝になって、お母さんから電話があった。


スマホの画面にめずらしく「お母さん」と出たから、何かあったのかとすぐに通話ボタンを押すと、お母さんはすごく興奮しているみたいだった。


「涼子!大変よ!大変なの!」


私もびっくりして、「どうしたのお母さん、落ち着いて」と何度か言い聞かせると、お母さんはやがて、電話の向こうで泣きながら話始める。


「あなたが帰ってきた時にした、私の友達の話、覚えてる…?」


ぐすぐすと鼻を詰まらせて、なんとか喋ろうとしているお母さんの声を聞いて、私は胸がずきんと痛んだ。


「う、うん…」


私は緊張して身構える。どうか悲しい話じゃありませんように。そう祈る。


「昨日ね、その友達の夢にお子さんが出てきて、自分を慰めてくれたんですって!それで、本当に助かったんだって言っていてねえ!…友達の元気な声が久しぶりに聞けて…もう、びっくりするやら嬉しいやらで…大変よ!」


お母さんは泣き笑いしながら終始興奮気味に話をしていた。私はもちろん良一君の事は知らない振りをしていたけど、すごく嬉しかった。




そっか。夢枕に立つって手があったのね。




ああ、良かった。




そう思って私はここ何日かで急にいろいろな事が過ぎていき、自分がその中を駆け抜けていたのを思い出す。






もし良一君を初めて見つけたあの時、すぐに回れ右をして翌日引っ越しなんかしてしまったら、良一君もお母さんも救われなかったかもしれない。




あの時話しかけてみて良かった。それから、この部屋を選んだのが私で。




どんなに恐ろしいことでも、逃げずに立ち向かえば、うまくいくことだってある。良一君は私に、それを教えてくれたのかもしれない。




それから、良一君の優しい顔、はしゃいだ笑顔、最後に見た、泣きながら笑っている顔を思い出す。





きっと、忘れないから。もし、また会えたら、あの時教えてくれてありがとうって言おう。





その時まで、私はそれを忘れずにいよう。それから、良一君が生きていたことを。









End.

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涼子の探し物 桐生甘太郎 @lesucre

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