第8話 チョコレート最中と有難いお話
私たちが振り向くと、そこには黒い絹の着物の下から白い絹の着物を少し覗かせて、肩からたすきのような布をぶら下げたお爺さんが立っていた。
そのお爺さんはわずかに残った白髪を宙に浮かせ、たっぷりの白髭を下ろして静かに佇んでおり、「いかにも和尚さんらしい和尚さん」、といった人だ。私は「きっとこの人が住職さんなんだな」と思った。
小柄に見えたけど、その人が静かに歩み寄ってくると私より少しだけ背は高く、ひょろひょろと細長い。明日にも死んでしまいそうな細さだ。でも、体の動きのきびきびとした様子や、しゃっきりと真っ直ぐ立った背筋からも、「もしかしたら拳法の使い手なんかでもおかしくはないなあ」と、私は変な事を考えていた。
「お客さんじゃないか。私に用かな?」
「は、そうです」
白い袴のお兄さんがそのお爺さんに礼をする。私も思わずそれにならって頭をちょっと下げた。
「そうかいそうかい。じゃあ奥へ通して差し上げなさい。儂もすぐ行くでな」
「承知しました」
お爺さんはすぐに寺務所の中へ引っ込んでいったが、私は「良かったですね。住職はお話を聞いて下さいます」と袴の人に言われ、寺の外廊下を回って、二つほど障子を抜けた奥の部屋へと通された。
「どうぞこれをお当て下さい。ここで少々お待ち願います」
「あ、はい。ありがとうございます…」
私は紺色の紋が描いてある、金色のふさの付いた座布団を受け取り、その上に座る。袴の人は一礼して、障子の前に立つと私に振り向き頭を下げて、それから障子を閉めた。
なんだか、お礼を言うのもぎこちなくなってしまうほど、清浄な空間だった。
白袴の人は礼儀正しく、寺の様子も、もちろん廊下はピカピカだし、畳にもケバ一つなく磨き上げられていて、壁に汚れも無いし、床の間や欄間にも、埃一つ無い。
うーん。なんかちょっと落ち着かないくらい綺麗…。
私は時計もパソコンも無い、静かな時が流れるだけの部屋で、部屋の真ん中にあるちゃぶ台を見つめていた。ちゃぶ台の足にある綺麗な細工を一生懸命観察して、なんとか暇をしのいだ。
「待たせたね、お嬢ちゃん」
不意にからりと障子が開けられ、さっきの「和尚さんらしい和尚さん」の住職さんが、後ろにさっきの白袴のお兄さんを引き連れて現れた。
白袴のお兄さんはおそらく小坊主さんという感じの人なんだろう。住職さんは、小坊主さんから私と同じく座布団を受け取り、ちゃぶ台を挟んで私の方を向いて座った。
ちゃぶ台の前に小坊主さんの持っていた小さな盆が置かれて、小坊主さんはまた一礼して、去って行った。
「お初にお目にかかります、儂はこの寺を預かっております、住職の久雀と申す者」
住職さんはそう言って軽く私に会釈をしたが、それは腰の根本から体を下げる形で、きちんとした作法のように見えた。私も慌てて礼をする。
「あ…初めまして、私は賀仁涼子です!」
「よろしくお願いしますでな。さ、どうぞおあがり。ここらで一番の和菓子屋さんから頂いたでな」
「あ、は、はい…いただきます」
住職の久雀さんはまず先に私にお菓子を勧めた。私はお盆の中の「チョコレート最中」を手に取って「頂きます」と言って包みを開け、小さく一口齧った。
すると久雀さんも少し遠慮がちに、でも、さほど悪いとも思っていないようにそれを手に取って、あっという間に包みを剥き、パクパクと食べ始める。私はちょっと驚いて、それを見つめてしまった。
「どうしたね?続きを食べないのかね?」
久雀さんは面白がるように、お菓子を食べて嬉しそうに笑った。なんだか、ちょっと意外だった。お寺の和尚さんがチョコレート最中を食べるのなんか、初めて見たから。
「ふふ、驚いておるな?そうじゃの、儂もこんなものは滅多に食べん。じゃから、客人は有難いんじゃて」
久雀さんはちらと奥の方を見てから内緒話のように声を低くし、私の心を覗くように私を一瞬見つめてから、からからと笑った。
「そうなんですね」
私は何を言えば良かったのか分からなかったからちょっと微笑むだけにしたけど、目の前の久雀さんはどうやら久しぶりのお菓子にうきうきとしてしまったみたい。
不思議。こんなに立派そうな人でも、やっぱりお菓子って好きなんだな。そう思ってちょっとだけ親近感が湧いた。
久雀さんはそれから味わいながらも何口かで静かに最中を食べ終えてしまう。それから、ちゃぶ台の上に置いてあったティッシュペーパーの箱からティッシュを取り出してちょっと折り畳み、口元をちょっと拭って更に小さく折ると、そばにあった小さな黒いゴミ箱へと捨てた。
私はそれを見ていて、自分の中にピーンと一種の緊張が生まれたのを感じた。
住職の久雀さんの動きや言葉には、私たち普通の人のような無駄でもたついたところが無いのに、無理をしているようにはとても見えない。それは、ただ一つの自分の道を通っているだけに見えた。
「見ているだけで、頭がひとりでに下がる」。そんな、よく聞くような言葉を私は今、実感している。
なんだか、別世界の人のような気もするけど、でも、この人は多分、私が今考えているように、憐れみ深くて、人の幸せを願い、自分の道を貫徹する人だ。
「さて、儂も先にたっぷり楽しませて頂いたでな、礼を言いますぞ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんの用件はなんじゃったかな?」
私に向かってそう言った住職さんは、とても優しい目をしていた。
この人なら、きっと話を聞いてくれる。大丈夫。きっと信じて、力になってくれるわ!私はそう思って口を開きかけた。
「もしかして、お前さんの近くに、あの世の者がおるかね?」
住職さんがそう言った時、私は一瞬背中がひやりとした。
え?私、何も言ってないよね?もしかしてあの白袴の人が言ったのかな?
私がびっくりして何も言えずに居ると、住職さんはうんうんと少し俯きがちに頷いた。
「うむ、うむ。お前さんの後ろに影が見える。おお、そんなに驚かなくともよい。儂もちいっとばかり修行はしたでな。そのくらいはわかるし、見えるんじゃよ」
…ねえ。“ちいっと”の修行で、幽霊って見えるの…?
っていうか!良一君、私についてきてたの!?
私はびっくりしすぎて少し体を硬直させた後、はっと気を取り直して後ろをこわごわ見たけど、やっぱりなんにも居ない。
「おお、今のお前さんには見えぬものじゃ。気にせん方がよい」
久雀さんは私を手招きして、話に引き戻した。私はちょっと恥ずかしくて、ぺこぺこと小さく頭を何回か下げる。
すると、久雀さんは急にふっと悲しそうな顔をし、すぐに一度瞼を閉じてから、薄目を開ける。
「…その子は迷うてお前さんの家におる。じゃから、今は影だけじゃ。…母親が恋しいのじゃろ、呼ぶ声が聴こえておるでな。よほどその思いが強いもので、お前さんにも見ることができたんじゃろ」
久雀さんの言う事は、現実と寸分違わなかった。私はもうすっかり、「この人は全部知ってる」と思って、驚くのをやめた。
「はい…そうです!…そうです!」
私は座布団の上から身を乗り出して畳に手を突き、勢い込んで話し出した。良一君とのこと、悲しい思いが胸から溢れて、止まらなくなる。
「私はどうしたらいいか分からなくなってしまいまして、気軽にお母さんを探してあげるなんて、軽はずみなことを言ってしまいまして…」
私は今更に自分の浅はかさが恥ずかしくなって、少し俯く。でもすぐに顔を上げた。
「一旦実家に戻り、考え直そうかと思って、こちらのお寺が近くの、両親の家へ帰りました…。すると、私の母の旧友の方がお子さんを亡くされて悲しんでいらっしゃると聞きまして、話を聞いたところ、その子に間違いなかったんです…!」
久雀さんはまるで前もって私の話を知っていて、それを吸い込むような、切ない微笑みを浮かべていた。
「それで、うちもお世話になっておりますこちらのお寺へ、その子が埋葬されていると聞きましたので、…こうして、ご相談にあがりました…!」
私は深々と頭を下げてからおそるおそる顔を上げ、必死の思いで久雀さんの目を見つめる。久雀さんは、にっこりと私に向かって微笑んだ。私はそれが、怖かった。
この人は全部事情を理解してくれたけど、もしかしたらそれを知った上で、「その子のことは諦めなさい」と、私を説き伏せにかかるかもしれない。そう思ってしまったからだ。
久雀さんは一瞬、顔の表情を引き締めて私を見つめた。私は息を呑む。
「案ずることはない。その子は迷うておるから、お前さんの家から離れられないだけじゃ。母親が待っていること、今も自分を忘れず暮らしていることを知れば、必ずや安堵し、浄土の道へと発つじゃろう」
久雀さんの声は、低いお経が地面が鳴らすような音に聴こえた。でも、私は拍子抜けした。
…そんなもので、本当に大丈夫なのかしら?
でも、目の前の久雀さんはもう安心したように微笑んで、少し長く息を吐く。
「…大丈夫、でしょうか…?それで…」
私は信じたかったけど、不安になってやっぱり聞き返してしまった。久雀さんは、私のその不安も織り込み済みというように、また何度か頷く。
「ちょうど盆が近いじゃろう。その子は苦労苦労の長い旅をして、ようやくお前さんの家までたどり着いたところなんじゃ。母親が自分を今も想っていると知れば、必ずやそこへ戻り、そして心おきなく安らかになる。お前さんはすぐに家に帰って、その話をしてやりなさい」
私は、久雀さんに重ね重ね何度も礼をして、小坊主さんに見送られ、寺を後にした。
電車に乗ってからも、お寺で久雀さんと話した事を思い返してみると、まるで夢のようだった。
考え直してみると当たり前のような気もするけど、ここまで来るのに大変だったなあなんて思って今までのことを振り返り、私は久しぶりに深く息を吸い、吐く。
がらがらの電車のボックス席を独り占めして、しばらくはスマホをいじる気にもなれず、まだあの澄み切った空気をまとっているように感じていた。
かたんかたんと、レールの上の電車が、私を優しく揺さぶる。
帰ったら、良一君にすぐに話をしなくちゃ。ああ、気持ちいい揺れだなあ。
良一君のお母さんも、うちのお母さんも、お父さんも、良一君も、みんな元気になるかなあ。明日、バイト無くて良かった…。ああ、眠い…。
私は、瞼の裏で曖昧に混ざり合う、いろんな事やいろんな人に取り囲まれ、揺られながら終点までたっぷりと眠った。
Continue.
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