電気の子

木本雅彦

第1話

ボルタの電堆について知っている人は多いと思う。小学校の教科書には載っていないかもしれないが、電気の図鑑を開けば最初のほうに必ず登場する。陽極陰極に二種類の金属と、電解液を使った単純な一次電池だ。これらの研究で、ボルタは電圧の単位にその名前を残すことになった。


同じ電池は柑橘類でも実現できる。果実の両端に二種類の金属を挿せば、電池の出来上がりだ。この電池は非常に重宝された。両極の金属の改良と同時に、長い時間をかけた品種改良の結果、大小様々な柑橘類が電池として利用されるようになった。日本においては、この品種改良は温州みかんに対して行われ、携帯デバイスから小型の自動車まで、様々な機器がみかん電池を利用するようになった。


みかん農家は、電気社会の花形産業であった。


佐久原美香は俺の幼馴染であったが、それよりも地元で最大規模のみかん農家の娘として、そして美しい相貌をもってして有名だった。加えて、みかん農家の娘として当然なのか、あるいは類い稀なることなのか、彼女はみかんの栽培に長けていた。彼女が作るみかんは、とてもよい電池になった。みかんと電気の加護がある子だと言われていた。


しかし彼女がこのことに満足していたかどうかは分からない。


中学の頃、どういう流れだったか公園でふたりで話すことがあった。彼女は俺に小さなみかんを寄越した。不思議な色のみかんだった。赤から黄色、緑色が、グラディエーションとも違う複雑な組み合わせを成していて、何かの部品のようにすら思えた。


「みかんは疲れていると思うよ」


彼女は言った。


「みかんは挿し木で増えるから、クローンみたいなものなんだよね。兄弟のみかんが沢山いる。それがみんな電気を作れ電気を作れって言われて、それだけのために収穫されて。きっと疲れていると思う。みかんを助けてあげたい」


「そんなにみかんが好きなのか」


「うん、好き」


「……よく分からないや」


公園での会話だけが強烈に記憶に残っているけれど、その後はといえば思春期にありがちなパターンで会話をすることもなくなっていった。狭い地元のことなので、彼女が農業高校から農工大に合格するという異例の進路を辿ったことは耳に入った。俺はといえば、たいした特色もない普通の情報系の大学生になっていた。




日本のみかんが壊滅した。同時多発バイオテロだと言われた。


無数のドローンがみかん山を襲い、小さな枝を射出した。挿し木だ。突き刺さった枝は、寄生先の木を侵食し、今まさに収穫を待っていたみかんは枝から落ちた。電力という一点集中の品種改良が、遺伝子の多様性をなくし、あっさりとバイオ攻撃に負けたのだった。


みかん農家はせっせと落ちたみかんを回収したが、次のみかんが結実するかどうかは分からない。


テロの主謀者の名前は、佐久原美香。全国に指名手配された。


「で、なんでそんな危険人物が、俺に連絡とってきてんだ?」


「気にしない。それで、発注は受けれるの?」


「作ることはできる。その先は保証できない」


「それでいいわ」


俺は溜息をつきながら準備を整えて、地元へと向かった。




美香のみかん山は生き残っていた。むしろ生命力に溢れていた。傾きかけた日を浴びて、みかん山は強い存在感を示していた。


「ここのみかんはキメラだから。いくつもの品種をかけ合わせて耐性を持たせてる。ううん、そもそもここのみかんは、ただの電池じゃない。電気信号を操

作する様々な特性を持つ、論理素子よ。そして、繋がりあったみかんが論理回路を作っているの」


「この木が?」


「この山、全部」


俺はみかん山を見上げる。山の南側の斜面には、多数のみかんの木が植えられていた。これが全部接続されて、巨大な計算機になっているというのだ。だがそれは、俺の想定の範囲内だった。そうでなければ、俺に「計算機を起動するためのイニシャル・オーダー・プログラム」なんか発注するはずがない。


「何をするつもりなんだ。みかん山は確かにデカいけれど、計算能力からしたら微々たるものだ。玩具と変わらない」


「最初はね。でも日本中のみかんの木が繋がったら、どうなると思う?すごいことでしょ?素敵でしょ?」


「そうかな」


「それこそ山のようなみかんが作る巨大な計算機ネットワークよ。ドローンで打ち込んだのは、そのための遺伝子改変の種みたいなもの。日本中のすべてのみかんを、ただの電池から解放して、演算する回路にするの。みかんには、もっともっと、できることがある」


狂っている。こいつは元からこんな人間だっただろうか。確かめる方法はあるけれど、まだ俺のほうが自信を持てずにいた。


「日本中……いや仮に世界中のみかんが、接続された計算機になったとして、

それでどうするつもりなんだ?」


「知性」


「……知性」


「みかんによる、新しい知性が生まれるの。世界が変わるわ」


駄目だ。話が通じそうにない。だいたいうまくいくはずがないのだ。山ひとつ分だけの演算能力では、イニシャル・オーダーを実行することすらままならな

い。……ある可能性を除いては。俺は用意しておいたイニシャル・オーダーのプログラムを流し込んだ。


「準備できたぞ」


「動かして」


数秒後、プログラムは第1フェーズ完了の段階でスタックした。


「やってみたら、こんなものだよ。動くはずがないんだ。みかん山を用意した?それを全部論理回路にした?ところが実際は、最初のフェーズを回しただけで、プログラムは止まった。みかんを集めたところで、できるのはこの程度のことなんだ」


「それで?そんなこと、最初から分かっていたじゃない」


ああ……狂っている。彼女は最初から、狂っていたんだ。あの時、公園で話をした時、あるいはそれよりはるかに前から。


俺は観念した。諦念と言ってもいいかもしれない。


ポケットから小さなみかんを出す。公園で貰ったみかん。不思議な色彩を持つ彼女のみかんは、腐ることもなくその形を保っている。俺は近くの枝を慎重に選んで見定め、みかんを突き刺した。


その瞬間、第2フェーズの処理が始まった。


自己書き換え型プログラム。乏しい計算機資源でのプログラミングテクニックのひとつだ。


中学の時に渡された小さなみかんは、論理素子として遺伝子改造されたみかんのプロトタイプだった。みかん山の回路の一部を組み替えることで、自己書き換えしたプログラムが次のステップへと動き出した。小さなみかん山で動くプログラムは、自らを書き換えながら勢力を広げ、やがて日本中のみかんの論理回路に、あるいは世界中の柑橘類の回路へと広がっていくだろう。


それが何をもたらすのか、俺には分からない。


佐久原美香は中学の時点で、この展開を予測していた。俺が結局彼女に加担するであろうことも含めて。……狂っている。彼女は確実に狂っている。


俺は隣に立つ女性を見る。


恍惚としていた。彼女には、この先起こるであろうことが見通せているとでも言うのだろうか。本当に彼女の言う通りに、みかんの論理回路から知性が発生するのだろうか。電気とみかんの加護を受けた彼女には、その確信があるのだろうか。


みかん山が大きく揺れたような気がした。


未来に向かって電気信号が脈動する中で、俺だけが不安を抱えていた。

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