08 ちいさな魔女は森へ帰り、そして騎士は
エイラはひとり、与えられた部屋に戻っていた。
たぶんきっと、自分は森へ帰ることになるのだろう。問題は解決したし、もう薬をつくる話はなくなってしまったからだ。
早く森に帰りたいと願っていたはずなのに、どうしてこんなにもどかしい気持ちになるのだろうか。
エイラの胸がずしりと重たくなったとき、扉が開く音が聞こえた。サイードが来たのだろうと振り返ると、そこには意外な人物――、最初の日に会って以来、一度も顔を合わすこともなかった、恰幅のよい年配の医師が立っていた。
「魔女よ、薬をよこせ」
「……なんのお薬ですか?」
「ふざけるなっ、魔女の薬といえば、魔女の妙薬ではないかっ!」
拳を振り上げて、扉を叩いた。ドンと大きな音が耳を打ち、エイラの肩が跳ねる。
医師が大股で近づいてきた。エイラの顔ほどもある大きな手が迫ってきて、知らず後ずさる。
「宮廷医師が呼ばれた。なぜ、まだあの老いぼれが重用されるのだ。役に立たないからこそ、我々が呼ばれたのだ。あの若造も、女も、くちばかりが達者で年配の私を軽んじる。忌々しい。まったくもって忌々しい」
吐き捨てるように呪詛をつむぎながら、医師が一歩一歩、近づいてくる。
エイラは男の顔を見つめながら、後ずさりをつづける。
「薬だ。ローゼンベルガの王太子妃を救う薬を作りさえすれば、もう誰も儂を
専属医師として、ローゼンベルガへ出立するのも悪くない。オルニス程度の小国、こっちから捨ててやる。
かの大国で地位を与えられ、羨望のまなざしを向けられる存在となるのだ。
そんな大望を上擦った声で呟きつづける男は、やがてギラついた瞳でエイラを見据えた。
「魔女の妙薬。秘薬の素となるものを、儂によこせ」
「……しらない」
「知らぬと思ってとぼけても無駄なこと。魔女の涙、それこそが秘薬であろう」
魔女は人間の
ゆえに、ひとの感情を理解できない。
ひとの感情や機微を知らぬ魔女は、こころを揺らさない。
けっして涙を流さない。
流せない。
だからこそ、魔女の涙は希少であり、秘薬となるのだ。
医師が告げたそれに、エイラは泣きそうになりながら首を振った。
そんなものは、嘘だ。
エイラの師匠はやさしくて、笑って、怒って、哀しんでいた。
泣いてばかりいると、しあわせが逃げてしまうからと言って、いつだってやさしく微笑んでいた。
イスタークの魔女は「しあわせをもたらす者」だ。
ひとびとの幸福のために生きている。
笑顔はしあわせの証であり、魔女のちからになるものなのだと、師匠はいつも言っていた。
――泣いてはダメなの。
――眠りにつく師匠と約束をしたから。
だから、
「泣かない、のです」
「ならば、涙を流させるまでだっ」
唸り声をあげた医師が大きな身体で迫ってきて、エイラは逃げ出そうとした。しかし、医師の手がエイラの細い腕を掴んで捻りあげる。そのまま壁際まで引きずられ、おもむろに土壁に叩きつけられた。衝撃で、壁の土がパラパラと床に落ちる。
医師はエイラの後頭部を掴むと、ちいさな頭を壁に押しつけた。
砂利が頬に刺さる。息苦しさに喘ぐエイラの耳許に顔を近づけ、荒い呼気とともに男は言葉を吐く。
「泣け。泣き
「…………っ」
「強情な魔女め」
目を閉じて歯を食いしばる姿にくちを歪ませた医師は、エイラの髪を掴んで身体を起こさせると、つぎに床へ突き飛ばす。エイラの細い身体は、男の軽い一突きであっけなく転がった。亜麻色の髪がちぎれ、はらりと宙を舞うなか、エイラの身体を跨ぐように立って、片足をあげる。そしてゆっくりと下ろして、エイラの手を踏み、じわりじわりと力を加えていく。
耐えるようにくちびるを噛むエイラに嗜虐心を煽られたのか、医師は引き笑いのような声をあげ、笑いはじめた。
「ひひ、魔女が、あの魔女が儂の下でっ」
泣け、
小娘の分際でなんと生意気な。儂の下で、めそめそと泣くがいい。
謝れ、
仕えろ小娘、儂に奉仕せよ小娘がっ。
熱に浮かされたように喚き、エイラの身体を踏みつづける声を、ただひたすら黙って耐えた。
泣くのはダメだ。
泣いても意味がない。
――だってもう、師匠はいないから。
泣いているエイラの傍にいてくれるひとは、どこにもいないから。
だから、エイラは、ひとりきりで生きて、そして死んで、いつか悠久を生きる魔女の源になるのだ。
ぎゅっと目を閉じていた。
まぶたの裏に映る師匠のやさしい顔を思い出しているうちに、それは姿を変えていく。
アフダルの顔に、
イソラの顔に、
ウエッソの顔に、
そして――
「……サイードさま」
「魔女どの!!」
しゃがれた医師の声が消え、サイードの声に変わった。
いつのまにか聞き慣れてしまった優しい騎士の声に、エイラの胸が熱くなる。自分を見つめる灰青色の瞳を近くに確認して、安堵の息をつきながら、もういちど瞳を閉じた。
◆
招集されていた医師や薬師は町に戻り、ローゼンベルガの王太子夫妻の姿が王宮でも見られるようになった。
長く臥せっていたことから出たよからぬ噂を払拭すべく、国内の貴人らとも顔を合わせたのちに帰国。その後、ローゼンベルガ王室の名で王太子妃の懐妊が発表され、オルニスでの体調不良はそれであったのかと、誰もが納得をしていった。
ようやくなにもかもがおさまったころ、サイードに国王から報酬が与えられた。
アランによって告げられたそれに、サイードは盛大に顔をしかめる。
「いらないと言ったはずなんですが」
「なにも与えないわけにはいかんだろう。王の体面も考えてくれ」
報酬とは、叙勲だった。
今回の事態に寄与し、国の評判を
サイードの身分で、アランの筆頭として傍に控えている状態を快く思わない者も多いなか、爵位を得ることによって立場も確立できるはず。
サイードを幼いころから知っている国王としても、彼が妬みの対象となっている状態は、胸が痛いものであったのだろう。
「――それはありがたいことではありますが……」
「もうひとつに関しては、ただの提案というか、父上としては、よかれと思ってのことだろうな」
アランは苦笑する。
爵位を得たのだから、縁談も組みやすくなるだろう。上位貴族の令嬢とも、釣り合いが取れるようになるはずだ。
いくらでも紹介する、とそんなことを国王から告げられても、サイードは戸惑うだけだろうと、アランは考える。だから、告げた。
「父は父なりに、おまえのことを気にしているということだ。受ける受けないは自由だ。おまえは自由なんだ。ここに縛りつけるつもりはないし、好きにすればいい」
「……どういう意味ですか」
「魔女はフォグの森に帰ったらしい。それが、彼女の望みだった」
サイードはくちびるを噛んだ。かまわずにアランは続ける。
「イスタークの魔女は、睡眠と覚醒を繰り返しながら、悠久の時を生きるのだとか。魔女は愛し子を育て、自身が不在のあいだを託すらしい」
あのちいさな娘は、いつ目覚めるともしれない師のために森を守り、祈りをささげる。
妖精が住む森のなか、ひとりきりで。
それは、なんて哀しい生き方なのだろう。
楽しい、嬉しい。
師が消えて、失っていた感情を思い出したのだとあどけない笑みを浮かべていた娘の声が、顔が、サイードのこころを支配するなか、アランはのんびりと声をあげた。
「ところで、さきごろ東のサルディン伯から打診があってな。今回の立役者であるフォグの森の魔女を、護衛する騎士を探しているらしいんだ。おまえも知ってのとおり、あちらはかなりの辺境地だ。任に就いてくれそうな騎士に、心当たりはあるか?」
にやりと、じつに楽しそうな顔つきをしたアランが問い、サイードはゆっくりとくちを開いた。
◆
森の入口は
ある程度まで進んだところで、男は馬を降りた。
ここから先は、魔女の領域だといわれている。不用意に踏み入ると、迷いこんで出られない。
森の番人たる妖精は、純粋で強い願いを良しとするらしい。
ならば、いまの自分が持つ願いは、なによりも誰よりも強いものであるはずだ。
「おまえ、なにしてる」
声が降ってきた。
木から垂れ下がる蔓に、剣呑な目をしたちいさな妖精がぶらさがっている。
それは、初めて彼女の顔を見たとき、部屋のなかにいた妖精だと、なんの疑いもなく信じられた。
「アフダル。君の魔女に会いにきた」
「……おまえはきらいだ」
不遜に言い放った妖精は、蔓を伝いながら森の奥へ進んでいく。
ときおり、ちらりと背後を振り返り、こちらが付いてきているのを確認しながら、先へ先へと誘っていく。
やがて、道の先に光が見えた。
そして、古ぼけた小屋が見えはじめた。
嵐の夜には気づかなかったけれど、明るい陽射しの下で見るそれは、ちいさくて、ささやかで。いまにも壊れそうになりながらも、せいいっぱいの姿で懸命に建っている。
それは、あのちいさな魔女の姿、そのものだった。
誰かの手など、必要としていないのかもしれない。
けれど、差し伸べずにはいられないのだ。
入口まで誘うように草が割れて道をつくり、風が、光が、空気が、サイードの背中を押す。
閉じられた木の扉は、しかし留め具が外れてわずかに傾いている。
壊してしまわないように慎重に近づいて、そっと扉を叩いて声をかけた。
「魔女どの、いらっしゃるのだろう」
「……サ、サイードさま?」
待ちわびた声が耳をくすぐる。
ゆっくりと扉が開いて、草色のマントを羽織った魔女が顔を出す。
「君に会いにきた、エイラ」
騎士は、はじめて魔女の名を呼んだ。
ありったけの想いを乗せて、大切な名を呼んだ。
ショコラよりも甘い響きに頬を染め、あわてたようすの娘が転がりでて、そうしてついに、扉は壊れたのだった。
だから魔女は涙を流さない 彩瀬あいり @ayase24
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