「月光」第一楽章
澄田こころ(伊勢村朱音)
天才とバカは紙一重
高速でかけあがるアルペジオは、頂点ではじけ飛ぶ。繰り返す第一主題。何度も打ち鳴らす高音部分の和音を、全体重をかけスフォルツァンドで気持ちをのせ僕は弾いていた。
穴だらけの防音壁に囲まれたレッスン室に、充満するピアノの大音量。それを一掃するかのように、肉厚の掌が容赦なくかしわ手を打った。
「もー。そういうの勘弁してよ」
旋律を刻むことをゆるされなかった僕の指は、鍵盤に張り付いてとまる。やるせなさに腕をだらりと下ろし、目を細め横に座る担当教師を見た。
「なんでですか? 僕この曲で、中学の時コンクールで優勝してるんですけど」
しまったと思っても、もう遅かった。
先生は、ただでさえふくよかな頬をよりふくらませ、口をへの字に結び大きく鼻をならした。
「だから、中坊の演奏だっていってんの。そんな感情だだもれの演奏さっさと卒業してよね。世界の中心で俺様って叫んでんの? 表現するっていうのは、自分の感情ではなく、曲を表現するって事。わかる?」
ずり落ちた眼鏡のフレームを人差し指でおしあげ、沈黙をつらぬいた。
僕が弾いていたのは、ソナタ「月光」三楽章。ベートーベンは、ピアノソナタを数多く作曲した。その中で「悲愴」「熱情」とこの「月光」を合わせ、三大ピアノソナタと言われる。
一楽章は、ドラマや映画の深刻なシーンでよく使われるお馴染みの曲だ。続く二楽章は、リズミカルで軽快な変ニ長調の曲。
最後の三楽章では、それまでの曲調ががらりと変わる。ベートーベンの内省がここで解放され、うちに秘めた激情がこらえきれずあふれだす。
重苦しい空気をはらうように、深いため息をついた先生は、ハンカチを額にあて汗をぬぐう。
「
僕はぐうの音もでず、沈黙を守る。誰が、彼女にふられて絶不調なんて言えるか。
「そうだ、知ってる? 油絵科の三船君の公募に出す作品、切り取られたんだって。ひどいことするよね」
話を変えようとふられた話題は、超地雷だった。三回生の三船さんは、僕をふった彼女の新しい彼氏だと噂されている。
鉛を飲み込んだ胸をかかえ、適当に相槌を打つと、その日のレッスンは終了した。
*
次の日に予約したレッスン室のピアノは、高音がキラキラと甲高くなる耳障りな音を出した。
これじゃあ、練習にならない。いや、集中できないのはピアノのせいじゃない。
ちらりと壁にかけられた時計を見る。針は四時を指そうとしていた。もうすぐ、呼び出した彼女がくる。
女々しいのは重々承知している。でも、なぜ僕がふられたのか皆目わからないんだ。僕たちはうまくいっていると思っていた。それなのに、ある日突然別れを切り出された。まさに寝耳に水。
すがるのは男としてやってはいけないこと。それぐらいはわかっていた。だからすなおに別れを受け入れた。
でも、彼女に新しい男ができたなんて聞いたら、たしかめずにはいられない。僕の何がいけなかったのか。
トントントンと軽快なワルツのリズムでノックされたのでドアを開けると、大きな荷物と筒状のポスターケースを肩から下げ、黒くまっすぐな髪の彼女が立っていた。
そうだこの髪が大好きだった。ひと房すくいとり、つややかな感触を楽しむようにキスを数えられないくらいしたんだった。
「今日も絵かいてたのか?」
彼女は油絵科だ。
「うん。もうすぐ公募があるからね。その追い込み。で、話ってなに?」
その言葉を無視し中へ入るよう促すと、彼女は躊躇う事なくするりと入ってきた。
心臓がプレストの速度で動きまわり、ろっ骨がきしむ。その痛みに耐えられず、すとんとピアノの前に座った。そして壁際の椅子を彼女にすすめる。狭いレッスン室なので、膝と膝がぶつかりそうだ。
「話っていうか、最近どうしてるかなと思って」
この期に及んで、見苦しい言い訳が口をつく。聞きたいのはそんなことじゃない。
「なんか、煮詰まってる。一本何万もする絵の具つかって何かいてんだろう。すごく非生産的なことしてるなって」
うつむく彼女の髪がゆれた。この角度。裸の僕の上に乗っかって見下ろしていた角度と同じだ。彼女の体の動きにあわせ、髪もゆれていた。
「じゃあ、気分転換しないか? 連弾とか」
「連弾? 私もうピアノ弾けないよ」
彼女は中学までピアノを習っていた。コンクールに出るほどだったらしい。
「じゃあ、月光の一楽章を右手と左手のパートにわけて弾くとか」
「月光の一楽章かー。小学校の時弾いたな。それならいけるかな」
久しぶりにピアノを弾くのが懐かしいのか、楽しげな雰囲気が声から伝わる。リラックスした方が、僕も本題を切り出しやすい。
というか、連弾をすることで僕に惚れ直してくれないだろうか。連弾は、相手の呼吸に集中しタイミングを合わせる。それすなわち心をすり合わせ、体を重ねることに似ていると思う。
譜面台をあげ、楽譜をおく。椅子を並べ二人で鍵盤に向かう。彼女は右手のパートの第一主題だけを弾くようにした。有名なターンタターンの旋律部分だ。
この曲は右手だけで三連符と旋律を同時に弾き、なおかつ旋律を歌わなければならない。それはとても難しい。なので、僕が左手の和音と右手の三連符を弾く事にした。
深く息を吸い込み、吐く息と共にそっと冒頭部分の序奏を弾き始めた。打算的な思いはキラキラした音が消してくれる。
もちろん一楽章も暗譜している。だけど、楽譜を注視した。そうしないと、よけいな感情が音に滲んできそうだ。
水がたゆたうような三連符の波に、彼女の旋律が重なる。数年ぶりに弾くという音はたどたどしい。僕の音と微妙にずれる。そのずれを縮めようと彼女の奏でる音に、彼女の息遣いに全身全霊をかけ集中する。
寄り添おうと追いかけると、彼女も音も逃げていく。あきらめず、彼女の吐く息まで意識して、呼吸を重ねる。追いかける。その音を見失わないように。
中間部にさしかかった。旋律は消え、三連符が二オクターブの音域をのぼったり、おりたりする。そして、再び旋律が繰り返される。しかし、彼女はもうピアノから手を降ろしていた。
「気持ちいいね、音が重なるって。体全体を包みこまれたみたい。でも、もう私限界。奏水君の演奏聞かせて」
そういって、椅子を壁際にもどし座った。
僕の演奏をもっと聞きたいって事だよな? これはチャンスなんじゃないか? 別れた理由なんかもうどうでもいい。また彼女の心を僕の音で包み込むように愛せばいい。そうすれば、きっと彼女も答えてくれるに違いない。
この月光ソナタは、ベートーベンの思い人伯爵令嬢ジュリエッタに献呈された曲だ。僕もこの曲を彼女に捧げよう!
そんな事を考えていたら、突然肉厚のかしわ手の音が頭の中で響いた。
「世界の中心で俺様ってさけんでんの」
ふくよかな女教師のセリフまでリピートされた。
心の中を整理しきれずにいる僕は、とり合えず、ピアノに向かった。
先ほどのように、雑念をおいはらい楽譜を注視し音に集中する事だけ考え、弾き始めた。
ピアノから流れる音は僕が弾いているのに、どこかよそよそしい。もっと気持ちをこめて弾かなければと思うが、楽譜がそれをゆるさない。
僕がp(ピアノ)で弾きたい音を、ベートーベンはf(フォルテ)とかいている。僕が和音に溶け込むように弾きたい音は、スフォルツァンドで強調されている。
今まで弾いていた一楽章とは全く別物だ。でも、こういう弾き方もあるのか……。
僕の胸に、何物にもしばられない無限の広がりを持つ音の波がおしよせ、やさしく包みこんでくれる。至福の瞬間。その感動にひきずられ、指がうわずりそうになる。でも、感情をうちに閉じ込め、必死にうつくしい音だけをおいもとめる。すると音に厚みがましていく。
僕が月光を弾くのではなく、ベートーベンが僕にこの曲を奏でさせている。僕はただピアノの付属品にすぎない。そう思うと、音がとてもクリアにぼくの耳に届く。
消え入るようなピアニッシモの最後の和音を弾き、踏みこんでいたペダルと共に鍵盤から指をあげた。
「ずるいよ、そんなふうに弾くなんて」
脱力した背中に、後ろからそのセリフがつきささる。僕はその真意をしるべく振り返った。
彼女は目を閉じ泣いていた。しかし、見られている事に気付き、すばやく涙をぬぐい、ゆっくりとまばたきをして言った。
「私のまわりには、なんでこんなに才能ある男がいるんだろ。嫌になる……私本当はピアニストになりたかったの。でも逃げた。自分に限界感じて」
何時もの彼女の声より一オクターブ低い声が耳をゆさぶる。レッスン室の空調が切れたのか、よどんだ空気が不快になりつばをのみこんだ。
「奏水くん、私の事まだ好きなんでしょ? なんでそういうふうに弾かないの? 凡人みたいに弾いてよ。そんな何もかも見透かしたように弾かないで!」
僕の目の前に座っている人はだれだろう?
膝に乗せた手をブルブルとふるわせ、唇をかみしめている人は……。
混乱した頭に、コチコチと機械的な時計の音が、刻まれていく。
「アマデウスって映画見た事ある?」
すこし落ち着きを取り戻した声で彼女はいった。僕は、緊張していた筋肉がゆるみ、こくんとうなずいた。
アマデウス……天才モーツァルトに嫉妬するサリエリの話。サリエリは凡人だが、モーツアルトの圧倒的な才能を理解し、理解できてしまう自分に絶望する。
「私あれをみて、サリエリはモーツァルトを愛していたんだって思ったの。彼のすべてがほしくなって殺しちゃう程」
彼女はたしかに僕を見ているのに、その目に僕はうつっていない。そして唐突にポスターケースをひきよせ、中から丸められた紙を取り出し、差し出した。
大きさがA3程のその紙は油っぽい臭いがし、ふちがギザギザにやぶられていた。ゆっくりゆっくりと指先に力を入れ、丸まった絵をひらいてく。
そこには、たまご色の服を着た女が座っていた。ただ座っていた。内面からほとばしる激情を押し殺し、全力で座っていた。
板氷を飲みくだしたように、体の中心がピシピシと凍りついていく。絵の女と同じ顔をまっすぐに見据える。
「私が、絵を切り取った犯人なの」
目の前の女は、あっけらかんと言い放った。乾ききった口から、なぜ? と一言絞り出そうとしたが、音は出ず唇だけが震える。
「ほんと、天才ってずるい。私が隠してる感情ごと描いちゃうんだもん。モデルなんてやっぱり断ればよかった。そうやって絵に閉じ込められる前に……」
そう言って、彼女は椅子の背もたれに深く沈みこんだ。僕の口はようやく動き出す。
「三船さんと、もうやったのか?」
「バカじゃないの? ほんと天才ってバカばっかり。そんな奴ばっかり好きになってたら、身がもたない」
そう言い捨て、彼女は立ち上がりドアから消えるように出ていった。
残された僕は、再びピアノに向き合い弾き始めた。
了
「月光」第一楽章 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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