第2話 〈沼地の民〉の物語(2)


 その日からあと、わたしは、それまでより頻繁に、弟に会いにいくようになった。

 弟は陸の暮らしの楽しさを知らないから大人になりたいと思えなくて、まだ幼生のままなのだ。あの子は昔から少しぼんやりしていたから、もっとわたしが世話を焼いて、陸の楽しさを教えてやらなければいけなかったのだ。

 そう思って、肌を撫でる乾いた風の心地よさや二本の足で大地を駆ける喜びを、陸の食べ物の美味しさや村の暮らしの楽しさを、さんざん語って聞かせ続けたけれど、黙って聞いていた弟は、ある日、こう言った。


「素敵だね。でも、そこは、ぼくの場所じゃない気がするんだ」


「だって、あんたは陸の世界のことを、まだほんとうには何も知らないんじゃないの! どんなところか知りもしないのに、そこが自分の場所じゃないなんて、わからないでしょう?」


 弟は、薄青く透きとおる目でじっとわたしを見て、首を振った。


「村がどんなところだって、関係ないんだ。村が嫌なんじゃないから。きっといいところなんだよね。姉さんがそこで幸せそうだもの。でも、ぼくの場所じゃない」


「じゃあ、あんたの場所ってどこ?」


 答えは聞く前からわかっていた。思ったとおり、弟は答えた。


「空だよ。ぼくは空を飛びたい。空を飛んで、遠くへ行きたい。いろんなところへ」


 そう言って弟は、夢見るように空を見上げた。



 そのことを母さんに話すと、母さんはわたしに、あまり頻繁に幼生の沼に近づくものじゃないのよ、と言った。

 いくら弟でも、幼生たちとは少し距離を置きなさい。わたしたちも、あなたが幼生だったころ、そうしていたでしょう? みんな、そうしてる。そういうものなの。幼生たちは、まだ、この世のものではないのだから。あんまり心を寄せすぎていると、あなたまで、あちらの世界に引っ張られてしまう――


 母さんは、そう言って、わたしを抱きしめた。



 それでもわたしは、水辺に通い続けた。いつかは弟が、わたしの話に興味を持ってくれるんじゃないかと。

 兄さんや姉さんとふざけあって笑い転げたこと、友達と一緒に新しい遊びを考えたこと、にぎやかに歌って踊った収穫祭、野に咲く花の美しさ――陸の暮らしで自分が楽しいと思ったこと、綺麗だと思ったもの、愛しく思うもの、大切にしていること、そういうすべてのもののすばらしさを、弟にも知ってほしかった。

 弟は何でもうなずきながら聞いてくれたけど、わたしにはもう、弟の表情がわからなった。

 幼生のつるりとした顔は、表情があまり動かない。でも、幼生どうしの間では、ちゃんとお互いの気持ちが読み取れていたはずだった。それが、大人になったわたしには、いつのまにか読み取れなくなっていたのだ。

 目の前にいる弟が、遠くにいってしまったような気がした。

 水の中にいたころ、あんなに四六時中肌を触れ合わせていた弟に、わたしはもう、触れることさえできない。赤い血が流れているわたしたちの温かい肌は、冷たい水に棲む幼生たちにとっては熱すぎて、触れると火傷をしてしまうのだ。

 わたしと弟は、もう、ぜんぜん違う。


 けれど、硝子玉のような瞳をぼんやりと空にさまよわせ、ここでない場所への憧れを語る弟は、とてもきれいだった。


 幼生たちは、大人の目から見ると、そういえば、かなり奇妙な姿をしている。けれど、その姿には、短いその時期にしかない不思議な美しさがある。ほっそりとしなやかな体、白目のない大きな目の、水のような薄青さ――そして、青白くなめらかで透きとおるような肌。

 特に卵から孵ったばかりの小さな幼生は、本当に半分以上透きとおっていて、水が形をとったよう。

 幼生でも、少し育ってくると、だんだんと肌が透けなくなってゆくのだけれど……そういえば、弟は、逆に、前より透きとおって、孵りたてのころに戻っていくような気がする。


 そのことに気づいて、背筋が冷たくなった。

 よく見ると、たしかに、弟の肌は、前より透きとおってきている。

 それは、とても恐ろしいことの前兆だった。

 たまにあることだけれど、変体の時期を迎えても大人になれずに、幼生のまま水に還ってしまう子がいる。そういう子は、だんだん姿が透きとおって、最後には水に溶けて消えてしまうのだ。



 家に帰って母さんに泣きつくと、母さんは、悲しい顔をして、そうなるんじゃないかと思ってた、と言った。


「あの子のことは、諦めなさい。たまにあることよ。しかたのないことなの。孵った卵が全部育つわけじゃないのは、わかってるでしょう? だから、あまり幼生に心をかけすぎないようにと言ったのよ」


 それはわたしだって知っていた。

 母さんたちが水辺に産みつけた卵塊のなかで、孵化するのはごく一部。あとは乾いてしまったり、腐ってしまったり、溶けてしまったり、ほかの生き物に食べられてしまったり。運良く孵化した幼生だって、大半は、まだ手足も心も持たない半透明のぼうふらか何かのような姿のうちに、いつのまにか水に溶けたり、魚に食べられてしまう。わたしたちの卵塊だって、生き残ったのはふたりだけだ。

 だから、産んだ卵を失うたびに悲しんでなんかいられない。

 もちろん、母さんだって、ほんとうは悲しくないわけがないのだ。卵から孵った幼生のほとんどが物心つくまえに消えてしまうなかで、手足が生え、心が芽生えて言葉をしゃべるまでに育った子は、たいていはそのまま無事に大人になれるんだから、母さんも、もう大丈夫だろうと思って、あの子を家に迎える日を楽しみに待っていたはずだ。わたしの誕生を待ってくれていたのと同じように。

 それでも、諦めるしかないときもある――それはわかっていた。

 でも、一緒に育った弟だ。水の中にいたころは、毎日くっつきあって、何でも話して、何でも分かちあってきたのだ。



 それからわたしは、毎日のように、時間を見つけては幼生の沼に寄るようになった。誰がなんと言っても、やめる気はなかった。父さんも母さんも、黙って好きにさせてくれた。

 弟は、呼べばいつでも来てくれた。わたしは水面に張り出す倒木に腹ばって、とりとめのないことを話し、弟は水の中から顔だけだしてわたしを見つめ、話を聞いてくれた。

 けれど、たまに弟が口を開けば、語るのは、空や鳥への憧ればかり。

 弟は、もう、生まれてはこないだろう――。次の夏が近づくころには、さすがにわたしにもわかった。

 幼生の状態で過ごす年月に、多少の長い短いはあるけれど、もう変体できる大きさにまで育ってから、そんなに何年も幼生のまま過ごす子はいない。同じ年に孵った子の多くが大人になってから、だいたい二年くらいたっても陸に上がれなければ、その子はもう、祝誕祭の夜に上陸に失敗した子とおなじように、水に溶けてしまうのだ。たまにしかないことだけれど、たまにはあることだ。

 それでもわたしは、諦められず、沼に通い続けた。


 夏至が近づくと、わたしは、一日の大半を幼生の沼の岸辺で過ごすようになった。

 普通なら、病気でもないのに仕事もせずに一日ぶらぶらしているなんてありえないことだけれど、みんな理由を知っているから、誰も何も言わなかった。

 弟は、もう半分透きとおって、水の中にいるとほとんど姿が見えないくらいだった。

 それでも、岸辺で呼べば必ず来てくれたし、私がそこにいるあいだ、ずっとそばにいてくれた。



 そして夏至が過ぎ、また祝誕祭の日がやってきた。

 その日の朝、わたしは、もう姿もよく見えない弟に、無理やり笑顔を作って言った。


「今夜は祝誕祭よ。今年こそ陸に上ってきてね。わたし、産着を用意して待ってるから」


 弟は、小さく首を振った。


「姉さん、ごめんね。ぼくは陸には上がれない。でも、悲しまないで。ぼくは死ぬのではないから。だって、まだ生まれていないのだもの」


 わたしは言葉を失った。こんな姿の弟が、ほんとうに今夜陸に上がれるなんて自分でも信じていなかったけれど、それを認めたくなかった。

 弟は、静かに言った。


「ぼくは陸に上がるかわりに、鳥になる。鳥になって、広い空をどこまでも自由に飛び回る。そうして、空の上から、いつでも姉さんの幸せを祈るよ。じゃあね」


 そういうと、小さな水音がして、弟の姿は水の中に消えた。


「待って! 戻ってきて!」


 いくら呼んでも、弟はもう戻っては来なかった。


「岸で待ってるから! 約束よ、絶対よ!」


 わたしは沼に向かって大きな声で叫んだけれど、応えるものはいなかった。



 夕方には、みんなと一緒に祝誕祭に参加した。弟のための産着を持って。家族みんなが無駄だと言ったけど、わたしは口をぎゅっと結んで、産着を胸に抱え込んだ。

 もちろん、弟は来なかった。

 儀式が終わって村のみんなが家に帰っても、わたしは岸辺に立ち続けた。父さんや母さんがいくら言っても聞かなかった。みんなは、しかたなく、わたしを置いて家に帰った。夜が更けても、わたしはそこから動かず、岸に座りこんで弟を待ち続けた。


 いつのまにか眠ってしまったらしい。

 明け方の寒さで目を覚ました。

 あたりは露でしっとり濡れていて、わたしの背中には何か暖かな布が掛けられていて、寒さに掻き寄せたそれは、父さんの大きな上着だった。近くの岩の上に、油紙で包んだパンと、ミルクの壺が置いてあった。


 最初、自分がなんでそこにいるのか、わからなかった。

 それから、ぜんぶ思い出して、がばっと立ち上がり、朝靄に沈む沼に向かって弟の名を呼んだ。

 弟は、来なかった。

 それでも何度も呼んでいると、知らない幼生が近づいてきて、あの子はもういないよ、とだけ言って戻っていった。わたしの目から、涙が溢れた。泣いて、泣いて、目が溶けるほど泣きつづけるうち、だんだんと明るくなって、朝靄を透かして沼の面に朝陽が届いた。


 そのとき、チチチ、と、小さな鳴き声がして、すぐそばの葦の茂みから、小さな鳥が飛び立った。白い羽が、朝陽を浴びて淡い金色に輝いた。

 今まで見たことのない種類の鳥だった。


 ああ、これはあの子だ。

 わたしには、ひと目でわかった。

 あの子は、ほんとうに鳥になったのだ。いつも自分で言っていたとおりに。ずっと望んでいたとおりに。


 朝靄が晴れてゆく。

 小さな鳥は、わたしの頭の上の枝に止まって、もう一度、チチチと鳴くと、梢を飛び立った。

 白い翼を朝陽に輝かせ、沼の上を飛び回る。


 あの子は、死んだんじゃない。消えたんじゃない。鳥として、この世に生まれ出たんだ。ほんの少し遅刻したけれど、今日があの子の祝誕祭だ。


 わたしは急いでかがみこみ、手近の花を摘み集めた。夏の盛りのことで、岸辺には、白や黄色や紫の花が一面に咲き乱れていたから、両手はすぐに花でいっぱいになり、わたしは両手いっぱいの花を、夜明けの空に投げ上げた。色とりどりの花びらが、朝陽と一緒に降ってくる、降ってくる……。

 涙に濡れた顔で、わたしは笑った。空高く飛び去ってゆく白い鳥に大きく手を降って、何度も花を摘んでは空に花束を投げ上げた。笑いながら、朝陽が眩しくて、また涙がこぼれた。空を見上げて涙と花びらを降りこぼし、たったひとりで、弟の祝誕祭を寿いだ。




 それからわたしは、ずっとこの村で暮らし、働き、笑ってしゃべって、ときどき泣いて、恋もした。

 わたしはこの村を、村の暮らしを愛している。辛いこともあるけれど楽しいこともいっぱいある、ありふれた毎日のささやかな営みのすべてを愛している。たぶんこの村を一度も出ることなく一生を終えるのだろうけど、それでいい。どこか別のところに行きたいなんて、一度も思ったことはない。わたしの居場所はここにある。

 けれど、わたしの弟が――幼いころ、まるでもうひとりの自分のように互いの区別もなく過ごしてきた弟が、広い世界のどこかを自由に飛び回って、わたしが一生見ることのない遠い国ぐにを見ているのだと思うと、何か、心がうんと伸びをするような、体の中を涼しい風が吹き抜けるような、ひろびろとした気持ちになる。

 あの鳥を、あれから一度も見ないけど、今もどこかを元気に飛んでいると信じている。畑仕事の合間に、洗濯物を干す時に、ときどき、空を見上げる。小さな白い鳥が飛んでゆくのが見えないかと思って。

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〈沼地の民〉の物語 冬木洋子 @fuyukiyoko

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