〈沼地の民〉の物語

冬木洋子

第1話 〈沼地の民〉の物語(1)


 ここではないどこか、森と荒地の広がる大地には、それぞれに文化や身体的特徴が異なる幾つかの種族が住んでいる。

 そのうちのひとつ、湖沼地帯に住んで漁労と農耕をなりわいとする〈沼地の民〉は、ずんぐりした体と扁平な足、黄色がかった肌に金茶の目と緑の髪を持つ温和な種族。忍耐強く堅実で、協調を尊び、歌と踊りを愛し、日々の労働を朗らかに楽しむ、勤勉かつ明朗な人々である。




   *




 わたしの弟は、白い鳥になった。

 夏の朝、曙光に輝く沼地からひっそりと飛び立っていった小さな鳥は間違いなくあの子だと、わたしにだけは、わかった。




 よその人たちに〈沼地の民〉と呼ばれるわたしたちは、子どものうちは水の中に棲んでいる。

 水に棲む幼生たちは、おたまじゃくしのようなしっぽを持ち、肌はなめらかで青白く、まだ男女の違いもないほっそりとしなやかな体で、みんな裸で水の中を自由自在に泳ぎ回る。顔はつるりとして鼻も口も目立たないけど、目はとても大きくて、白目がなく、一面うす青く透き通って、晴れた朝の沼地の水のよう。

 その姿で何年過ごすかは人によって多少違うけれど、大人になる準備ができてくると、しっぽがだんだん短くなって、夏至のあとの最初の満月の夜、ひとの姿になって陸に上がる。

 その夜は、村中の人が水辺に集まり、新しい仲間の誕生を祝う〈祝誕祭〉が開かれる。わたしたちが本当に『生まれる』のは、卵から孵ったときではなく、陸に上がったときなのだ。

 わたしもそうして村のみんなに寿がれながら地上に生まれ出たけれど、弟には、その日は来なかった。



 一緒に水の中に棲んでいたころ、弟と私は、とても仲が良かった。同じころに生まれた幼生たちの群れの中で、いつもくっつきあって、追い越したり越されたりして泳ぎ回りながら、ふざけてぶつかりあったり、押しあったり、からみあったりと、ほとんどお互いの区別もないみたいに四六時中肌を触れ合わせ、同じものを見て、同じことをして、たぶん同じことを考えていた。

 けれど、弟よりほんの少し早く卵から孵ったわたしが大人になる日が近づいてきたころから、ときどき、弟が、わたしと違うほうを、違うものを見るようになった。

 わたしが水面から顔を出して、もうすぐ暮らすことになる地上の世界を憧れの目で眺めているとき、弟は、ぼんやりと空を見ていた。

 それか、水面に訪れる鳥たちを。


「あんたは陸の暮らしに興味ないの?」


 わたしが訊ねると、弟は、夢見るように応えた。


「ぼくは陸より空がいい」


 大人になったら陸に上がるのではなく空を飛びたいのだと、弟は言った。

 大人になったら、陸の人間ではなく、鳥になりたいと。


「ばかね、鳥になるのは鳥の雛よ。わたしたちは人間の幼生なんだから、大きくなったら人間の大人になるの」


 わたしはそう言って笑ったけど、弟が空に向ける、焦がれるような眼差しを見て、少し不安になった。

 わたしたちが幼生から大人になるのに必要なのは、年月だけじゃない。

 水の中から陸の暮らしを眺めて、そこに加わりたい、大人になりたいと思ったときから、からだが陸の生活に向けて少しずつ変わり始める――そういう仕組みになっている。

 でも、弟は、わたしと同じ卵塊から孵ったとはいえ、孵化が少しだけ遅かった。だから、弟には、まだ大人になるときが近づいてきていないんだろう――そう考えた。きっと、わたしより一年遅く祝誕祭を迎えるんだろうと。

 同じ日に産み付けられた卵が全部同じ日に孵るわけではないし、孵化が遅かった子はその後の成長も遅いことが多い。だから、同塊のきょうだいでも陸に上がる年が違うのは、よくあることだ。弟も、わたしより一回り、体が小さかった。

 仲良しの弟と一緒に陸に上がりたかったけれど、成長の速さは人によって違うんだからしかたがない。弟より一年早く陸に上ったら、弟の祝誕祭のときは、父さんや母さんと一緒に岸辺で弟を迎えてやれるんだ。一年早く陸の暮らしを覚えた先輩として、弟にいろんなことを教えてあげるんだ。もしかすると、弟が祝誕祭で着る産着を、わたしが縫ってあげられるかもしれない。

 そう思うと、その日もまた楽しみなような気がした。


 そうして迎えた祝誕祭の夜、地上に生まれ出たのはやっぱりわたしだけで、弟は、まだ青白い肌の幼生のまま、水の中にとどまっていた。




 それから次の夏至が近づくころまで、わたしは、新しい暮らしに慣れたり、仕事を覚えたり、陸の世界のいろんなことを学ぶのに忙しくて、まだ水の中にいる弟のことを、あまり気にかけることなく過ごした。何しろ最初は歩くこともおぼつかなかったのだもの、覚えることがいっぱいあって、いくら時間があっても足りないくらいだったし、弟は、どうせ来年、陸に生まれてくると思っていたし。

 何もかも珍しくて楽しいことも大変なことも山盛りの新しい暮らしのことで頭がいっぱいだったわたしには、ついこのあいだまで自分もいたはずの水の中のことは、まるで生まれる前に見た夢のように遠くおぼろに感じられていた。

 それでも最初のうちはたまに水辺に立ち寄って声をかけていたけれど、忙しさに紛れて、それもだんだん間遠になっていった。


 陸の暮らしは楽しかった。

 父さんや母さんや兄さん、姉さんたちとの、にぎやかな炉端の団らん。温かい食事と乾いた寝床。教わる仕事は何でも物珍しくて面白く、汗を流して働いて、働いた分だけ仕事が進むと誇らしく、喜びに胸が弾んで気分が良かった。晴れた日には畑を耕し、雨の日は村中の女たちが作業小屋に集まって、それぞれに忙しく手仕事をしながら、おしゃべりしたり笑ったり。同じ年頃の女の子たちと連れ立って水辺に繰り出し、歌いながら葦や灯心草を刈る一日などは特に楽しかったし、男の子たちも連れ立って森に茸や木の実を採りにゆく日は、さらに特別な楽しみだった。

 そんな楽しい日々を、来年は弟も一緒に過ごすんだと信じて疑わないまま一年近くたち、そろそろ次の夏至が近づいてきたころ、わたしは、ひさしぶりに弟の様子を見に、幼生たちの棲む沼に立ち寄った。


 岸辺に立って弟の名を呼ぶ。幼生たちはまだほんとうには生まれていないのだから、名前もつけられていないけれど、それでは不便なので、幼生たちのあいだで呼び合う幼名があるのだ。

 呼び声に応えて、弟が泳ぎ寄ってくる。

 その姿を見て、わたしは息を呑んだ。

 普通、その年に大人になる幼生は、夏至が近づくころには、もう体つきや顔つきがどことなく変わりはじめ、変体が近いとわかるようになるのに、弟は、まだ、去年と同じようなまるきりの幼生のままで、しっぽもぜんぜん短くなっていなかったのだ。夏至が近づいているのに、まだそんな姿では、今年の祝誕祭に間に合うはずがない。


 弟も、自分は今年はまだ大人にならないだろうと言った。その言葉はどう見ても正しいように見えたけど、わたしは信じたくなかった。


「でも、もしかしてってこともあるかもしれないじゃない」


 わたしはそう言って、祝誕祭の夜には自分で縫った産着を用意して岸で待っていると宣言した。

 弟は、ただ、困ったように肩をすくめるだけだった。



 家に戻ってそのことを家族に話すと、父さんも母さんも、ちっとも驚かず、そうだろうと思ってたと言った。あの子は、今年の夏至には間に合わないだろうと。そういうことも、よくあるものだと。


「でも、わたしと同じ年に孵化したのよ! 同じ年に孵化した子たちは、だいたいみんなわたしと一緒に祝誕祭を迎えたし、そうでなかった子も、もうしっぽが短くなりはじめてたわ!」


 わたしはいっしょうけんめい言い募ったけど、母さんたちは、来年を待ちましょうねと、なだめるように言うばかりだった。



 そうして祝誕祭の夜がやってきた。


 日が暮れると、わたしたちは手に手にろうそくを持ち、連れ立って岸辺に出かけた。

 幼生たちが陸に上がる場所は毎年決まっていて、そこが祝誕祭の会場になる。岸がなだらかな斜面になっていて、幼生たちが陸に這い上がるのにちょうどいい場所だ。

 木立の上に顔を出した大きな月が沼の面を斜めに照らすなか、村中の人がろうそくを手に岸辺に立ちならんで、厳かな招きの歌を歌う。

 そうすると、今年陸に上がる幼生たちが、つぎつぎと岸辺に集まってくる。

 風のない日だったから、沼の水は鏡のように凪いでいたけれど、幼生たちが泳ぎ寄ってくるにつれてさざなみが生まれ、水面に映る月の影が揺らめいた。

 それから、幼生たちが、ひとり、またひとりと、腹ばいで岸に這い上がってくる。今まで泳いだことしかないから手足の使い方がよくわからなくて、何度もずり落ちてしまう子もいる。その子を迎える家族たちは、歌いながらも、はらはらと見守っている。自分の新しい娘や息子、弟や妹が苦労しているのを見たら、つい手を貸したくなるけれど、このときばかりは絶対に手を出してはいけない決まりなのだ。そうでないと、その子は、一生、一人前の大人と認めてもらえなくなる。だから、できるのは、見守りながら励ましを込めて歌うことだけ。ごくたまに、結局陸に上がれず、そのまま大人になれない子もいるけれど、そのときは、そういう運命だったのだと諦めるしかない。


 なんとか陸に上がり終えると、幼生たちは、そこでそのまま蹲って、変体を待つ。手足の指の間の水かきがゆっくりと消え、しっぽがまだ少し残っていた子はしっぽも背中の皮膚に吸い込まれるみたいに消えてゆく。肌の下で骨や肉がぐりぐり動いて体の形が少しずつ変わり、男の子と女の子の違いもあらわれる。月の光を浴びて、幼生たちの青白い濡れた背中が、身じろぎのたびに光る。

 そうするうちに耳の下のえら穴が塞がり、何度か大きく口を開けて苦しげに息を吸い込むと肌の下に赤い血が巡りはじめて、青白かった肌がいったん淡い薔薇色を帯び、それからだんだん黄色っぽく色づきはじめ、同時に表面が固まって、柔らかくぬめりを帯びた幼生の肌から、大人の、温かく乾いた薄黄色の肌に変わる。

 地面に顔を伏せて蹲っているあいだに、目の色も水の色から実りの金色に変わり、眉毛やまつ毛も生え、顔の真ん中ではそれまでほとんど穴しかなかった鼻が隆起して、人間らしい顔つきになる。

 そのあいだ中、大人たちの励ましの歌声は続く。


 やがて、月が高くなるころ、まだぼんやりとして視線の定まらない裸の男の子や女の子が、急に重くなった体に戸惑いながら、おぼつかない足でゆらゆらと立ち上がる。生まれたてのまっさらな肌に、月の光がしらじらと降り注ぐ。

 待ち構えていたそれぞれの家族たちが駆け寄って、真新しい産着を肩に着せかけ、濡れた体を包み込む。そして、優しく声をかけながら、転ばないように体を支えて岸辺に用意した長卓に導き、椅子に座らせる。

 全部の子が長卓につきおえると、みんなが祝福の歌を歌うなか、新しい家族を迎えた親たちが進み出て、自分の子の唇に村の巣箱から採った蜂蜜を塗りつけ、村の竈で焼いたパンの小さな欠片をミルクに浸して口に含ませる。変体したばかりの新生たちは、本当はまだ形のある食べ物は食べられないから、食べさせる真似ごとをするだけだけれど、これは、村への仲間入りの儀式だ。

 儀式が終わると、新しい家族を迎えた一家は、まだうまく歩けない新生たちを両側から抱えるようにして、みんなの歌に送られ、それぞれの家に連れ帰る。


 宝物のように大切に新しい家族を連れ帰る人たちの背中を、わたしは黙って見送った。

 ――弟は、やっぱり間にあわなかった。

 他の子たちの変体を見守るあいだも、新生たちがパンを食べる間も、ずっと、遅れて泳ぎ寄ってくる弟の姿を探して、沼の方を見ていたのに。弟に着せかけるはずの産着を、大事に掲げ持っていたのに。



 次の日は、村の広場に長卓を並べて、にぎやかな祝宴が開かれる。

 新生を迎えた家は新しい家族をみんなにあらためてお披露目し、他のみんなは新しい仲間を歓迎して歌ったり踊ったりする。

 一晩ぐっすり眠った新生たちは、もう食べ物も食べられるようになっていて、色とりどりの晴れ着でめいっぱい着飾らされ、頭には花輪を乗せられ、宴の主役として一段高い席に並んで座らさせている。夜にはまだぼんやりしていた表情もすっかりいきいきとして、物珍しそうにきょろきょろしながら、喜びと晴れがましさと緊張で、まだ日焼けしていないなめらかな頬を火照らせている。

 そのなかに、いるはずだった、わたしの弟がいない……。

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