第7話 僕の家族

 その日、帰り支度をした僕はエドワードの姿を追いかけようとした。どのあたりに住んでいるのかが分かれば、方向が同じなら学校の行き帰りに一緒に行けるかもしれないからだ。でも、廊下にも校庭にも、もうエドワードの姿はなかった。


「俊太郎! 待ってくれ!」


 仕方なくそのまま帰ろうとしていると、背後から慌てたような忍の声がした。


「何? どうしたの?」

「いや……実際のところ、紗世ちゃんはどうなのかと思って」


 心配で仕方がない様子の忍に、僕は敢えて笑って見せた。


「大丈夫だよ。紗世は丈夫だし強いから。寝ているだけというのも退屈だと思って、今、僕の本を貸してあげているんだ。あいつ結構本を読むのが好きだからさ」

「そうか……うちにも本は沢山あるよ。明日にでも紗世ちゃんのために色々と見繕って持ってこようかな……」

「うん、あいつも喜ぶと思うよ」

「紗世ちゃんはどんな本が好きかな? やっぱり女の子らしいのが良いよね?」

「どうかな?……僕が今貸しているのは『十五少年』だよ」

「え? ジュール・ヴェルヌの? だってあれ戦ったり殺人とかも起こるだろう? 紗世ちゃんそういうの大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫だと思う。内容は簡単に話したけれど、あいつそれでもずっと読みたがっていたから」

「……へぇー、『フランダースの犬』とか『小公子』とか儚げなものを考えていたけれど、そうなんだ」


 忍は何度か目を瞬いた後、直ぐに気を取り直したように笑った。


「紗世ちゃんは芯が強そうだもんな。そうか……『十五少年』を読むんだ、そうなると選ぶ本も色々と考えてみなきゃな」


 やけに優しくなる忍の表情を見ていると、僕は少しだけ彼を揶揄からかいたくなった。


「……何だか楽しそうだよね、忍」


 途端に忍が少しだけ赤くなる。


「何を言ってるんだよ。お見舞いなんだからさ、選ぶのは当たり前だし、早く良くなってもらいたいだろう」

「ふぅん……」

「何だよ」

「何でもないよ」


 僕がニヤリとすると忍は視線を外し、そっぽを向いた。

 もう表情に出ていると言うのに、今更隠そうとするなんて、案外本人はまだ気づかれていないと思っていたりするのかな。忍はいい奴だから、紗世の兄としてはちょっと嬉しいけれどね。


「じゃあ、また明日」

「うん、また明日な」


 僕らは校門に着くとそれぞれの家の方向に向けて歩き出した。


 

 




 家に戻るとお母さんは母家にはいなかった。きっと紗世の所だろう。カバンを自分の部屋へ持っていった後、縁側から離れの方を覗いて見たけれど、ここからは戸が閉まっていて中が見えない。


 どうしたものかと思っていると、お手伝いのキヨさんが台所の奥からやってきた。キヨさんの背中には孝次郎が背負われている。


「坊ちゃん、お帰りなさい。甘酒を用意していますけれど、飲みなさるかね?」

「ただいま、キヨさん。甘酒、欲しいです!」


 直ぐに僕がいうと、キヨさんは笑顔になり準備を始めた。

 甘酒には勿論うちの麹が使われている。僕は喜んで台所の土間の上がりかまちに座った。足をぶらぶらさせていると、湯呑みに甘酒が入れられて僕の目の前に現れた。


「はい、どうぞ」

「わあ、たっぷりだ。キヨさん、ありがとう」

「坊ちゃんは今日頑張ったと聞きましたからね。ご褒美ですよ」


 白い液体が湯呑みの縁際まであって、思わず喉がごくりとなる。僕は湯呑みの淵に口をつけた。とろりとした白い液体が口に入ると、麹の柔らかな香りと甘みが口の中に広がる。こくりとひと口飲んでから口を離すとキヨさんが面白そうに僕を見ていた。


「坊ちゃんは、やっぱりひと口ひと口味わって飲みなさるねぇ」

「そりゃあそうさ、いつも飲めるわけじゃないから、ごくごく飲むには勿体ないよ」


 キヨさんは「ははは」と笑いながら背を向けて夕食の準備をし始めた。孝次郎はキヨさんの丸みを帯びた背中で、安心仕切ったようによく眠っている。


「……ねぇキヨさん、紗世の様子を見に行ってもいいと思う?」

「んーそうさねぇ、今は静かに寝かせてあげた方がいいでしょうねぇ」

「……お母さんは紗世の所にいるの?」

「奥様は何度か行ったり来たりなさっていたけれどね、嬢ちゃまが食べた物を吐いてしまったから、今は傍についていなさるよ」

「……」


 僕は思わず離れの方を見た。食べ物を吐くほど熱が高いのだろうか? 知らず知らず啓太の声が頭の中で蘇る。


『あの厄介な風邪じゃなければいいけどな……』


 僕は湯呑みの中の甘酒をごくごくと立て続けにふた口飲んだ。喉が渇いていたわけではないけれど、浮かんだ嫌な思いを奥の方に押し流したい気がしたんだ。


 そうしているとキヨさんが夕食の準備をするのに背を向けたまま僕に言った。


「今夜は奥様は嬢ちゃまの世話で離れにお泊まりになると言っておいでだから、坊ちゃんは、旦那様の言いつけをちゃんとお聞きになるんですよ」

「……じゃあ孝次郎はどうするの?」

「孝次郎坊ちゃんは私がこのまま連れて帰りますよ。流石に坊ちゃんに世話はできないでしょうからねぇ」


 僕はキヨさんの言葉を聞きながら、背負われている孝次郎を見た。今は寝ているけれど、夜中に孝次郎のおしめを変えたり、水を飲ませたりしなくちゃいけない。

 僕は一度寝てしまうと朝まで起きない事が多いから、世話をするには大変だけど、でもこれは僕がしなくてはいけないんじゃないかと思った。だって僕は孝次郎のお兄ちゃんだから。紗世が寝込んでお母さんがそっちにかかりきりなら、僕が孝次郎の面倒を見なくちゃいけないと思う。


「キヨさん、大丈夫だよ。僕がやる。孝次郎が起きたら泣くでしょう? その時におしめを変えれば良いんでしょう?」


 キヨさんが振り向いて優しく笑った。


「できなさるかね?」

「やってみなきゃわからないことって多いよ。学校の先生もよくそういうんだ。やる前から諦めてはいけないって。僕やってみる。だから孝次郎をおいていってよ」


 本当はキヨさんはそんなつもりはないはずだけど、僕は可愛い弟を取られてしまうような気がした。


「わかりましたよ。それじゃあ今日は置いていきましょう。後でおしめの変え方を教えましょうかね」

「お願いします」


 キヨさんは夕食を作り上げた後、おしめの取り替え方を教えてくれた。

 確かに初めはもたもたしてできなかったけれど、何度も練習するうちにコツを掴んだ僕は孝次郎が何かに気を取られているうちに取り替える事ができるようになった。


「坊ちゃん、上等、上等。うんうん、器用ですねぇ」


 キヨさんは上手くいったり、よくできた時にはよく上等だという。その言葉を聞いたら僕も嬉しくなった。


「それじゃあ今日は少し早いですけれど、夕食にしましょう。奥様と嬢ちゃまにも夕食を持っていかねばならないですからね」

「僕も手伝うよ」

「運ぶのだけお願いしますよ。離れの部屋の中に入るのはいけませんからねぇ」

「……わかった」


 キヨさんが用意した二人分の夕食を一膳ずつ盆にのせ、その膳に布を被せたものを一つずつ持ち、キヨさんと僕は離れに向かった。

 閉じている雨戸を叩いて声をかけると、しばらくして戸が引かれ、薄暗い中からお母さんの顔が見えた。


「お母さん!」


 思わず僕が声をかけるとお母さんは僕を見つけニッコリと笑った。


「俊ちゃん、手伝ってくれているのね。ありがとう」

「紗世は?」

「大丈夫よ。今は落ち着いているから……あぁ、夕食なのね。これはまた美味しそうだこと。キヨさん、本当にありがとう」

「いいえ、奥様。こちらはちゃんとお食べになって下さいね。食べ終えた頃にまた下げに伺いますよ」

「ありがとう。今日は孝次郎もお世話になるから、よろしくお願いします」


 その言葉にキヨさんが僕を見た。


「あの……お母さん、今日は僕が孝次郎のお世話をするよ。僕はお兄ちゃんだから、頑張ってみる」

「まぁ……大丈夫かしら?」

「坊ちゃんはおしめを変えるのが上手になりましたよ」


 それを聞いたお母さんが驚いていたけれど、少しだけ涙ぐんでいた。


「そうなの、俊ちゃんが頑張ってくれるのね。紗世も頑張っているから、お願いね、お兄ちゃん。頼りにしているわ」

「うん! 任せておいて!」


 僕の中で何かが高揚していくのを感じた。ちゃんとお母さんが紗世の看病をできるように、僕が頑張るんだ。孝次郎も僕が面倒を見るんだ。


 お父さんが帰ってきた時、僕が孝次郎の世話をするのと聞いて少しだけ心配そうに僕を見た。


「俊太郎、本当に大丈夫かい?」

「自分で決めたから、ちゃんとお世話をやってみます」


 僕はちゃんと弟の面倒を見ると決めたのだ。


 キヨさんはお父さんと僕と孝次郎にご飯を食べさせた後、心配そうにしながら帰っていった。


 その後、孝次郎のお風呂は流石に危ないからとお父さんが入れてくれたけれど、弟は僕の部屋で僕と一緒に寝ることになった。

 まだこいつはハイハイしかできないから、戸を閉めたら他の部屋にも行かないだろうし、大丈夫だ、僕はやれる。そうして僕ももぞもぞ動く孝次郎の隣で眠った。



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あの空 森嶋 あまみ @AmamiMorisima

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