バイバイ。ベアー。ララバイ。

飛鳥休暇

あとは泥のように眠るだけ

 彼女と別れて一週間。

 僕は失意のあまり大学にも行けずに、家に引きこもっていた。


 家の中の食料が枯れてようやく、錆びついた機械のような身体を起こすことにした。


 一週間、ほぼ動かずにいたベッドは僕の形に沈み、汗とほこりが混じった空気が生臭く辺りを漂っている。


 洗面台で軽く顔を洗ってから、小さなタオルで乱暴に水滴を拭きとる。

 不思議なもので、こんなことだけでほんの少し気分が軽くなった気がした。


 洗濯もせずに着続けている赤いパーカーにもそもそと袖を通すと、寝癖も直さないまま部屋を後にした。



 目は開いているのに未だに夢の中にいるようだった。

 自分が秋だということを忘れたような冷たい風がびゅーびゅーと吹いている。

 その冷たさが目を覚ましてくれることを期待していたが、脳は未だにぼやけている。

 それでも身体はいつもどおり、財布に入っているICカードを改札機に当てていた。


 ラッシュが過ぎた後の電車はまばらに座席が空いている。

 そのうちの一つに力なく座ると、隣のサラリーマンが怪訝な表情で僕を見てきた。


 過ぎ去っていく車窓の景色をぼんやりと眺める。

 時代は5Gへ、パーラーウエストランド、薄毛のお悩みは当院まで。

 色とりどり看板がその残像を残して消えていく。



 気が付けば僕は東急ハンズにいた。


「このままお持ち帰りになりますか?」


 レジの男が聞いてくるので、僕は口に出さずに頷いた。


 男から受け取ったのは、大きな大きなクマのぬいぐるみだった。


 成人男性の僕ですら、両手で抱いてもまだ余るほどの大きさのあるそのクマを、落とさないように必死に抱える。


 かつて彼女とここに来たときに「誰がこんなもの買うんだろう」とひとしきり笑い合ったぬいぐるみだった。


 でかくて持ちにくくて、抱えていると前も見づらい。何でこんなものを買ったのか、自分でもよく分からなかった。



 エスカレーターに乗ってみると、クマのどこかが擦れているのか「シューッ」という音が聞こえる。


 すれ違う人がみな、僕を見てはまた僕を見て、指をさしては笑みを零す。



 汗だくになって電車に乗って、クマと僕とで二人分。座席を確保し息をついた。


 クマの頭をぽんぽんと叩いていると、向かいに座っていた幼女の顔がぱぁっと花開くように笑顔になった。


「ママ! クマ!」


 小さな小さなその指を必死に伸ばしてクマを指す。


「やめなさい」と注意する母親と、微妙な変顔で応える僕。


 幼女はそんな僕を見て、キャハーイと嬉しそうに奇声を上げた。



 でかいクマを連れたまま、水族館へやってきた。


 チケット売り場のお姉さんが、僕を見るなりギョッとした表情をした。


 でかいクマを抱えたまま「大人一枚」と僕は告げた。



 館内でも僕は目立った。


 場所柄子供も多かったため、あちらこちらから指をさされた。


 マグロが凄い速さで円柱形の水槽を泳いでいる。


 こいつらは泳ぎを止めると死ぬんだと聞いた。


 別の水槽にはマンボウがいた。


 初めて彼女とここを訪れた時も思ったが、間近で見るとマンボウはキモイ。


 それでもずっと見ていられるような、不思議な魅力を持った魚だった。



 薄暗い館内のさらに奥。まるでアダルトコーナーかのようにカーテンで仕切られたその奥には、クジラの生殖器が飾られている。


 嫌がる僕の手を無理やりひっぱり、彼女は嬉しそうに僕らの身長より大きなそれらを指さしていた。


 ホルマリンか何かに漬けられて、なぜだかグリーンのライトが当てられてる。


 でかいクマを抱いたまま、改めて見たそれらはなんだか、エイリアンのように見えて鳥肌が立った。



 水族館を後にして、最寄りの駅のカラオケ店に入る。


 ここでも店員が怪訝な表情で僕とクマを見てきたが、そんなことは気にせず「DAMで」と答えた。


 二畳ほどしかなさそうな小さな小さな部屋に入りクマをソファーに座らせた。



 ここはドリンクバー制なので、店員が入ってくることもない。


 ソファーに腰掛けて一息つくと、隣の部屋から微かな歌声が聞こえて来る。


 若い男の声で、香水の匂いのせいでキミを思い出すみたいな歌を歌っていた。


 さして上手くもないその歌声に。


 さして上手くもない歌声のくせに。


 ああ、ちくしょう。



 気が付けばぼろぼろと涙を流していた。


 モニターの中ではアイドルとロックバンドが楽しそうに対談している。


「あぁぁぁぁぁ!! ちくしょう!!!」



 あてのない怒りと悲しみを隣に鎮座しているクマにぶつける。


 拳を打ち当て、


 何度も打ち当て、


 だけどもクマは揺れながら、真っ黒なその瞳にモニター画面を映すのみ。


「好きだったんだよ!! 好きだった!!」


 バンバンとクマをソファーに投げては掴む。


 叫びとも悲鳴とも鳴き声ともつかない声を上げ、何度も何度もクマに八つ当たりする。



 そのうち疲れ果てた僕は、クマに寄り掛かるようにして眠ってしまった。




 ――プルルル


 インターフォンのコール音が鳴り響き、僕はびくんと身体を跳ねさせ目を覚ました。


 驚くほどに垂れたよだれをぐいっとふき取ってから、インターフォンを手に取った。




 外に出ると辺りはすでに真っ暗になっていた。


 もはや抱える気力もなく、でかいクマのぬいぐるみを引きずりながらとぼとぼ歩く。


 線路沿い、フェンスの向こうはきらきら、遮断機の音がずっと鳴っている。


 寂れた裏路地、潰れないのが不思議なスナック、ピンクの看板、明朝体みんちょうたい



 うるさいくらいに響くアパートの階段を上がり、


 切れかけた蛍光灯の下が僕の部屋。


 ひきずって汚れまくったクマをキッチンの前に投げるように置いて、


 自分の身体もベッドに投げ捨てた。




【バイバイ。ベアー。ララバイ。――完】

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バイバイ。ベアー。ララバイ。 飛鳥休暇 @asuka-kyuka

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