第49話 辛味大根に少々の醬油を添えて






 父親だからだろうか。

 神様だからだろうか。

 呼ばれた気がしたと思ったら、葵と見知らぬ少女が瞳に映って。

 見知らぬ少女であるはずなのに、

 思考は停止し。

 身体が勝手に動き出す。

 分かったの、だろうか。

 魂が。心が。鈍い身体を動かしたのだろうか。

 ふらりふらりと二人に近づいて。

 眼球と喉と手足の指先だけが熱した石を押し当てられているみたいに異様に熱くて。


 どうしようもなく。

 言葉もなく。

 近づいて、抱きしめて。強く。


 回された片腕に、涙腺がぶっ壊れて、涙が大滝のように溢れるはずだったのに、一滴すら表に出て来なくて。逆流でもしているのか。身体中がやけに強い塩水に浸かっているみたいにひりひりし始めて。


 痛くて。


 お帰りなさいと。

 少女に。前世の息子である限樹に言われた時には。

 確実に。一瞬間。心臓が止まって。呼吸が止まって。血流が止まって。

 死んでいる場合ではないと、漸く動き出した身体によって自力復活して。

 したのに、涙は身体の中を逆流し続けているのか、表に出て来ないまま。

 ぎゅうぎゅうと強く抱きしめることしかできなかった。

 ただいま、と。

 言えなかった。

 口が役立たずだったのも、無論あるだろうがそれだけではなくて。

 多分、咄嗟に今じゃないと思ったからかもしれない。

 まだ。

 だって。


(葵は、抱きしめ返しては、くれていない)


 片側の背中は春の陽気のように、ぽかぽかと温かいのに。

 片側の背中は極寒の冬のように、ひゅうひゅうと冷たい。


(まだ俺は。孔冥みたいに。共に居ることを許してもらえない、のか)


 許してほしいと思う反面、けれど、葵が許すことは一生ないのかもしれないとも、思っている。

 言い方は悪いが、勝手に付き纏うしか、ないのでは、と。

 好かれてはいるし、一緒に居たいとは思っていてくれているだろうが。

 一生、ではない。

 諦めるしかないのだろう、な。

 一生一緒に居たい、と。

 葵から言葉を頂くのは。


(………けど、限樹もまさか、前世の記憶を持っているなんて。俺もいい父親ではなかったのに。きれいすっぱり忘れたいと思われていても、おかしくはなかっただろうに。いや。でも。葵に会いたかったんだろう、な。結局、俺も曖昧にしか伝えられなかった)


 自分と限樹だけでも、葵が生きていると思っていたかったから。

 他の皆には内緒だけれど葵は出て行ったんだとしか、言えなかった。

 もっと他にいいようがあっただろうに。

 もっともっともっと。

 自分がいっぱい、愛情を注がなければならなかったのに。

 生きてはいると信じてはいても、葵を失った喪失感で冷静に対処できない日もあって。

 元々、ほしくなかった子どもとどう接すればいいのか、正直、分からなくて。

 たんまりとあった国の仕事に、逃げた。


 葵だけを責められはしないのだ。

 自分だって、父親失格だった。

 のに。今。

 抱きしめたら、抱きしめ返してくれて。

 お帰りなさいと言ってくれて。

 こんなにも、求めてくれていたのに。

 自分の感情を優先させて、そっぽを向いて。背中ばかり見せて。


 片手で数えられるほどにあったのか。

 きちんと向かい合ったことなど。

 間近で笑顔を見たことはあったのか。

 いつも少し離れたところからではなかったか。

 身体は近くとも、魂も心も、少し離れたところで。

 言葉すら。届けるのも受け取るのも、少し離れたところで。

 今も。今ですら。

 感極まっているはずなのに。

 こんなにも強く抱きしめているのに。

 少しだけ距離が開いている。

 だめな父親だ。

 現在進行形で。

 ただいまの一言すら、即座に返してはやれない。







(やっぱり。会うべきじゃなかったのかな)


 葛藤が伝わる。とても強く。二人の。前世の両親の。

 浮かれていた気持ちが、笑って話せる希望が、期待が、段々としぼんで小さくなっていく。

 両親がまた縁を結べたからと言って、子どもと両親が同じようにできるのかと問われれば、そうでもなくまた別の話なのだろう。


(会うべきじゃ、なかった)


 嬉しいのに。悲しい。

 悩ませていることが、恐れさせていることが、とても。


(僕だけが、会いたかったんだ。僕だけ)


 笑おう。暑い夏のようにカラッと後腐れなく。寂しさも未練も微塵も感じさせないように。

 会えてよかったって。十分だって。これっきりで。

 ありがとうって。

 笑える。


「母上。父上」

「限樹」


 一呼吸置いてから紡ごうとしたのだが、まさかその間に名前を呼ばれるとは思わなかった限樹。何と問いかけた。不思議と落ち着いた声を出せた。


「限樹」

「うん」

「あの」

「うん」

「あのね」

「うん」

「限樹」

「うん」

「………お帰り、なさい」


 繋いでいた手も背中に回していた手も大きく揺れ動いた。

 弱まって強まった。

 掴む力が。押す力が。


「………母上も」

「うん」

「お帰りなさい」

「うん。ただいま。遅くなって。ごめん」

「うん」


 本当に。遅いよ。莫迦。

 いっぱいいっぱいいっぱい。

 恨み辛みをぶつけたかったのに。

 莫迦。

 ばかばかばか。


「莫迦母上。父上も。莫迦」

「ごめん。限樹。莫迦父上で。いっぱい。ごめんな」


 草玄が限樹と葵の背中に両腕を回して抱きしめ、限樹が葵と手を繋いだままもう片腕を草玄の背中に回して抱きしめる中。葵は片腕を限樹の背中に回して、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。












(2022.11.8)


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浮くは雫、沈むは大海~輪廻転生に逆らうは常なり 藤泉都理 @fujitori

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