第48話 恋しいと躍る唇
離さないで。
その切望が届いたのだろうか。
片手を離しても、もう片手は繋いだまま。
溶け合ったのだろうか、それとも、どちらかがどちらかに合わせようとしたのだろうか。
温度が同じになり。
境界線が分からなくなり。
この片手だけ。
おかしいな。
自分であるのに、自分ではなくて。
この人であるのに、この人ではなくて。
まるで別の生命体みたいだ。
とくとくと。
小さな鼓動を立てて、息衝いている。
離れたらこの生命体は消えてしまうんだろうな。
しょうもないことを考えては、ゆっくりと離れてしまった片手を見つめる。
自分の。この人の。
高いのだろうか。低いのだろうか。
どちらでも、温度はきっと違うはず。違うと認識できるほどに。
こわいと。
自分もこの人も思っている。
自分はこの人が離れてしまうこと、なのだろう。
では、この人は。
この人は自分の何に怖がっているのだろう。
棄てた前世の子どもが来世にまでしつこく記憶を持って会いに来る。
考えてみれば、怖い、か。
もう。忘れて、いたかもしれないのに。
閉じ込めていたかもしれないのに、無理やりこじ開けてしまったのかもしれない。
ごめん、と、自分の名前を呼ぶことしかできない人。
後は無言で。ゆっくりホテルまでの道のりを進む人。
自分に歩調を合わせて。ゆっくり、ゆっくりと。
どうして自分を棄てたのか。
渦巻く疑問が身体を支配するのに、どうしてか、今は、問いかける気にはなれなくて。
ただ無言で、ゆっくりと歩きたい。
いや、本当は。
母上と、小さな声で呼びたい。
限樹と、小さな声で呼ばれたい。
こしょこしょばなしをするように小さく、密やかに。
何かを話したいわけじゃなくて。
いや、なんてないことを話したいような気がするけど、話さなくても別によくて。
呼びたい。
呼んだら、顔を向けて、名前を呼んでほしい。
むずむずと唇を殊更意識して動かすが、息は吐き出せても、一文字目すら出て来ない。
呼ばないかな。
限樹は葵の片手から葵の顔へと視線を上げたが、葵の顔はホテルへとまっすぐ向けられたまま。
こっちを見ないかな。
見てくれたら、呼べるような気がする。
それか、名前を先に呼んでくれないかな。
そうしてくれたら、母上と呼べる気がする。けど。
無理、だろうな。
手を繋いだままでいてくれただけでも、きっと、すごい、頑張ってくれているんだろうし。
一気に要求したら、この人が、きっと、だから。
我慢、しよう、か。
今迄も我慢して来たけど。我慢して、こうして会えたんだから、名前を呼んでくれたんだから、手を繋いでくれたんだから。
でも。
ちらちらと葵の顔と繋いでいない手と、繋いでいる手へと視線を忙しなく動かす中。
そういえば、と、ふと思った。
そういえば、父上はどう思うのだろうか、と。
本当に、ちらっと、ほんの少しだけ、思っただけなのだが。
突然、本当に。
瞬間移動して来たのではと疑うくらいに突然、テレビでしか見たことがない前世の父親である草玄が出現したかと思えば、酔っぱらっているのかと疑ってしまうくらいにふらりふらりと身体を前後左右に動かしながら近づいて来て、ふつりと、糸が切れたマリオネットのように限樹と葵へと倒れ込んで来たので、受け止めると。
ぎゅぎゅうと、とても強く抱きしめられた一瞬間、呼吸ができずにいた。
息苦しさなのか、呼吸の仕方を忘れてしまったのか。
涙が一筋だけ頬を通り過ぎると、硬直が解けた身体は大きく息を吸って。片腕だけ草玄の背中に回して、強く前に押して。
懐かしい気持ちでいっぱいになって。
限樹は言った。
お帰りなさいと。
(2022.11.6)
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