第47話 夕月夜の皿眼







 怖い。

 怖い怖い。

 爪や皮膚、髪の毛、眼球、脂肪、筋肉、神経、血管、骨に至るまで。

 泡立ちながら、ぐずぐずに腐って、溶けて、消えていく。

 己の肉体が消滅していく。

 魂は、

 魂さえも、


 怖かったのだ。

 あの人に。あの人たちに死を認識されたら。

 死を受け入れてしまうと。

 どうしてか、思ってしまった。


 死が怖い。

 だから、降って湧いたような不死の力を受け入れた。

 死にたくなかったのだ。

 生きていたかった。

 の、か。


 他人の肉体を借りて生き延びて。

 生き延びさせてもらって。

 己の肉体を持つ事から。

 逃げて、逃げて、逃げて。

 生きている。

 死を遠ざけて。

 死を曖昧にして。

 生を曖昧にして。

 ずっと、ずっと生きて来た。

 生きて、楽しんで、生きていたかったから。


 けれど、

 けれども。

 血を遺したいと。遺さなければならないと、責務を担った時。

 あの子を産んだ時。

 悟ったのだ。

 感じたのだ。

 死を。

 生きとし生ける生物の責務。

 子孫を残す事。

 寿命に囚われずに、子孫を残せたら死ぬという、死んでも構わないという身体の仕組み。


 怖いのだ。

 この子の所為ではない。

 己の弱さの所為だ。

 己の子どもと接した時に死を突き付けてくる己の身体が。

 こわいのだ。

 そのくせに、人間の身体から離れることも。

 ひどくこわいのだ。




(情けない)


 上下から限樹の手を強く挟む己の右手と左手が、己の目にはひどく震えて見えた。

 けれど、現実はそうではないのだろう。

 限樹の手と己の手との間に割り込む空気を一切合切感じられないから。


(情けない)


 母親なら、子どもに会えて嬉しいと思いこそすれ、怖いと思う事などありやしないだろう。

 子どもが、精神的、肉体的虐待を与えているわけでもないのに。


(怖い、なんて)


「ごめん、ごめん」


 棄てた事も。紛れもない事実。

 息をするたびに謝ったところで、謝り足りない。

 これから償えばいい?

 再会を果たせたのは、その為だと。

 この子の傷ついた心を癒してやれと。


(私に)


 できる、のか。

 恐怖を未だ抱えている自分に。

 いやできないと。

 尻込みしてしまう。

 己の肉体を持つと決意したくせに。

 死を受け入れる為ではない。

 逃げるだけの生を続けたくなかっただけ。

 逃げて、立ち止まって、向き合って、逃げて、休んで。

 選択肢を広げながら生きて行く為に。

 窮屈な生き方をしたくなかったのだ。

 せっかく。

 そう、せっかく。

 不死の力を手に入れたのだ。

 これから絶対に。

 不老不死の力を手に入れるのだ。


 視界に入る己の手は震えている。無様にも。

 けれど現実で震えていないのは。

 母として。

 弱さを見せるべきではないから。




 葵はきゅっと口を結んで、目元に力を入れて、それ以外は力を抜いて、笑った。

 笑って、限樹の名を呼んだ。

 たった三文字。

 震えていた。

 幻聴ではなく、現実。


「げんき」

「………ん」

「げんき」

「………うん」




 震えなくなるまで。

 そう思ったわけじゃない。

 ただ今はもう、身体が使い物にならなかっただけだ。

 我が子の名を呼ぶ事しかできなかっただけだ。









(2022.2.9)


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