第46話 塩の楼閣
表向きは母の遺言通りに、倭国の次代の王を国民全員参加型の選挙制で決めてのち、葬式は『和国』『珂国』双方の国でそれぞれ行われた。
遺体は父が木を彫って作った人形を身代わりにした。
母の死んだ姿を誰にも見せたくないと懇願する父の想いを誰もが尊重して、受け入れてくれた。
二か国共に木の人形が火葬された刻。
ほのかに塩辛い匂いが国中に漂ったと云う。
父だけの涙か。母を慕う国民の涙か。
母は死んでないのに。
たった一枚の紙きれを残して居なくなっただけなのに。
僕と父を棄てただけなのに。
半身なんて言葉ではとても足りない。
己のすべてを失った父はそれでも、引きずって、僕を育て、王として国を立派に守り続けた。
棄てられたのに。
寝物語に、母との思い出を声を弾ませて聞かせてくれた。
何か理由があって俺たちの前から姿を消したけど、どっかで生きてんだよ、葵は。俺たちだけの秘密だぞ。
棄てられたのに。
父はどうして母を待ち続けているのだろう。
本当は。
僕も国もほっぽって、捜しに行きたいのではないだろうか。
過った疑問を口にした事は、ただの一度もない。
父を失いたくなかったから。
思い出が一つもない母でさえ居ないと、こんなにも胸がすーすーするのだ。
思い出のたくさんある父が居なくなった時の事を考えると、絶望しかなかった。
父上。ねえ、父上。
僕がいっぱい、いっぱい、父上を楽しませるから。
母上の代わりにいっぱい。いっぱい空いた穴に思い出を込めるから。
どうか。
どうか、お願い。
ごめんなさいの一言で。
僕を棄てないで。
車に乗った空と麗歌を見送って、ホテルへと続く道を歩き続けること、五分。
不意に立ち止まった限樹は、更級の名を呼んだ。
更級が振り返ると、葵と二人だけにして欲しいと言った。
更級は限樹の後ろに居る葵を見た。
顔が暗いのは夜中だから。などと言えない程に。青白い。
まるで闇夜に色をさらわれたように。
(空が居る時は必死に我慢していたのか、歩く内に気付いたのか。分からない、し)
怯えている彼女たちを置いては行きたくないのだが。
葵から限樹に視線を向け直すと、怯えだけではない。一筋の光を見出して。
更級はやわらかく微笑を浮かべると、葵の名を呼び、ホテルの出入り口で待っているとだけ告げて、ゆったりとした足取りで歩を進めた。
(まあ、試験は終わったし。結果発表は明後日だしね。ゆっくり)
どんどん遠ざかり更級の姿が指一本ほどの小ささになってから、限樹は振り返り、葵の名を呼ぼうとしたのだが、その前に葵が限樹の名を呼び、道路横に設置されている木のベンチに座ろうかと誘った。はい。限樹は小さく言って先に座ったのだが、葵は座らずに限樹の前で膝を曲げて、真っ直ぐに瞳を捉え、手を握って良いかと訊いた。
限樹は視線を二、三度うろつかせてから、葵に掌を見せた。
葵が限樹の掌にそっと手を乗せると、異常なまでに限樹の身体が大きく跳ねた。
自分にとって、母は恐怖の塊だった。
冷たく、暴力的な存在。
殴られた記憶など、蹴られた記憶など、物で叩かれた記憶などありやしないのに。
暴力をふるう人ではないと、父や周囲の人を見れば分かるのに。
どうしてこんなにも。
怯えてしまうのか。
テレビでこの人を見てからずっと。
この人が前世の自分の母親なのだと直感してからずっと。
こわい、
こわい、
こわい、
恐怖に蝕まれている。
なのに。
「離さないで!」
ありとあらゆる細胞が大きく蠢いて、叫び出す。
離さないで離さないで離さないで!
どうしてどうしてどうして。
「僕をどうして棄てたの!?」
「ごめ「その言葉はもう聴きたくない!」
衝動的に耳を塞ぎたかったのに。
やわく乗せられている手の所為で、できない。
退けてほしい。
いいや。そんな風に曖昧に触れないで。
もっと。
もっと、もっと、もっと強く。
握りしめて。
(僕は、できない、のに)
これ以上は、無理だ。
粉々に壊れてしまう。
だから、
「母上」
「ごめん。ごめん。ごめん、」
望んだとおりに、強く握られた手。
望まない、ごめんの言葉。
まるで海の中に漂っているように。
心地よさを感じると同時に。
塩辛さで全身がひりついていた。
(2021.9.22)
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