覆水とミルクの行方

ぷにばら

It's no use crying over spilt milk.(Does it really would be so?)


「ぶーーーん!!」

 無邪気なかけ声と共にコップが倒れ、牛乳が飛び散った。

 フローリングに白濁色の地図状の模様が形成されるが、当の本人は気にせず飛行機のおもちゃを手で飛ばしている。

「こら、ちゃんと片づけないと駄目だろう?」

 俺が叱るも、振り返ることのない背中がこちらの話など聞いていないことを雄弁に示している。模型を上から下へとフライトさせる遊びに夢中だ。俺は溜息をついて、台ふきを取り出す。


 こんな時は決まって、歳上の彼女の言葉を思い出す。

『零れたミルクを嘆いたって仕方がないのよ』

 いつだって何か失敗した後に悪びれもせずに言うのだが、一周回って許せてしまうのがずるいと思う。彼女は古い映画を好んで鑑賞しており、件の言い回しもそこから引用したに違いない。俺も一緒に見た映画の中に引用元があったかもしれないが、その答え合わせは叶わない。


 彼女は2年前交通事故に遭った。

 雨の日、スリップした大型貨物車の横転に巻き込まれて下敷きになった。

 曲がり角で、速度もついており、過失は全て運転手にあるとのことだった。


 それでも俺の生活は続いていく。

 布巾で零れた牛乳を拭いながら、俺は彼女の言葉を脳裏で思い返していた。

『零れたミルクを嘆いても仕方がない』は英語の諺で、日本語で言うところの「覆水盆に返らず」と同じ意味だ。大らかな彼女らしい言葉だなと改めて思う。

 とはいえ、彼女の言うことに全面的に同意するかというと、そんなことはない。例えば覆水盆に返らずという彼女の言動にだって、そう割り切りが良すぎるのもどうなんだと思わなくはなかった。諺の所以でもある太公望の逸話にもそんな冷たく突っぱねなくても話くらい訊けばいいのに、と感想を抱いたくらいだ。


 完全には戻らないかもしれないけど、努力はできるはずだ。

 覆った盆から水が零れても、また掬うことだってできる。俺はそう信じている。


 傍らに座り、相変わらず飛行機を暴走運転している彼女の頭を撫でる。頭の傷は完治していて痕は分からない。

 あの日から彼女は幼い子供のようになってしまった。

 彼女は、きっとどこかで迷子になってしまってるんだろう。いつもの無駄な行動力で、早く帰ってくればいいのにと思う。いや、もしかするとわき目も振らず進んだ結果、逆に遭難するなんてこともあり得る。なんとなく想像ができて、思わず笑ってしまう。

 とはいえ今の彼女も楽しそうだし、本人がよければこのまま一緒にいたいなと思う。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

覆水とミルクの行方 ぷにばら @Punibara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ