やってくる彼女

美木間

やってくる彼女

 隣りのクラスの双橋樹杏もろはしじゅあんは、強く華やかなグループから疎まれていた。彼女が目立たないようにすればするほど儚げなきれいさが目立って、それが華やぐグループのかんに障り、ますます疎まれるようになっていったのだ。


 中等部と高等部の校舎をつなぐ文化棟に図書室があって、その前の廊下掃除の当番の子たちの話し声が、開け放したドアから室内に流れてくる。

 私は貸出カウンターを拭きながら、あれこれ噂される彼女は多分魅力的なんだろうなと思っていた。自分たちをかわいく見せるのが日々の全てであるクラスメイトたちの心に、ささくれを作るくらいに。


 やがて彼女のうわさも聞かなくなり、私の中での彼女への関心も薄れていった。



 高等部に進み図書委員になった私は、クラスの喧騒を離れ、休み時間はたいてい図書室で委員の仕事と読書で過ごしていた。

 その日、午後は学内の劇場で演劇鑑賞会が行われることになっていて、図書室は返却ポストの取り扱いだけになっていた。

 当番だった私は、誰もいない室内で返却ポストに入っている本の返却手続きをして日誌をつけていた。


樟桂南くすのきけいなさん」


 いきなりフルネームで呼ばれて、私は、図書委員日誌を書く手を止めて顔を上げた。

 鼻先に、ひんやりとした甘い匂いが触れた。

 目の前に艶やかな前髪、そして、見開かれた瞳。

 ライチの甘い香り。

 香水は禁止だけれど、生まれつきの匂いなのかもしれないと思わせる自然さで香りが漂っている。古典の選択授業で習った漢詩に、そういえば、ライチの好きな美女がいたなと、ふと思った。


「誰」


 ぶしつけな近さの目の前の彼女に、私の答えは不愛想だった。


「私、双橋樹杏です、中等部の時、隣りのクラスだった」


 彼女はそう言うと、すっと離れた。


「ああ、え、と、図書室前の廊下、掃除当番の時来てたね」


 彼女は、にこっと笑って頷いた。

 

「図書委員になりたかったのだけれど、競争率高くて」


 彼女がなりたがっていたのを知っていて、およそ本とは縁遠い子たちが図書委員を独占していたのを思い出した。

 

「やっと、なれたの、図書委員。これで、樟さんと一緒に本が読める」

「どうして、私と一緒に本を読みたいの」

「樟さん、私の姉から、本のこと教えてもらってたよね」

 

 記憶を探ると、そういえば、と、思い当たった。

 中学受験の時、塾の他に、受験校の卒業生の学生に家庭教師をしてもらっていた。

 面接の練習や、その学校ならではのあれこれを習った。

 その人を、母は、モロハシさんと呼んでいた。

 私は、ただ、先生と呼んでいた。

 でも、その時に、妹がいるという話は聞かなかったように思う。

 

「その頃、私はからだが弱くて、空気のいい田舎の祖父母の家にいたの。姉は、大学が忙しくても毎週会いに来てくれてた。でも、家庭教師を始めてからは、だんだん来ることが少なくなっていった」


 私の気まずそうな顔には気づかないのか、彼女は、滔々とうとうと話し続ける。


「家庭教師をしている子が本好きで、ちょっと背伸びになるけどうちにある文学全集を貸してあげてると言ってた。樟さんのことだよね」


 私がうなづくと、彼女はうれしそうに話し続ける。


「私がこちらの家に戻ってきた時には、入れ替わるように、姉は、仕事で海外に行ってしまった。だから、姉とは話すことができずじまい。本棚の文学全集は、一冊抜けているの。ねえ、もしかしたら、樟さん、あなた持っていない」


 私は、あせって、家の本棚を思い浮かべる。

 無事受験を終えて、合格祝いだと先生が、私が気に入っていた全集の一冊を渡してくれたのだ。


「双橋さん、ごめん。その本、今度持ってくる。先生、あなたのお姉さんが、合格祝いにって譲ってくれたの、これは、本当。でも、全集が一冊抜けてるのって、気になるよね」


 彼女の顔が、また、目の前にあった。

 ライチの甘くエキゾチックな香りが、目にしみる。

 瞬きをすると、香りの粒がはじけて、私を惑わせる。


「いいの。姉が差し上げたものなのだから。樟さん、あなたのもとにあることがわかっていれば、それで、いいの」


 さん付けで名字で呼ばれるよそよそしさの合間に、ぐっとせまってくる不安定な距離感。

 戸惑いを取り去ろうと思い、私は彼女に提案する。


「桂南、でいいよ」


 彼女の顔に浮かんだ笑みが、表情の輪郭をはみ出して、押し寄せてくる。

 思わず、息を飲む。

 

「ありがとう。じゃあ、桂南、私のことは、樹杏って呼んでね」


 彼女は、それから、


「ライチの香り、私、するでしょ。香水じゃないの。姉がライチが大好きで、一緒に食べているうちに、自然と香るようになったの」


 と告げると、軽く手をふって、図書室を出ていった。

 すっと微かな音がして、ドアがレールをすべり、元にもどった。

 白いカーテンが、1テンポ遅れて、ドアの前で揺れた。

 


 それから、図書室で一人本を読んでいる私の左隣りが、彼女の定位置になった。

 同じクラスではないということがかえって気安さとなって、読書の合間に会話を交わすようになっていった。

 

 最初の贈りものは、姉から送られてきたもののお裾分けだと言って手渡された、スミレの花の砂糖漬けだった。小さな楕円形の缶のふたに繊細な筆致で描かれたスミレの花束の絵が、ずいぶん少女趣味に思われて、家庭教師時代の彼女の姉のイメージとはかけ離れているような気がした。もちろんそんなことは言わずに、礼を言って受け取った。

 クリスマスプレゼントは、金と銀のリボンが花のように結ばれた焼菓子だった。

 彼女の視線に促されるままリボンをほどき中をあけると、アイシングとアラザンとチョコスプレーで彩られたクリスマスモチーフのクッキーが詰められていた。

 かわいらしさに和むと、彼女の視線が一段強くなったようで、私はその場でヒイラギの付いたベルの形のクッキーを食べた。シナモンがきいていて大人の味だね、と私が言うと、彼女は、作ったの、とうれしそうに言った。それから、姉に教わったレシピなのだと、作り方を一つ一つこと細かに説明し始めた。手作りと聞いて、なぜか口の中が、ひやり、とした。

 バレンタイン、ホワイトデー、誕生日と、次々と贈られるプレゼントは、最初のスミレの花の砂糖漬け以外は、全て彼女の手作りだった。


 プレゼントがあまりに頻繁になってきて、私は息苦しさを覚えるようになっていた。

 図書室に並んで本を読む時、何げなさを装って椅子をずらすと、彼女は位置を変えずに瞬間的に頬を赤らめた。

 体質で火照りやすいのだと、言いわけのようにつぶやくのが聞こえた。

 近寄っていないのに、熱さは増している。

 そんな気配の圧が、怖かった。


 だから、正直、親の故郷に引っ越すことになったときいて、ほっとした。


 それからの私は、彼女にやさしくなった。

 いなくなってしまうのなら、親切にして思い出になってしまおう。

 そんな風に思い、いい人を演じることに徹した。

 それが、いけなかったのかもしれない。

 花びらを傷めないようにそっと指でつまむような扱いに、彼女は自分の気持ちが報われたように思ったのかもしれない。


 その日、最後の日。

 窓の白いカーテンを背景にして立っていた彼女の横を校庭からの強風が吹き過ぎた。ほこりが入るからといつもは閉められている窓が、その日は換気のために開けられていたのだ。


 風は彼女の艶々とした長いまっすぐな黒髪を舞い上げ、小柄な彼女を覆い隠してどこかへ連れ去ってしまいそうに膨らんだ。

 私は、思わず駆け寄って、彼女を抱きとめた。

 腕の中の彼女は、思いのほかしっかりとした温かな肉体を持っていて、決して現実から連れ去られはしないのだとわかり、ほっとした。

 私の安心が伝わったのか、彼女の両手がおずおずと私の背にまわされた。

 力強く抱きしめられて、息がとまりそうになる。

 臆病なばかりだと思っていた小動物が、追い詰められて、ひと噛みで肉片をちぎるように持っていくけだものに変化したような凶暴な力だった。


「は、なして」


 ようやく出た声はかすれて、ふいに風が止んだ。

 風がおさまった後、彼女は力を抜いて、頭を私の肩にのせてきた。

 その時には、もういつもの儚げな様子にもどっていた。

 


 翌日から彼女は欠席となり、そのまま引越してしまった。

 最後に一目会おうと、彼女の家に駆けつけると、私服姿の彼女がうれしそうに駆け寄ってきた。


「会いに行くから」


 思わず知らず口をついて言葉が出ていた。

 確証のない約束の言葉なのに、彼女はうれしそうにうなづいた。

 うなづいた彼女の輪郭が、くっきりと光った。

 彼女は、両親の待つ車に乗り込み、名残惜し気に振り返りながら去っていった。


 それから、日々に、同級生たちの適度なにぎやかさとそれなりのつきあいの気楽さが戻ってきた。

 これが本来の日常だったのだと、私は開放感に浸った。

 そして、彼女のことは、一時期の思い出になっていった。



 それを初めて見たのは、高三の夏休みのことだった。

 受験塾の合宿で疲れ果てて帰ってきた日の夜だった。

 その時、私は、金縛りにあっていた。

 子どもの頃よくなっていた金縛りは、成長とともにならなくなったのだが、その時は疲れているのだろうと私は思っていた。

 

 窓ガラスと白いレースのカーテンの間でふわふわとゆれているシルエット。

 それは、もどかしそうに口の辺りを動かすのだけれど、声は聞こえない。

 ライチの甘い香りが鼻先をかすめた。

 私は、ふいに、思い当たった。

 白いレースのカーテンに浮かぶのは、たぶん、樹杏だ。

 約束の催促に来たに違いない。

 彼女の香りを吸い込むと、私は、ゆっくりと息を吐いた。

 彼女の全てを、自分の中から追いやるように、長く深く、息を吐ききった。

 すると、金縛りが解けた。


 私は起き上がると、まだシルエットがゆれている、カーテンと窓の間に手を差し入れてみたが、一瞬で輪郭が崩れ、手のひらにぴしゃんっという音とともに、冷たい感触だけが残った。


 手のひらには、小さな水たまりができていた。

 手のひらにかいた汗どころの騒ぎではない量の水。

 手のひらに残された、小さな水たまり。

 のぞいたら、彼女の目にのぞき返されそうで、私は思わず顔をそむけた。

 


 霊感があるわけでもない私は、夢うつつで感じたものかもしれないと思いつつも、実感の伴う悪夢のような体験に身震いした。

 あまりに気になって受験勉強に手がつかず、私は、彼女に近況を伺う手紙を出した。

 電話をするのは、気が引けたのだ。

 ほどなくして、絵葉書が送られてきた。

 

「会いたい」


 さらりと書かれた文字は、筆圧の感じられない薄いものだったが、見覚えのある彼女の筆跡だった。

 消印は、彼女の引越していった町のものだった。

 会いに行くという約束を守ることができなかったことを、謝りに行かなければならないと思った。

 彼女の姉から譲り受けた文学全集を持って。

 この本を手渡して、彼女と過ごした日々は、かけがえのないたいせつなものなのだと伝えよう。

 あの頃は彼女の純粋さに気圧されて戸惑ったけれど、いい思い出だと伝えて区切りをつけよう。


 旅立つ前に、母から、家庭教師をしてもらっていた樹杏の姉の話をきいた。

 彼女は姉と言っていたがそうではなく、下宿していた遠縁の娘さんとのことだった。後に仕事先の海外で結婚したけれど、不慮の事故で亡くなったと人づてに聞いたと話してくれた。

 亡くなったのは、彼女が私に話しかけてきた頃だった。


 最初、彼女が話しかけてきた時の奇妙な距離感は、姉のように慕っていた人を失った不安定さからのものだったのかもしれなえい。

 その人の喪失を、彼女は受けとめきれなかったのだ。

 だから、少しでもその人の痕跡を求めて、私に辿りつき、すがりついた。

 その人からもらい受けた本を大切にしまってあったことを知って、きっと彼女は、私をその人を慕う同類とみなしたのだろう。


 もともとからだの弱かった彼女は、自分の強い気持ちのかたまりを、眠っている間に引き留めて置くことができないのかもしれない。

 だとしたら、このままにしておくわけにはいかない。

 脳の作用なのか霊魂の浮遊なのかわからないけれど、放っておいたら、彼女は自分を保っていられなくなってしまうに違いない。

 彼女を、もう、やって来られないようにしなければ。



 そして、私は、今、彼女のいる奥深い山の町へ向かう電車に乗っている。

 ようやく前方にぽつんと光が灯り、どんどん近づいてくる。

 トンネルを抜けたら、すぐに終着駅だ。

 私は網棚の荷物をとろうと立ち上がった。

 上着の端にひっかかって、窓枠に立てかけてあった絵葉書が舞った。

 拾おうとかがむと、慌てていたのか、指先を切った。

 にじんだ血は、「会いたい」の文字に沁みてにじませた。

 左手で絵葉書を拾い、血のにじむ右手の指を吸いながら立ちあがると、ついさっきまで見えていた前方の光が消えていた。

 気のせいだと頭を振って腰かける。


 だいじょうぶ。

 ここには白いカーテンはない。

 彼女はやって来ない。

 椅子から伝わる規則正しい電車の振動に誘われ、まぶたが重くなっていく。

 と、私の上に、ふわり、と何かが掛けられた。

 

 左側が熱い。

 肩が重い。


 閉じかけた目の端に見えたのは、黒髪と白。

 光に彩なす白いレースカーテン。

 覚えのあるライチの香り。

 膝にのせた文学全集が、湿り気を帯びたように重くなった。

 重石のように、私を動けなくする。


「やっと、来てくれた」


 ささやく声は、紛れもなく、彼女のものだった。

 声を出そうとするのだけれど、のども舌もくちびるも固まってしまって動かない。

 

「桂南が来るって言ったら、姉が、とても喜んでくれて。樹杏のことを、たいせつに想ってくれるお友だちができてうれしいって」


 もう亡くなっているはずのその人のことを、彼女は嬉々として語っている。

 漂ってくるライチの香りは、熟して饐えて、腐れた果実の不穏さを運ぶ。


 もしかしたら、この彼女は……


 私は、金縛りを解こうとした時のように、思いきって腐臭を吸い込んだ。


「苦しい、やめて、あなたが空気を全部吸ってしまったら、私、息ができない」


 凄まじい怨嗟の声が耳を汚し、脳をゆさぶり、全身を凍った毒の棘で刺されているかのようだった。

 その声は、ずいぶん大人びていた。

 むせかえりそうになるのをこらえて吸いきってから吐き出すと、痛みがすっとひいていった。

 文学全集が膝から滑り落ちた。


「すみません、荷物が網棚から落ちてしまって」


 女性の声がして、私の肩にかかっていたレースのカーテンをするすると巻き取っていった。

 現実が戻ってきた。

 左側の席を見ると、そこには、小さな水たまりがあった。

 触れようと手を伸ばしたら電車が大きく揺れて、はずみにゆがんだ水たまりから、水滴は散ってなくなってしまった。



 やがて、電車は、終点に着いた。

 電車を降りると、物憂げなライチの香りが漂ってきた。

 香りに振り返ると、ホームの端に彼女が立っているのが見えた。

 私は、本を両手で高く掲げて、振って見せた。

 ライチの香りを、ふり払うように。






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