愛は人肌

椎名甘楚

浴槽一杯の愛

「水という単語を聞いて、大抵の人はコップに入った無色透明な液体を、あるいは"青"という色について思いを馳せるかもしれない」


「はあ」


「それは至極当然の事であり、ややもすればそこから雨や涙、海なんていう連想ゲームを始めてもいいだろう」


 僕の目の前で独白のようにそう述べる先輩は、栗色の瞳をやんわりと細めた。


「ただ……私はと言えば、真っ先に思いつくのはお湯、そしてそこから湯舟、母親の胎内と言った思索を辿るだろう」


 唐突に聞かされたそれに首を傾げる僕。そんなこちらの困惑を知ってか知らずか、彼女は上気した頬に鷹揚な笑みを浮かべ、弁舌を続ける。


「私とて親愛なる母のお腹の中にいた時の事を決して覚えている訳ではない」


 ――――むしろ全くもって記憶には無いし、胎児の頃の記憶を憶えている程に器量の良い人間だったならばこんなバカな事はしないだろうね


 そう、言葉は続いた。


 僕にしてみても、もし先輩がそんな器量に溢れた才女だったならば、こんな場所で向かい合って話す事さえなかっただろうと思える。


「……では、何故湯舟から母親の胎内という式が成立するのかと問われれば、それは温もり。この一点に他ならないだろう」


「ふぅん」


 気の無い返事に対して、彼女は眉を顰めるでも、口を尖らせるでも無く笑って見せた。そして、まるでそれが続きを急く相槌にでも聞こえているかのように、言葉は接がれる。


「干刈あがたの小説の一文にも似たような文章があることから、それは恐らく事実に相違ない。そして、もし湯舟と人の……とりわけを比べたとして、どちらがより子宮回帰願望を沸き立たせるかが私は気になるわけだ」


「で、それがこうして無断で風呂場に乗り込んで来たワケですか?」


 非常に長いと言わざるを得ない言い訳を聞き終えた後、豊かな肢体を湯舟に浸けた先輩は悪戯な笑みを浮かべて此方へと手を伸ばした。


 狭い桶の中に押し込まれた僕と彼女を隔てるものは服一枚とてなく、抵抗なんて出来る筈も無いまま、抱き合うように身体を密着させれば浴槽から湯が溢れ出る。


 ほんのりと香るシャンプーの香りと甘い匂いが鼻腔を擽り、柔らかな肌に押し込まれる身体を充足感が満たしていく。


「さて、湯舟と私……キミはどちらがより愛を感じるかな」


 小さなアパートの小さな風呂場にて、彼女は今日も押し掛け女房よろしく僕をとびきり甘い愛で満たす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛は人肌 椎名甘楚 @shinakanso

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ